2015年5月16日土曜日

信心の反省、糾明は別にある。迷いに悩む毎晩です

今の心境です。この世のことで、満足するっていうことは、ないでしょう。絶え間ない欲がありますから。でも、小さくても、いい。小さな喜びを見出さなければ、人は生きていけない気がします。★毎晩、小さな机に、祈り本を開いて、いつも、1日の反省、糾明の項目にページがきます。糾明って、何があるんだろうか、常に迷うのです。ホームで生活して、別に争うわけでもない。ウソ言うわけでもない。何か、文句があったかな?ない、ない、で終わっていいのだろうか。これらは道徳の反省で、宗教の反省、糾明は他にある。違うと思います。それは何なのか。信仰とは、どれだけ神さまの愛をバクバクと受け留めたか。どれだけ神と信じるイエスの存在を、わたしの傍に居られると本当に、感じていたか。慈悲の行為といっても、自分が行なうのでなく、自分は無で、これは神さまが行なっておられる、そう信じてこそ本心に迫ることになる。★その辺が、いつも、うやむやに、なるわけです。まだ判っていない。つかんでいない。それだけ、心の濁りを感じながら、毎晩の糾明を過ごしております。だから「小さな喜び」とは、手のヒラで輝く光の玉のようなもの、と考えております。

1 件のコメント:

  1. 毎日の小さな喜びを発見すること、容易ではないときもありますが、こうすることが生きている感謝につながっていく、そんな感じがしています。

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