長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年5月16日土曜日
信心の反省、糾明は別にある。迷いに悩む毎晩です
今の心境です。この世のことで、満足するっていうことは、ないでしょう。絶え間ない欲がありますから。でも、小さくても、いい。小さな喜びを見出さなければ、人は生きていけない気がします。★毎晩、小さな机に、祈り本を開いて、いつも、1日の反省、糾明の項目にページがきます。糾明って、何があるんだろうか、常に迷うのです。ホームで生活して、別に争うわけでもない。ウソ言うわけでもない。何か、文句があったかな?ない、ない、で終わっていいのだろうか。これらは道徳の反省で、宗教の反省、糾明は他にある。違うと思います。それは何なのか。信仰とは、どれだけ神さまの愛をバクバクと受け留めたか。どれだけ神と信じるイエスの存在を、わたしの傍に居られると本当に、感じていたか。慈悲の行為といっても、自分が行なうのでなく、自分は無で、これは神さまが行なっておられる、そう信じてこそ本心に迫ることになる。★その辺が、いつも、うやむやに、なるわけです。まだ判っていない。つかんでいない。それだけ、心の濁りを感じながら、毎晩の糾明を過ごしております。だから「小さな喜び」とは、手のヒラで輝く光の玉のようなもの、と考えております。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
毎日の小さな喜びを発見すること、容易ではないときもありますが、こうすることが生きている感謝につながっていく、そんな感じがしています。
返信削除