2013年1月22日火曜日

真理よ、我を正しい方向へ導き給え。安心するために願う

朝、5時に起きて、聖堂で、聖務を祈る。詩篇を唱え、共同祈願の文を味わう。「主の復活や十字架の赦しが今日の日を支えてくださるように」と唱えた。①ところが、心中、それらは遠い昔の出来事であって、平成の自分との間には、何か「壁」か「扉」の仕切りがあって、向こうの出来事が、いま、いち、ピンと自分の生活にひびいてこない。教えてくれた司祭たちも皆、故人となった。②今を生きる現代人にとっては何が一番問題なのか。家族の幸せ、世の中の平和、生活が出来ること、健康であること、などなど、次々に現実のイメージが浮かんでくる。③実際の幸せは、遥かに遠い。事実あるのは、貧困、失業、戦争、差別など、複雑な世相で苦しんでいる。幸せは、どこにあるのか。なぜ人間は、そうなのか、と嘆く。④そこで人は、何者かに祈る。自分を正す。相手を赦そう。病気や苦しみに耐えよう。前向きの気持ちになる。⑤なぜ、なぜと、疑問を投げかけるだけでは、救いにならない。疑問だけでは解決は来ない。⑥ここに突然、世の中には考えられぬ事件が起こる。原爆が天主堂の真上で爆発する。強制収容所で何百万の人間が殺される。⑦そして今年は、85歳。この歳まで生かされた。なぜ、生き抜けたのか、これも分からない。有るのは、生きていることへの感謝、生かされているからには、十分に生きよう、その気持ちも、ある。生まれたからには、満足して、納得して死を迎えれば、それでいい、とも正直、思う。⑧それにしても孤独や、孤独死は、可哀想だ。そこで当然、お互い助け合い、支え合って生きよう、その願いが湧き起こる。⑨人間の心の奥には、自然に、〇〇人、〇〇民族の壁を失くして、仲良くする、悪をキライ、善に向かう傾きが、ある。・・・などなど次々思いつつ、朝、6時から、30分間、聖堂で、黙して、ゆっくりと考えを、ふら付かせた。気持ちは、何だか、ラクになる。ありがたい時間だと思う。6時30分からミサが始まる。6時40分、1つの言葉が心に、グサリと、刺さる。「主イエス・キリストの父が、心の目を開き、どんな希望に召されているか、示してくださる」。6時50分、また、1つの言葉が更に、まともに迫ってきた。「真理の霊が、あなた方を、すべての真理に導いてくださる」。今朝、また、1つの小さな決着が、ついた。