2018年1月7日日曜日

天草の話。昔、ホームには、由緒ある女性が居た

長崎・聖コルベ館を出て、ホームで4回目の正月を迎えているのに、聖コルベ館へ年賀状が届く。その年賀状を手にして、大野神父さまが自室に来た。10枚程あった。滝神父さまの分も一束あった。大野神父さまは、聖母の騎士修道院で、修道会の修練長を勤めている。私の部屋を見回しながら、「母も、(県外の)ホームで生活している。元気で、92歳になる。1月に誕生日がくる」と言った。「ところで、コルベ師の映画、見ました?」「いや、丁度、その時、天草の巡礼に行っていた」「それは残念でした」「天草の教会巡りは良かったよ」。スマホで写真の数々を見せてくれた。私にとって天草は親しみのある懐かしい土地だった。大野神父さまは長居をせずに、瀧神父さまの部屋へ行った。短い時間で、お別れした。
★天草に付いて、少し書きたいと思う。1957年・昭和32年、当時の聖フランシスコ園に、山野キマさん(78歳・旧姓三宅)が入居していた。キマさんが言うには、自分は明智光秀の13代目と自称する。光秀の家臣に、安田佐兵衛が居て、光秀が滅亡した後、佐兵衛は秘かにガラシアの弟、左馬介を伴い、九州に逃れた。その一子が三宅藤兵衛で、彼は出世して天草富岡城の番代となる。三宅藤兵衛は、島原の乱の際、天草四郎軍が攻めて来て、本渡で合戦となり、戦死した。藤兵衛の子孫は、その後、熊本本家と、島原移住の2つに分かれたが、キマさんは島原移住の子孫で、旧姓は三宅で医師の家で生まれた。彼女の持っている系図も見せてくれた。
★キマさんはホームで静かに生活しているが、長崎・シスターの学校で学び、看護学校、師範学校でも学び、日露戦争では看護婦で従軍も果たした。その後は女学校の教師も勤める。結婚して、山野の姓に変わった。秘めた生活をした人がホームでは暮らしている。
★私は、昭和32年8月に、キマさんの話を元に、天草に旅をして、三宅藤兵衛の墓参をした。本渡には「殉教戦激闘之地」の碑が立っていた。近くの店で「天草四郎おこし」を売っていた。あの頃は、終戦12年目頃だから、時代は古く、有名なガル二エ神父の、賄いをした「茂助」の養子、森口等さんにも会えた。切支丹遺物を持っている山下さんにも会った。大江には地蔵が多く、天草の乱時代の庄屋の家も残っていた。あの人たちは、今も健在であろうか。

1 件のコメント:

  1.  小崎様の「日記」の読者で(三宅藤兵衛と別系統の)「明智光秀の16代目を自称する」者です。昨年は、「トマさんのことば」を送っていただき、座右の書とさせていただいています。ありがとうございます。

     「読者」と言いながら、毎日拝見できて昨いないので、コメントが遅れて申し訳ありません。その上、不躾なコメントで失礼いたします。

     今回の山野キマ様のお話、とても興味深く拝読いたしました。
     過去にこのお話を出版物(「聖母の騎士」「家庭の友」等)で公表されたことがありますでしょうか?もしあれば、教えていただきたいのです。
     と言いますのは、それにもとづいて(初代東大医学部長の)三宅秀が明智光秀の末裔であることを世に問いたいと考えております。
     

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