2014年2月8日土曜日

やっぱり考える。「主よ、居られましたか」。救いはあるか。

愛されて、親しまれる人生が、最高さ。そう、思いませんか」。こんなゼイタクは、ないでしょう。今朝、考えました。手術台にねて、両手を大きく広げて、まるで十字架に架かったように、苦しんできた。あのとき、「主よ、あなたは、ここに居られますか?と、考えましたか」。主は、苦しみのベッドの傍に居られるか。★病人がベッドに釘づけに、なっているのに、誰も来ない。見舞いに、来ない。慰めに、来ない。困っていたところ、ある宗教団体の女性たちがきて、助けてくれた、慰めてくれた、だから自然に、その宗教の教えを受け入れた、そんな話題を聞いたことがある。当然でしょう。病人は助け、慰め、励まし、独りで無いこと、求めている。★だが、ここで、きょうのトマさんは考えた。主よ、居られますか。目に見えない。いくら物理的に考えても、主の姿は見えないでしょう。「見えなくても、主が居られる、感じる、それが信仰なんです」。信仰とは、目に見えないものを「信じる」ことです。見えなくても、感じれば、いい。「もう、孤独を、嘆くまい。独りを、寂しがるまい。幸せは、ニンゲンからは、やって来ない。もの、からは、やって来ない。目に見えないものから、感じに満たされる。けさのトマさんは、何か、そう思いました。★ベッドの苦悩を広げれば、ニンゲンは、もっと、もっと、時には最低の苦悩に落とされる。「原爆の丘に、主は居られましたか」「アウシュヴィッツの餓死室に、主は居られましたか」。身震いする程の恐ろしさが、ある。

1 件のコメント:

  1. 事件や事故、病気などで幼子の命が消えるとき、いつもそう思います。
    でも、それでも希望を捨てないことが信仰なのでしょうけれど。

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