2012年10月9日火曜日

黙想2日目。罪は悪いが、神は、こだわっては、おられない

黙想の家から見た、長崎の港の風景です。時折、汽笛が聞こえたり、大きな外国船がはいて来る。山の上なので、静かな場所だ。レンゾ神父さんの話は、「自分だけ、それは神の自分に対する呼びかけ。自分だけの、召命がある。それに気づきなさい」から始まったが、更にレンゾ神父は言った。「これは、自分しか出来ないこと。罪も、落ち度も、自分の1部であった」。それを聞いたとき、過去の落ち度を思い出して、この「罪も自分の1部であった」部分に、大きな慰めを得ました。有る程度、肯定しないと、ダメ、ダメでは、ゲンキが出ないです。罪は確かに、悪いが、今は、神は、こだわっては、おられない。そこで「神さまの愛は、どうしたら分かりますか」と聞く。それは、神が、私に対して、どんなに善い御方であるか、「神の善さ」の気づきにあるという。神さまは、私を、群集や、大衆の1人ではなく、私、固有の名前で呼ばれている。愛されている。この世が、いかに広くても、人類が多くても、私と同じコピーはない。そこに固有の召命があるというのです。結局、神さまというと、広大な、無辺な、宇宙を含めた壮大な存在をイメージする。そうではなくて、この私の小さな胸、小さな心に、神は着て下さる。名前を呼んで下さる。その神さまに、心を開けば、よい。私なりの仕方で、私、固有の求め方で、気づく。レンゾ神父は言った。「気づいたからには、感謝です。感謝と共に、何かの行動を起こしましょう」

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