★聖フランシスコのどこに惹かれて、フランシスコ修道会の修道士になったのだろう、と考える。お互いに「フラテル=兄弟」を呼び合う「平等性」。父なる聖フランシスコは、主イエスのように生きたいと望んだ。魚や小鳥に説教し、オオカミと仲良くなり、市民を和解させる。流れる小川や、きらめく星座を仰いで、兄弟よ、姉妹よ、と愛しんだ。清貧に徹した聖人の跡を歩みたい。
50年前、初めてポーランドのコルベ神父創立の二エポカラヌフ修道院を訪問。そこには250人の修道者たちがいた。トマと同じ修道服を着た、こんなに多くの修道士たちを見た感動に、心が湧いたね。大きなカラダで、同じ服を着て、明るい表情をしていたね。「アリガト」「ヤポンスキー」「ブラチェ=兄弟」。彼らは愛想が好かった。笑っちゃう、よ。でも考え、道は、1つ。國は違っても、そう思った時、嬉しかったね。祈る修道士たちの姿。修道士だからといって、欲や我が侭が消えたわけではない。人間なら、同じように誰しも持っている。コケる事もあれば、落ちる事もある。しかし一方で、聖なるものへ向かう気持ち、願いも確かにある。回心しては、少しだけ前に進む。その繰り返しの毎日です。こういう大勢の修道士たちの中に、日本人のトマが1人ポツンと立っていると、ふしぎな感覚に捕らわれた。そんな昔の思い出を今日は考えました。★「いけないことは、無くしていこう。これが人間、本来、持っている、姿です」
師父聖フランシスコの祭日おめでとうございます!
返信削除ニエポカラヌフ修道院を歩かれるフラテルの姿に、
返信削除ああ、この方達はひとつひとつ赦されて
進んでおられる方々なのだと実感しました。
昭和40年代でしょうね。
大事な記録を共有くださり、
ありがとうございます。
がぶらってぃにも、大勢の中のたった一人の
日本人だった経験があります。その時の
出会いも、神が用意してくれていたものと
わかります。祈りの中に彼らがいる時、
心に何かが点ります。