長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年3月31日火曜日
苦しみには、3つの意味がある。祈りながら喜びを
昨夜、年の黙想、2日目。五島出身の神父さんのお話があった。問いかけ。「信仰して、幸せですか?ツライですか?」。よく宗教に入りなさい。病気が治りますよ。苦しみから逃れますよ。いい所ばかり言う宗教がある。これは本物ではない。「己を捨て、己の十字架を背負って、我に従いなさい」。厳しさがある。しかし喜びもある。苦しみは誰にもあります。その苦しみの意味をわかる人は幸い。苦しみには、3つの意味がある。①は、つぐない。罪を犯した、弱さがいっぱいあった。神さまの前に、つぐないをする。本当の清めです。本当の宗教には、それがある。また②苦しみは、この痛みを他の人のために捧げることができる。教皇ヨハネ・パウロ2世が、教皇になったとき、老人ホームをたずねました。老人たちを慰めて、「不自由でしょう。苦しみがあるでしょう。その苦しみを教皇の任務のため、ささげてください」と頼み願った。この苦しみを、誰かのために、ささげよう。耐えていこう。それが出来るんです。③キリストの十字架を見つめなさい。キリストに、愛と信頼。喜びと、楽しみは違います。祈りながら、悩みながらも、苦しみを、愛の喜びに変えていく。難しいことではあるが、それが信仰でしょう。キリストご自身が苦しんだ。模範を示された。神父さんの話を聞きながら、あるキリスト教の作家が、身体的に大変な苦しみ、不自由、痛みに生涯おそわれながら、著名な作品を次々に発表した。その作家が、かなり、ひどい苦痛に落ちたとき、「神さまは、やっと、自分の方に、向いてくださった」という意味の言葉を言った。喜んでいたという、むかし聞いた話を思い出していた。これこそが信仰でしょう。苦しみの意味は祈り、悩み、苦痛など、からまった神秘性にある、そう思います。いま、くるしいですよ。不自由ですよ。苦痛が現実なので、明らかな意味を持つには、相当の信仰がいることを実感します。★千葉の典子さんからの「ばら」です。
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千葉の典子さんよりの薔薇、薄い緑色が清廉な感じですね。またこの薔薇が生きるような活け方がしてありますね。生きている限り苦しみはあるのですが、苦しみをしっかりと受け止める生き方ができると、人間に深みが生まれ、そしてちょっとではへこたれない強さが生まれるように思います。苦しみの副産物ですね。そういう方々をたくさん見てきました。しかし私は「もう苦しみはいりません」と言ってしまいます。残念な人間です(悲)。
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