長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2015年5月17日日曜日
お礼は、いい。心配しないで。受けた方がいいのか
農家の道ばたに、「びわ」が成っていた。「ああ、もう、この時期になったのか」。長崎といえば、びわの産地です。思い出ばかりが、つのるだけで、まだ食べていない。見ただけでした。★昨日、夕食後、「トン、トン」と自室の戸をノックする者がいる。車椅子の、ホホが、まあるく赤い、お年寄りの女性が、小さな袋を差し出した。いつも食卓で、ポットにお茶を入れてあげるから、そのお礼のつもりでしょう。世間、一般の常識ですか。自分にとっては、そんな、つもりは、ない。「いいよ、いいよ。そんなにしなくても」と、押し戻した。だが、待てよ。せっかく車椅子で、ここまで来てくれている。すげなく断わるわけにも、いかないと思い、一応、受け取った。これで、2度目だった。★困っております。今朝、朝食が終わった後、居残っていた女性の耳元でささやいた。「ありがとう。でも、ね。気にしないで。いつものように、お茶は、入れてあげるから」。迷っております。一般人の気持ちか、自分の小さな奉仕の考えか。これまで気にせずに生きてきました。一般は、そうは、いかない。どっちが、いいのでしょうかね。受け取った方が、いいのか。気にしないで、と断るのが、いいのか。今まで生きてきた気持ちは、お礼は無くていいし、期待はしない。そう、仕付けられてきた。ホームに入って、小さなことだが、迷うことが多々あります。生活の中の一こまです。
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喜んで受け取って差し上げたら、きっとその方も嬉しいのではないでしょうか。誰かに喜んでいただくと、幸せな気持ちになりますもの。
返信削除トマ様の優しいお気持ちが、きっとそのご婦人の心に光を灯されたのでしょう♪
車椅子で、頑張ってお出かけになられたのでしょうね・・・。
なんだか胸にじーんと沁みました。
お礼を断ったほうがいいのかよくないのか、難しいですね。お礼をもらうのが心苦しいことありますよ。相手をがっかりさせることなく上手に断れる人がうらやましかったりします。小崎さんがなさったように受けておいて「今後はお礼は結構です」という方法もアリではないでしょうかね。
返信削除お礼が心苦しいなら、今後は「お気持ちだけいただいておきます」はどうでしょうか。
返信削除映画「バベットの晩餐会」でデンマーク人元将校のこんな台詞がありました。(フランス滞在中の回顧談で)
「神父が言っていた。「天国に持って行けるのは、与えたものだけだ」と」
見返りを求めない愛がますます輝きますように!
見返りを求めない、という修道士の道を歩んでこられた方の戸惑いに、深く思いが至らなかったと反省しています。晩年、車椅子の生活を送った母の姿と重なってしまいました。
返信削除どのような対応であれ、トマ様のお気持ちが、その方に真っ直ぐに伝わることをお祈りしています。