2015年10月15日木曜日

評価されて、人は生きがいを持てるのか。なら、ここは?

生き、生き、とは、人に必要とされること、だそうです。テレビが言っていました。「人に喜ばれて、自分のおこないが評価されて、人に認められる、そこに、生き、生きがある」そうです。そういわれていても、ホームでは、評価されることがあるのかなァと思います。自室にバラの花をさしました。
★ロザリオが終わったあと、県外から面会にきた夫妻が待っていた。「ああ、ひさしぶり」。聖コルベ館で、もう、10年、20年も前から、古くから、ルルドのお水で知っている。奥さんが聖母の騎士のルルドのお水でお恵みをいただいた。出会ったときは、いつも寸志をくださる夫妻だった。もう、トマさんも老いぼれてしまって、自分たち、わかってもらえるか、心配してきました。元気そうで安心した、と喜んでくれる。
★長崎へきた目的は何ですか?「第一には、セルギウス修道士さんのお墓参りに来ました」。セルギウスさんから大きな慰めをうけた。わすれない。ひさしく来なかったが、やっと浦上のカトリック墓地に行って、望みは果たした。セルギウス修道士さんは103歳まで生きて、愛の痕跡を残したポーランド人だった。「次に、ルルドのお水を、大きなペットポトルに6本、箱につめて宅急便で送りました」。精神は忘れていない。別れに際して、ちゃんと、寸志はいただいた。

1 件のコメント:

  1. 『カトリック生活』11月号で片柳神父が言われています。
    ≪修道生活の「清貧」は物から解放されること、「貞潔」は人への執着から解放されること、「従順」は自分から解放されることで、段階で進んでいます。物から開放されても人へ執着が残る、最後まで残るのが自分への執着。それも従順で解放されていく、完全に解放された自由な姿で神の前に立つということが修道生活の理想なんですね。≫
    私には「目からうろこ」のことばでした。
    どこでどんなリズムで暮らしていても、神の前で自分らしく自由にお過ごしください。

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