2014年12月11日木曜日

70年前に書いた日記、兵器工場から、原爆へ。悲惨なり

今から、70年近く前に書いた「原爆日記」です。12月になると、どうしても太平洋戦争のことを思い出します。真珠湾攻撃、日本の飛行機が魚雷を発射して、軍艦を次々に爆破した。その魚雷を、三菱の兵器工場で作っていたのが、16歳の少年だった。そのヒミツの兵器工場は、山をくりぬいたトンネルのなかにあった。いまでも残っている。16歳で、よく働いたよ。17歳になったとき、原爆が落ちて、少年はトンネル工場のなかで被爆した。工場は、海軍の配下にあり、海軍の兵隊が守っていた。原爆が落ちたとき、トンネル内部は、大混乱となった。すると海軍兵士が、銃に剣をつけて、「お前たちは、トンネルから出て行け」と、真剣に、のけ者にされ、追い出すのであった。日本人が、日本人の軍隊から威嚇されたこと、その恐ろしさを今でも覚えている。戦争の映画をみたとき、真珠湾に打ち落とされる魚雷があらわれると、自然に、拍手をしていたのを、また思い出す。人間って、自分の立場でしか、物事を考えない。お互いに死傷者が出る戦争は、絶対に、起こしてはならない。平和の時代がつづくのを望んでいる。

5 件のコメント:

  1. マリア・フランチェスカ2014年12月11日 13:35

    小崎さんの原爆日記は今では貴重な資料ですね。
    ぜひ活用されて欲しいです。
    戦争のない平和を願いいます!
    17歳の時から日記を書かれていたのですね。
    小崎さんのペンの力がある理由分かりました。

    Kokoさま
    息子さんのように大事にされている方なのですね。
    ご心配なことでしょう。もちろんです。
    ご子息のため、ご家族のためにお祈り始めました。

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  2. 真珠湾攻撃、原爆の日 必ず こちらも新聞、テレビでニュースになります。毎年 何人かの人が "I am sorry" と 言われるのです。被害者 意識もあったのか 返事に 困った時がありました。後で わかったのですが 彼らのご家族の方々も 被害者でした。 他の方からのご説明だと 息子達が どのようにして 亡くなったかを知り 苦しまれたそうです。信仰から 平安を得られたと 聞きました。両方の戦没者も苦しみ、残されたご家族も 苦しみ、 私は 両方の苦しみの 涙を肌身に感じました。カナダでお住まいの 友人とご主人は カナダの人達と一緒に 原爆反対、世界に平和へと 運動に 参加していらっしゃいます。その友人が送ってくださった お写真拝見しましたら 聖コベル館に 戦後 多くの孤児達が神父様、修道士様たちのお世話を受け、 その中に トマ様の 若きしお姿も、 と思いました。 ゼノ修道士は すぐわかりました。 このお写真 カナダの ある会合の時 掲示されてました。自分の周りから できる事から 始めないといけませんね。

    マリア様 ありがとうございます。母親の気持ちを思うと 胸が一杯になります。今まで 元気に 大学院へ 行ってた息子さんが ある日 難病で 帰宅し、 共に 闘って いらっしゃいます。 あなた様も お母様の為 頑張って 今日が おありなのでしょうね。イエス様に 繋がっているから とその友人が 言われました。あなた様も 友人も 闘いは これからもつずくのでしょう。 ご一緒に お祈りできます事、神様へと心が 向いて生活できます事に 感謝です。

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    1. 昨夜 トマ様と色紙の夢を見ました。 主につながれておれば豊かな実を結ぶ。 私の友人とその息子さんに この色紙を 以前 差しあげていました。

      又 私は いろんな会合に出席はしましたけど 個人的にI am sorry と言ってないのにきずきました。今までたくさん機会が あったのに。

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  3. マリア・フランチェスカ2014年12月11日 16:20

    Kokoさま
    お優しいコメントと励まし有難うございます。
    お祈りご一緒させて頂くお恵みを頂き感謝でございます。
    Kokoさまにも神様の祝福が豊かに注がれますように☆

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  4. 大人びた文章と筆跡ですね。すでに文字が枯れて良い味を出しています。わずか17歳の少年がこのような文章を残していたのです。戦争は反対と口で言うだけでなく私は投票によって意志表示をするつもりです。そうでなければ反戦を訴えて聖コルベ館に立ち続けられた小崎修道士様のご意志が無になると思います。いつも勇気をいただきます。ありがとうございます。

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