2017年10月26日木曜日

原爆当時を思い出す女性が、突然、訪ねて来た

浦上・カトリック信徒の永井隆(医師)先生と、田川初治(小学校教諭)先生です。2人は原爆の生き残りの浦上の若者たち、7,8人を、終戦になると直ぐに、聖母の騎士修道院に篭もって、ポーランド人宣教師ミロハナ神父の指導を受けて、懺悔(ざんげ)の日々を行なった。そこから彼らは再出発を果たしている。7、8人のうち、2人だけ(永井先生と田川先生)がその後も聖母の騎士に残って、浦上は焼け野原だから、夜はここに宿泊し、昼間は浦上で仕事をされていた。その時、私は聖母の騎士に入ったので、その辺の事情はよく覚えている。
★夜になると、神学校の自習室に、永井医師と田川先生は度々来られて、持ち前の童話と体験談を語って、神学生たちの腹がよじれるほど笑わせた。田川先生は童話を、永井先生は中国での体験を聞かせた。話術の素晴らしさを学んだのは、その時だったと思う。テレビがない時代である。話術が人の心を如何に魅了し、惹きつけるかを知った。
★終戦の翌年の春、神学校が「中学」として復校すると、永井先生は理科を、田川先生は事務を勤めた。私は2人の先生にお世話になった。生涯で忘れない教師である。6年後、永井博士は原爆病で亡くなる。田川先生は大阪の学校に転勤なさって、晩年は病に苦しまれたが、長生きされた。
★戦後、「日本26聖人」(無声映画)の弁士を勤められ、私などは感動で涙を流した。その後、フイルムが行方不明となる。十数年を経過して、フイルムが発見され、今度は私が二代目弁士を勤めた。大阪で田川先生にお会いして、教会で、先生をお招きして、弁士を行なったこともある。先生は涙を流してくださった。
★その田川初治先生の娘さんが、突然、ホームに訪ねて来られたのです。昨日のことでした。写真の右側が娘さんの登美子さんで、左は同級生の壽子さんです。田川先生のご家族のことを聞かされました。先生は妻のミヨ子さんの間に、男3人、女3人の子供さんが居られる。原爆が落ちたとき、先生は郊外の学校に勤めていたので無傷で助かった。奥さんと子供4人が家もろとも犠牲となる。登美子さんは県外に居て、助かった。弟は山里小学校の防空壕の奥にいて助かった。しかし今は病を得ているという。
★突然の訪問に、田川先生の思い出話は尽きず、懐かしい思いに喜び合った昨日でした。人間の生命は、どういう「きっかけ」で生死を分けるか、解らない。生きている、いや、生かされて来たのは、本当に、どうしてなのか、これも解らない。