2012年5月28日月曜日

新聞記者が「マリアの信仰」。6月3日の記事、お楽しみに

東京から、経済新聞の女性記者が取材に来る。「5月13日から6月3日まで、毎日曜日、『マドンナの系譜』の連載記事を載せている。6月3日に、聖母の騎士のルルド祭の写真と、キリシタンの雪のサンタ・マリアの写真を載せて、記事を書きたいです」という。6月3日の日経新聞を楽しみにしている。ついでに記者さんは、私と2時間ほど話して、キリシタン、原爆、コルベ神父など聞いてくれた。これは記事には関係ないが、記者さんが何を聞くのか、私の方が益(タメ)になった。「修道士になられたが、幼い頃から、宗教の傾きがあったのか」「長崎という町にとって、聖母マリアはどんな存在ですか」「かくれキリシタンの人々のマリア信仰について教えてください」「コルベ神父と聖母マリアのつながりは、どうですか」。コルベ神父は『けがれなき聖母マリアの信仰』を大切にした。フランシスコ会の中世期からの伝統でもあった。けがれなきマリア・ニエポカラナ。けがれなき聖母の町・ニエポカラヌフ。コルベ神父がこの言葉を作った。不思議のメダイのマリア、ルルドの聖母のけがれなき宿りに通じる。コルベ神父が長崎上陸後、真っ先に導かれたのは、大浦天主堂のマリアさまの祭壇であった。聖人の行ないには、ムダがない。

2012年5月27日日曜日

ルルド祭。聖母マリアは多くの人を恵みに包み込んだ

今朝は、快晴です。10時30分から、ロザリオが始まり、ルルドへの坂を、祈りながら登りました。コルベ神父がルルドを開いたのは、1932年(昭和7年)5月1日、80年前になります。いろいろな歴史があります。戦前はルルドのマリア像が度々壊された。戦争中は憲兵隊から監視され、ポーランド修道士たちは苦難でした。原爆後、被爆医師・永井隆博士は、負傷した傷をルルドのお水で癒された。永井博士は「ルルドの奇跡」の原稿を書いた。戦後の繁栄の陰には、心に苦しむ人も多かった。ルルドの聖母への祈りで力づけられた。ルルドは時代を超えて、変わりません。多くの信徒が集い、聖母マリアへの賛美歌と祈りが捧げられた。聖コルベ館にもお客さんが多かった。アメリカ軍の陸軍大佐夫妻、ポーランド出身の大学教授、大阪・境から30年間、年に2回、必ず参加している80歳の男性、心臓に器械を入れているので、5、6回休まないと登れないと嘆いていた。マリアさまは優しくこれらの人を皆、包み込まれていた。約200人の信徒が祈った。

2012年5月26日土曜日

話の裏に隠された基本的な項目に、興味がある。沢山知りたい

オバマの温泉へ行ったとき、左側の女性(先生)が色々な話をしました。その話のなかで、2つのことが心に残りました。①信仰が、有るか、無いかで、違うこと。②いま苦しくても、その苦しみには、意味があること。①の話。純心の会長さん、江角先生。亡くなる2週間ほど前、病気のため苦しかった。見舞いに来た人が「先生、苦しいときは、苦しいと言った方が、楽になりますよ」。江角先生は、「ありがとう」と感謝されて、「どうしても天国へ行きたいので、がまんします」と。私はこの話を聞いて、これこそ信仰者の言葉です、と思いました。なぜなら、以前、私が病で苦しんだ経験から、病人に対して、10の苦しみがあれば、7ぐらい忍耐して、あと3は文句を言ってもいいのだよ、と言っていたからです。やっぱり全部忍耐するのが信仰者です。②の話。この女性先生は、県立女専を出たあと、女専に残って助手を勤めた。あるとき校長と意見の対立があって、解雇になった。傷心の先生は、学校の坂を下っていると、下から初めて見るシスターが来られて、ぐう然出合ったのが、きっかけで、純心の英語の先生を30何年勤め、信仰にも入った。神さまのお恵みではないですか。本当によかったですね。あの校長さんが解雇にしなければ、また人生は変わっていたかも。私は話を聞きながら思うんです。★信仰が有るか、無いかの違い。★苦しみにも意味がある。その基本が私には、いま興味がある。話しは、あとで、付いてくる。

2012年5月25日金曜日

リフレッシュ、深呼吸をしよう。さあ、また始めよう

海風に吹かれて、さわやかな気分になった。天草灘を渡ったときの写真だ。リフレッシュだよ。ニンゲンって、現実を離れて、自然の恵みに接すると、身も心も清らかになる。気持ちも落ち着く。5月16日、泌尿器科の主治医は書いた。「平成21年(2009年)以後、膀胱ガン再発は認めない。再発確認の定期検査は必要と考える」。お医者さんも「治った」と書いてくれた。あてから3年が経っている。新しい診断書を、市役所の原爆対策課に出した。ボウコウばかり気にしていたら、今年は腎臓で3回入院し、苦慮した。だが、その後は、安定し、今は、尿もきれいになった。この分だと、今年はゲンキになるぞ。そんな気持ちが湧いてくる。聖コルベ館での出会いを楽しもう。妻子さんが来て言った。「深呼吸をしなさい」「ああ、それは賛成だな。少年の頃、肋膜炎で水が溜まったから、肺活量が低下している。やってみよう」「小崎さんは、小崎さんで、いいんです」とも言う。それも賛成だ。私は、私だけのジンセイだ。今朝の祈りました。「病気に苦しむ人、からだの不自由な人を慰め、力づけてください。ニンゲンの弱さの中に示された、あなたの力を知り、希望をもって試練に耐えることができますように」

