2018年9月3日月曜日

母は、よく言った。「着物はキチンと、たたむのよ」

テレビで、平成の大学生へ質問。「白いご飯に、真ん中に梅干1つ、ナニ弁当か?」「戦争弁当」。ブー。「日の丸弁当」。ピンポン。昭和12、3年頃、小学生の頃、よく食べた。中国と戦争をしていたから。節約のため日を決めてクラス全体が食べた弁当です。
★写真は少年時代に暮らした北朝鮮の町です。3枚残っている内の1枚です。今朝は、なぜか、日の丸弁当から、少年の頃に戻りたい気持ちになった。現地ではニッポン・ジンの意識が高かった。それと同時に「朝鮮の人たちには、申し訳ない」と、子ども心ながらも思っていた。
★あの当時の愛読の雑誌は「少年倶楽部」で、躍進するニッポンを楽しみ学んだ。「内地」への憧れは強く「富士山」が象徴でした。「少年倶楽部」には将来を見越してか、「東京に大空襲が起こる」の記事も載っていた。今、考えると数年後、現実となる。記事の絵の壮絶さを今でも記憶している。
★北朝鮮の町で生まれ、13歳の秋まで「外地」に居た。思えば懐かしい。スズランの花の広がる山、八目ウナギを取った川、カケッコした町の通り、少年には楽しい思い出です。母の故郷・長崎・浦上へ帰った2ヵ月後に、太平洋戦争が始まった。
★少年の私に、母はよく言った。「何事か、起こったとき、すぐ逃げられるように、着ている着物は枕辺にキチンとタタンデ置いておくのよ」。あの母の言葉は生涯いきているように思う。デレ、デレした動作は好まない。部屋も一応、片付いている。しかし衣類は整然とタタマナイが、脱ぎ散らしはしない。大人が教える子供の頃の習慣は根が生える。教育は大切だ。母は手紙を書くとき、必ず下書きをしていた。字もきれいだった。その心は今につながっている。身をもって教えた動作は、ありがたいと思う。
★母は、カトリックの信仰、信心に熱心だった。母の里、浦上に帰って、その原点に触れて、体験して、母の心情がよく分かった。北朝鮮の町から、何も持って来なかったが、心の中に信仰だけを持ち帰った。これが一番のタカラ、有り難かったと、感謝している。子は老いても、母は若い。