2016年8月9日火曜日

長崎・原爆。71年目の夏。家は燃え、母は行方不明

悲しい日です。大きく人生を変えた日でもある。写真は、昨年の3月、愛野教会で、原爆の体験を語ったときのものです。(神田千草さんが写す)
★71年前、17歳だった。後ろの絵は、母の写真と、家を出て、母に、「行って、くるけん、ね」と声をかけているところです。今でも忘れないシーンです。
★家は原爆の爆心地から、500m。爆風と、高熱と、放射能で、家は吹き飛び、母も飛ばされ、行方不明となった。遺体を見つけることが出来なかった。悲しいですよ。涙も、出ず、ただ呆然とするばかり・・・・。
★18日間、原爆の丘で生活して、思ったことは、「2度と戦争はするべきでない。核兵器廃絶、平和を願う世界でありたい」、それらは、その日から、今も変わりは無い。原爆の悲惨さを、沢山、沢山、体験したよ。
★しかし一方で考える。正直、言って、17歳の少年は、原爆の廃墟の燃える丘で、どのように生きたのか。これが私の人生のテーマになった。「助けを求める人を、助けなかった」「助けていたが、飛行機がきたら置き去りにして、逃げた」「私に気合を入れた先輩工員が、重症を負っていた。それを上から見下ろして、『いい、気味だ。ざまーみろ』と、許さなかった」。これが誰にも言えない、事実だった。そこから考える。
★人間の基本は、「助けない」「逃げる」「許さない」、この三点に尽きるのではないか。これが誰もが持っている弱さだ。特に「許さない」これが難しい。心に負い目を負いながら、私はポーランドの修道者のなかに飛び込んだ。そこで知りえたのが、「コルベ神父」だった。
★コルベ神父は、「助ける人です」「困難が来ても逃げない人です」「ナチの兵隊まで、許す人です」。コルベ神父に、人生の回答があった。人間としての、救いがあった。
★右の図は、原爆の日、私の行動ルートです。爆心地から、2.3kmの兵器トンネル工場で被爆して、矢の印のように歩いた。昼の12時頃、トンネルを追い出されて、普通は、家まで、30分ぐらいで行けるのに、その日は、5時間を要した。様ざまな出来事があったのです。
★翌日、8月10日から、26日まで、爆心地から、800mのところに、テントをはって暮らしていた。3人の女の子の遺体を燃やしたときは、本当に悲しかったよ。
★原爆で亡くなった母のため、親戚のため、多くの人たちのため、安息を祈り、絶対、戦争はしないと、約束したいです。