2012年5月24日木曜日

男はつらいよ、寅さん大好き、人情あふれる生き方がしたい

3日間、クルマの運転担当だった李神父さんを紹介します。15年前に、23歳のときに東京へ来て、2年間日本語を学び、4年かけて大学を卒業した。日本へ来て、好きになった映画は、『男はつらいよ』。自分を犠牲にして、お節介をやく寅さんの人情味あふれる生き方に心を引かれたそうだ。お金やモノの追求ではなく、人間と係わり合いが持てる仕事をしたい。司祭になりたいと、気持ちが高まった。お母さん(オモニ)は、いつもロザリオで明け暮れる熱心な信徒で、応援した。お父さんは、やや不満。結婚して、家庭を築いてほしい。それでも東京のコンベンツアル会に入会した。29歳だった。再び勉強が始まる。入会後に、3回、ソウルへ帰った。その度に、父に変化が起こっている。「息子が司祭の道を歩む以上、今の信者生活では申し訳ない」。父は教会のミサにも一緒に行くようになった。いまは李さんは、司祭になって、活躍している。この度は、多忙なのに、無理いってお願いし、快く応じて、私たちを処々方々へ連れて行ってくれた。やさしい心のお若い神父さんだった。お母さんは、あるとき言ったそうだ。「普通の神父でなく、聖人の神父になれ」

2012年5月23日水曜日

天草の教会は、静かな丘にあった。キリシタンの信仰を今に

オバマ温泉・富士屋さんから、天草へ向かった。日帰りの巡礼だった。天草には、3つの教会がある。本渡、大江、崎津。写真は大江教会です。ガルニエ神父(フランス人宣教師)が造った。私が初めて天草へ行ったのは、昭和32年(1957年)秋だった。ガルニエ神父の賄い男性は、茂助です。茂助の養子が、森口等さん。等さんから、ガルニエ神父の思い出を聞いた。「お前たちが、山へ行って、危険に会うたとき、カカ来てくれ、とオラブように、罪に落ちそうになったとき、天のカカ、来てくれと、頼むのじゃよ」「儲けても、いいが、チキリの目はゴマカスナ」「ヒトのものは、盗むなよ」。神父は分かりやすい言葉で説いた。ドイツとフランスが戦争をしたとき、「新聞はどうなっているか。フランスは大丈夫か」。フランスが無条件降伏する。等さんが「神父さま、お気の毒なことになりました」「ああ、負けたか」「いいえ、負けたことじゃありません。パリの有名な建物を破壊しないために、手をあげました」。その傍で、学校の生徒が「フランス、負けた」と、はしゃいで通った。神父は「この歳になって、恥かいた」と、オイオイ泣いたと、等さんは言った。昭和16年、太平洋戦争前に、ガルニエ神父、82歳で神に召された。あの森口等さんはどうなったであろうか。消息を聞くのを忘れた。

2012年5月22日火曜日

島原半島へ。雲仙のツツジが見事。オバマ定宿、2泊3日

今朝は、幸いに快晴。最近は外出するとき、軽は運転しない。李神父さん(東長崎・教会の助任)の運転で、出かけた。2ヶ月ぶりの温泉・富士屋さんへ。途中、雲仙に登る。いま、ツツジ(ミヤマキリシマ・赤色)が見ごろです。風にも吹かれて気持ちが、いいね。連れの女性2人は、浦上教会の信徒です。女性たちに急(せ)き立てられ、後ろに見えますロープウエイ乗り場まで、ゆっくり歩いて行った。もう、足が前に進まんよ。私が初めて雲仙へ来たのは、1949年(昭和24年)秋、小神学生の卒業の修学旅行で来た。交通の便利は良くないし、乗合バスで長時間かかった。宿からこの丘まで歩いて登った。途中で、大雨に会う。雲仙の雨は、とにかく大粒だった。ほうほうの体(てい)で旅館に戻った。一緒に来た舎監のポーランド修道士は修道服の着替えがなく、浴衣を着せられ、ダルマが浴衣を着たように、奇妙に見えた。物資がない時代で、枕には紙を巻いていた。その紙に「みこころ安らかにお眠りください」と書いてあったが、韓国人のノウ神学生が、みんなの紙を集めて、鼻紙にした。彼は蓄膿症だった。神学校の炊事、カシアノ修道士さんが持たせたポーランドのお菓子『フルスチイ』が残ったので、宿の仲居さんに上げようとなった。上げる係りが韓国人のノウ神学生に当たった。彼は「恥かしい」という。フスマの所で予行練習をした。「こう、仲居さんが入ってくると、このように上げるぞ」。突然、仲居さんが入ってきた。ノウさん、ひっくり返った。ノウさんと私は特に仲良しだった。あの頃は、何をしても笑った。こんなこと書いても怒らないだろう。その頃は幸せだった、苦労はなかった、と思うよ。ノウ神学生はローマに留学して、司祭になり、韓国で宣教した。朝、独りで運転して、畑に突っ込んで、亡くなった。老人は、いろんな事を思い出すよ。