2018年6月17日日曜日

父の日、父を想う日。北朝鮮に父の墓。墓参は不可

今朝の日の出です。ミサへ行こうと、自室を出たとき、廊下から、丁度、素晴らしい日の出を見ました。5時20分頃でした。日曜日のミサで、司祭が「父の日」でもあるのを告げました。家族の父親、天の御父の事にも触れました。
★今日は自分の父親の事を考えました。「とうちゃん、なんで、早よー死んだと」。小1で、7歳のとき、父は出稼ぎの地、北朝鮮・羅津で病死した。46歳でした。朝鮮の墓は、お椀を伏せたように土を盛るのです。今、あの墓が、どうなっているのか、分かりません。戦後1度はお参りに行きたかった。叶いませんでした。
★父親の名前は、松吉。霊名は、トマ。明治22年7月25日、外海・黒崎村で生まれた。貧しい農家の3男でした。電気はなく、吊り下げる石油ランプの家は上等の方で、一般は『ことぼし』という灯火の生活でした。『ことぼし』とは、細長い木の上に灯油のカンを乗せた灯です。電気が点いたのは戦後でした。長男だけを家に残して、次男、3男、4男は北朝鮮へ出稼ぎに行く。
★浦上出身の母と、どうして縁があったのか。黒崎の父の姉が、隣の男性と結婚して、出稼ぎへ朝鮮(韓国)で商売をしていた。母の方も、姉が結婚して、夫妻で朝鮮(韓国)で商売をしていた。母は、結婚前に、その家に子守の手伝いへ行っていた。父、松吉は、その縁で、見合いに朝鮮へ出かけた。「朝鮮へ見合いに行って、相手は目の細い女だった」という話が、黒崎の家に残っていた。確かに母は、目が細く、丸い顔をしていた。
★父、松吉と、母、ワサは、大正15年(1926年)3月13日に結婚した。父は、37歳。母は、26歳。11歳も年の差があった。結婚式を挙げた頃の写真が1枚残っています。父親の写真は、これ1枚しかない。母が立っており、父が座っている。父は足に少しばかりの障害があったそうです。父親の死後、母親は苦労した。10年後、その母親も、故郷の浦上で、原爆で行方不明となった。45歳でした。父親の遺骨もない。母親の遺骨もない。外海・黒崎の墓には、この1枚の写真を納めています。
★90歳になったトマは、父親トマ松吉に言いたい。「なぜ、とうちゃんは、はよー死んだとね。とうちゃんの思い出、なんーも、なかよ。サビしかバイ。とうちゃんから、なーんも教えてもらわん、やった。かなしかバイ。それでも、北朝鮮の墓に眠って、とうちゃんもサビしかろう。かわいそうや、ね。祈りは忘れません」

1 件のコメント:

  1. 私の父も昨年急死しました。
    はじめての父の居ない父の日。
    さびしかバイ。

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