2017年9月15日金曜日

朝からのニュースで、北朝鮮が核弾頭を打ち上げた

母と、私の小学生の頃の写真です。
★今朝のテレビは全局、北朝鮮が核弾頭を打ち上げた、2度目、北海道上空を通過して、太平洋に距離を伸ばして落下した。「逃げてください」「アタマを隠してください」と、そればかりの報道だった。午後から、テレビは見ていない。
★北朝鮮の日本海に面した最も北の町に、雄基(ゆうき)がある。昭和の初め、この町には2千3百人の日本人、9千人の中国人、そして1万1千人の朝鮮人が住んでいた。両親と、伯父、叔父夫妻は出稼ぎで、私はこの町で生まれた。忘れもしない、オンドル部屋の、ツルツルした紙の感触と独特の匂いを、今でも覚えている。ひょっとすると、オンドルで私は生まれたのかも知れない。
★両親は、伯父、叔父たちと、精肉店を商売にしていた。牛や鶏を飼育するのは朝鮮人で、彼らとは深い付き合いがあり、幼児の頃の私は、白い朝鮮服を着た男たちの膝の上に抱かれて、長いヒゲが生えた男たちの愛撫で育った感触が、今は懐かしい。朝鮮の人たちは、私たち庶民にとっては、みな、良い人たちばかりで、親しみを感じた。だから朝からの報道で、北朝鮮が核弾頭を打ち上げたのを見て、悲しくてならない。「少年の頃の良い思い出があるのに」。確かに、育つに従って、日本人が、よい場所に住み、朝鮮の人たちは裏手に追いやられている現実も知った。
★私が、4歳のとき、「満州国」が誕生した。雄基から、ひと山越えた港に、人口僅かに、千3百人、うち日本人は百3十人の小さな村があった。満州国が成立すると、一気に、この村が日本人の手によって開拓され、5、6万人の日本人が住む都市になった。私と母は、伯父、叔父たちと別居して、その都市に移り住んで、商売をつづけた。小1から、中1まで、この町、羅津(らしん)で過ごすようになる。13歳のときに、長崎へ帰ってきた。
★北朝鮮が爆弾を打ち上げる報道を見るたびに、複雑な気持ちになる。私にとっては故郷であり、子ども時代の思い出も沢山ある。冬のスケート、春のスズラン畑、川遊び、土曜、日曜は、伯父・叔父さんたちの町に毎週出かけた乗り合いバスの楽しみ、など、また、朝鮮人のカトリック信徒や司祭も居り、教会も通って祈った。釘や鉄類を集めておくと、朝鮮アメを背負って来て、交換してくれる老人も居て、懐かしい。
★それらを考えて、今日を過ごした。日本の上空を核弾頭が飛んで行く。一体、これから、どうなるのだろう。長崎で原爆を経験しているから、なおさら恐ろしい。日本の安全は守られるのか。私には、まだ、まだ、日本人は核爆弾に無関心な気がしてならない。

1 件のコメント:

  1. 初めてコメントさせて頂きます。今日のブラザー小崎様のメッセージ、いろいろ考えさせられました。私は今ちょっぴり似たような気持ち(今日のブラザーのお気持ちに)を感じてます。詳しくは申せませんが、私も北鮮ではないですが、当時満州国の海辺の町「山海関」で生まれた(1944年)ので、もしかしたら残留孤児になっていたと親から聞かされていたからです。ですから私にとっては父母から聞いた中国人の(当時我が家でメイドをしてくれていた)イメージしかなかったですから最近の中国の為政者の言動や半日感情を未だに露骨に持っている中国の人の報道を見聞きする度に複雑な悲しい気持ちになるからです。
    今日は時間がないのでこの辺にて(祈りの時間ですので)失礼致します。北の修道士(取りあえず)

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