2012年10月10日水曜日

黙想3日目。生かされて、今日も、祈るが・・・反省も

黙想に入る前、私なりに、幾つかの、こだわりがあった。その1つが、『生かされて、今日も、祈る』です。それは、そうでしょう。今年になって、入院、6回。病者の塗油の秘蹟まで受けたが、何とか生かされて、イノチつないで、今日も、祈りができる。ありがたいことですが、私は本当に、祈っているだろうか、の反省がある。聖務日祷や、朝夕の祈り、ロザリオなど、共同で唱える時には問題はない。怠ることなく果たしている。しかし個人で、本当の祈りができているか。ポーランド人修道士たちは外出する前、帰ってから、きちんと、聖堂へ行って、短く祈って出かけていた。私は見ているわけです。それを果たしているかと言えば、アタマをひねる。旅行をしたとき、外出して遅くなったとき、祈りをせずに寝る場合がある。これに反省するわけです。それは、形にはまった祈りかもしれない。出来ないことに、後悔があるわけです。個人でも単純に祈るようになる場合は、前々からの、習慣が必要でしょう。個人で、内面の、深い祈りがしたい、それが願いです。黙想に入って、レンゾ神父さんから、受けた『固有の召命』の冊子。これを読んでいると、次のように書いてあった。「祈りは、私たちが、神に差し上げるものではない。実際、神に私たちから与えることのできるものは、何1つないのです。祈りは、むしろ、神がご自身を私たちに与えられるように、私たちが心を開くことに他なりません。そこで、もし私たちが心を開こうとすれば、それは最も深い核心に触れるような、心の深みではないか。私たちが、真実に自分自身でいられるところ、私たち1人1人が、最も独自な自分であるところなのです」。これを読んだとき、別の方法でも祈れると、開眼しました。ロザリオの代わりに、ゆっくり聖書を読み味わうことも。私の場合、聖務日祷の「共同祈願」の祈りを、じーっくり、味わい、黙想する習慣ができつつ、あります。