2019年6月11日火曜日

原爆の資料を見ていたら、ご縁が出来た。語り部の依頼、頑張ろう

午前中、1つの古い箱を取り出した。「原爆(英文)」と書いてある。英語で書いてある私の「原爆体験記」だった。13の文章が書き直されていた。その中に、1997年、長崎市で開かれた「世界市長会議」で、私が短い時間に体験を日本語で述べて、英訳した文章があった。懐かしい、あの時の会場の様子をよく覚えている。
★「私は廃墟の丘で、何を見、どのような心でさまよったのか」
★「多くの死体を乗り越えるうち、無惨にも、人間が真っ黒になり、一瞬のうちの『炭』になってしまって、しかも両眼は飛び出し、舌を出して、立ったまま、呪ったように死んでいた人が、今も目に焼き付いています」「火の手は家々を包み、自動車は吹っ飛んで、ひっくり返り、土まみれの多くの死体が、転がっています。ふしぎに思うことは、壊滅した丘に、立って歩く人が居ないのです」
★「浦上川には、水を求めて沢山の負傷者が入り、水を飲んだ人たちは皆、死にました。」「原爆は、助けようと思っても、助けることの出来ない爆弾です」「原爆症の下痢症状を赤痢伝染病と間違えて、その人たちを山の穴に隔離した悲しい出来事もあります。彼らは孤独のうちに死にました」
★このように、文章を読み返していると、「事務所から面会人です」と知らせがあった。それは以前、ホームに訪ねてこられた同じ町内の女性でした。中学校で、給食の時間に、良書本の朗読をスピーカーで流して、中学生たちに聞いてもらっている奉仕をしておられる。
★女性が言うのです。「来月、初めに、中学校で『原爆の語り部』を務めてもらえませんか」「ハイ、声が低下していますが、喜んで努めます」と承知しました。女性が帰られた後、ふしぎやなあ、と思いました。きょう、原爆の箱を開いて、懐かしく思っていたところに、原爆語り部の願いが飛び込むなんて、やっぱり、ふしぎな「つながり」があるんだな。こういう「つながり」が、私には人生の面白さがあるんです。「きょうの夕方、中学校から、平和担当の先生が来られると思います」。そう女性は言い残した。
★あしたは、総合病院泌尿器科へ診察に出かけます。

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