2016年12月20日火曜日

神と共に歩く。苦しい時には、神が背負ってくださる

道ばたの花を見て、「ワー、キレイ」と、誰かが言った。足を止めて、見ると、陽の光に照らされて、「確かに、全体が、きれいだ」。そう感じて、デジカメで撮った。何の花か、わからない。でも、一瞬、この花々には、こころを惹きつける何かが、あった。「通り過ぎれば、見れずに、おしまい、だったのに・・・」
★送られてきた冊子に、こんな意味の話しが載っていた。波打ち寄せるキレイな海辺の砂浜。そこに、2人の足跡、4つの印が点々と残っていた。それは、自分と、一緒に歩くイエスの足跡だった。ところが、ある所に来ると、1人分の足跡、2個しか、なかった。あの時が一番、苦しい時期だったのに、なぜ、1人分なのか。それは、苦しい時は、イエスが自分を背負って、歩いてくれた足跡だった。人は、いつも、神イエスと共に歩いている。苦難のときは、イエスが苦しむ自分を背負って、歩いてくださる。勇気を持とう・・・そういう内容であった。(これは世界的に有名な「足跡」という詩だそうです)
★気かつくか、見過ごしてしまうか、の問題です。立ち止まって、花に目を留めるか。苦しいとき、悩むとき、どうにもならないとき、イエスと共に歩んでいる、神は、傍に居られる、共に苦しんでくださる、そのように気がつくか。見過ごして、ただ、嘆き、苦しむか。現実に、見えない出来事を自分の体験にするのは困難なことです。
★老人とは、何なのか、時々考えます。頑固さがある。一徹さもある。それが有るから生きてこれた。もう少し若い頃には、主が共に居られる。主が共に歩んでくださる。そういう気持ち、信仰を体験をしたこともあった。歳、老いてくると、現実に固執して、それらの体験が難しくなるような気がする。老人とは、現実のみに、今の自分に固執しているように思う。
★午前中は、年賀状を書くのに、時間を費やした。午後、ロザリオから帰ると、戸に張り紙があった。「帰ってきたら、職員に連絡してください」。何事か、と思って連絡すると、「年賀状のお手伝いをしましょうか」と言われた。ああ、ここは老人ホームだな。「ご親切に、ありがとう。まだ、大丈夫です、また、ね」