2017年2月13日月曜日

なぜ神は沈黙しているのか。信徒の苦しみは過酷だ

「沈黙」の映画を見た。正直言って、まず感じたことは、私が、自分が「罪びと」である再確認だった。修道士として、誓願は立てたが、神のみ旨を守られていない。罪びとである自覚が強く残った。目には見えないが、踏み絵を何度も自分は踏んできた。その度に、コンチリサン(告解=許し)を祈ってきた。しかし再び踏んでしまうのです。常に、踏み絵を踏みつづける人生だったと思う。
★この私に、自分に、救いはないものか。天の御父なる神をみる。それは「お父さん」。神は、底知れない程の慈愛深いお父さん。何度も、何度も許す、どん底の人をも許すお父さん。御父なる神の愛、無限の愛に包まれて、我々には救いが有る。
★私たちは、困ったとき、願いがあるとき、神に祈るでしょう。願いが叶えられると、神の恵みがあったと喜ぶ。それは確かに感謝すべきです。ところが人生には、病気、失業・倒産、家族の不和など多くの困難が起こる。これも自分の運命かと、前向きに受け止めて、耐えていくことはできるでしょう。
★しかしキリシタンの迫害は、余りにも残酷すぎる。「沈黙」の映画は、雲仙・地獄の熱湯かけから始まった。あまりにも残酷な、キリシタンの責め苦が延々とつづく。信徒たちは、こんなにも主のため、キリストのため、いのちを捧げて、祈り、苦しみに耐えているのに、信仰をしている神からの助けはないのか。何事も起こらない。神はなぜ沈黙しているのか。誰もが考える。人間は弱いのです。しるしを求めたいのです。
★帰りの車のなかでは、沈黙がつづいた。あまりにも、「重たい」映画のせいであろう。車には、4人が乗っていた。高原修道士が運転。隣の教会の浜田神父さま。入江さん、それに私だった。思いは複雑だ。結論は、すぐには出せない。入江さんが言った。「オレは、十字架は、踏まん」。しばらくして、また言った。「人間は弱か。その時になってみんと、わからん。神さんの助けがあろう」