食事が終わって、立ち上がると、すぐ横のサッシ戸を開いて、山側を見る。これが、その風景だ。中央に、白いマリア像。朝夕は肌寒くなった。食卓では、6人が老人むきの食事を戴いている。テレビなどで、家族で、老・老・介護などの実態の姿を見る。夫も、妻も、高齢化して、お互いに介護するのも大変なご苦労がある。おそらく食事も、まま、ならぬであろう。それを考えると、ホームの生活は安心であり、幸せだと思う。昼食には、柿も食べた。
★修道院に入って、仲間と共に同じ修道者と生活して、苦楽を共有して、それぞれ神への道を追及していく、それが並みの道であった。満足していた。普通であり、長年、過ごしてきた、当然な生活であった。それが身体の都合で、急に1人になり、ホームで、一般の人たちと生活しなければならない。戸惑いもあったが、考えてみると、神は、ここにも居られる。神のお望みの道が、これかも知れない。「お前が、これまで修業したことは、本物なのか」。これからが真骨頂が試される。本ものの修道者であったのか。場所が変わっても、本質的なところは変わらぬはずだ。それが、神から問われている。
★これまで培ってきた自分の霊性が、祈りにせよ、考えにせよ、他者への愛にせよ、犠牲にせよ、修道服を着ていたときは、格好はついていただろう。しかし本物の修道者であったのか。いまを、どのように生きるのかが、道となった。孤独を感じても、神の愛に恵まれている。神から修道者として愛されている。その自分が本物だったのか、本質的なところが、問われているのを感じる。
★いまを受け入れて、「みむねのままに」と、幸せになれ。
小崎さんの今日の日記心に強く響きました。
返信削除小さな者ですが札幌からお祈りしております。
今日こそコメントが公開されますように。
何かの不具合でしょうか?
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