2018年6月28日木曜日

「赦す心」今の社会で本当に赦せるか。安易ではない

絵は、しおうら・しんたろう・作の「焼けたロザリオ」マンガの1部です。原爆の日、負傷者の中に、私を叩いた、イジメた先輩工員が、重症を負って横たわっていた。それを見下ろして、17歳の私は言った。「いい気味だ。ざまーァ、みろ」。原爆の話の時に、いつも「助ける心」「逃げない心」。そして「赦す心」を説いている。私は許さなかった。でも、赦さなければ、平和は来ない。この話をするとき、先日、小学校で話した時もそうだった。「果たして、人間は赦せるのか」。これの話をする時、いつも心に『わだかまり』抵抗を感じている。
★いま社会では、余りにも事故、事件、詐欺が多い。「何となく」とか「誰でも、よい」感覚で、他人を殺し、傷つけ、ダマす、事件、事故、オレオレ・サギ。被害者の身になって考える時、「絶対に赦さない」「赦せない」と叫ぶのは当然であろう。だから、原爆の話でも、「赦す心」を言う時、チカラ強くは言えないのです。一般常識では通用しない問題でしょう。子供たちに話す時、いつも、ひっかかる。だから、その時、はっきり言う。「イジメは、ダメだよ」と。
★社会の常識では、赦せない。許して、いいのか。本当に、赦せるか。殺傷されたら、被害者は、本当に赦せるか。当然、社会では赦せない。もし赦せるとするならば、常識を超えないと、赦しは、ない。もう、相当むかしの話だが、民放のテレビが、カメラと共に来た。「カトリック信者の被爆者を取材したい。原爆に遭ったとき、どう感じたか、発言して欲しい」。原爆を落としたアメリカ軍も憎かったが、いま出会った、私を叩いた、この先輩が憎かった。カトリックだって、怒った。憎んだ。しかし我々の先祖は、迫害されても、憎まず、怒らず、耐えて受けた。そういう信徒たちも居た。だから、この苦難を受けて、耐えて、これから明るく頑張ろう。そう思ったが、勿論、打ちひしがれた人も居たのは事実です。それは当然のことです」。私は、テレビに映るのを拒否した。テレビは残念と言いつつ、帰っていった。
★いま、テレビが来たら、どう言うだろう。「憎んで、当然。恨んで、当然。仕返ししようと思って、当然。だけど、コルベ神父のような人もいる。人間には、とても出来ない。しかし出来る人もいる。そこに人間に失望するのでなく、希望がある。常識では、出来ない。常識を超えなければ、人間には出来ない」。そう答えて、出来た人を示すだろう。私も、そういう人になりたい。