長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年5月7日月曜日
1年ぶりの再会。津和野の清さん。教会・資料館の案内人
2012年5月6日日曜日
子供の日。山の養護施設で過ごす。顔なじみに出会った
2012年5月5日土曜日
岡山の青年は、大晦日、閉館まえに滑り込みのパウロだった
2012年5月4日金曜日
日曜ミサ説教で、小崎修道士の話が出たと教えた訪問客
2012年5月3日木曜日
憲法記念日。ポーランド国も憲法記念日だった。平和の教え
思い出した。今日は、ポーランド国も憲法記念日だった。ローマン修道士から、その話を聞いていた。写真の右は、長崎で聖母の騎士を作ったポーランド人の面々である。コルベ神父が日本を去るときに、記念に写した。ポーランド人にはお世話になったご恩がある。この写真で、後ろの左に目立たないように居るのがローマン修道士。ポーランドの旗は、日本と同じ、白、赤、ですよ。左側、ローマン修道士が手にしている国旗には思い出がある。太平洋戦争が始まる前、東京のポーランド大使館の一行は長崎へ来て、修道院でミサに祈り、大使館に飾られていた国旗を、修道院に残したのだった。「戦争のない、平和の時代に戻るまで、この国旗を守ってください」。コルベ神父が去るとき、大人数のポーランド人修道者が居たが、いま残るはローマン修道士のみとなった。戦争が終わって50年が経った頃の1999年4月11日。ポーランド大使館の事務官が修道院を訪ねたので、ローマン修道士は、預かっていた国旗を返却したのだった。私は思う。このようなエピソードは決して忘れてはならぬ。いま思って、こうした個々のエピソードを自分の筆でまとめておくことが必要だった。文字で残すことが大切だ。私は何かに書いたように思うが、見出せなかった。ただ、国旗を持ったローマン修道士の写真を聖コルベ館のアルバム(20巻)のなかから探したのは、勲章ものだった。ローマン修道士は97歳で、老人ホームに健在です。たった1人になって、寂しかろう。いつまでも元気で居てください。5月5日、子供の日に、騎士園(養護施設)へ行った帰りに寄りますからね。2012年5月2日水曜日
ふしぎなこと、考える。なぜ、なんだ?ああ、生かされている
人生には、わからないことが、沢山ある。①例えば、少年の頃、一所懸命祈っていた浦上天主堂の真上に、なぜ原爆が落ちたのか。わかりません。②コルベ神父が、あの餓死の地下室で、最後まで生きていたのか。これも、わかりません。世の中には、わからないことが、一杯ある。その中を、泳ぐように、生きているわけです。「すごく、ふしぎなこと、あるか?」。そりゃ、誰の人生にも、ふしぎなこと、あります。③全体的に言って、いま自分が生きていること、これは、ふしぎです。歳をとれば、よく実感できることです。④特に、今年は、尿が急に出なくなって、ビックリしました。あの結石を見たとき、またビックリです。それが、1つ、1つ、解決していく、ふしぎでは、ないですか。退院してから、カラダの調子は、良好のようです。先のことは、わかりませんけどね。⑤「ふしぎ」と言えば、すぐ思い出すのが、ポンコツ軽での、トンネル故障です。5年ほど前の話ですが、忘れない。片道一車線、高速道路、3つも長いトンネルがつづく。そのトンネルの中で、軽が、すーっと、気合が抜けたように、馬力がなくなった。走らない。エンストしたら大変ですよ。ダリョクで、スルスルと行って、何とかトンネルを出て、幸い、そこに路肩があった。ここに車を止めた。高速の車を止めようと、手を振るが、車は一向に止まらない。携帯も持たない。すると1台が止まった。「携帯を貸してください」「持ちません。でも、エス・オー・エスの電話がそこに有るじゃないですか」。全く気が付かなかったが、すぐ傍に、緊急の電話があった。これも幸運だった。30分ほどで、ジャフの救援クルマが来て、運ばれて、修理工場へ。後部座席の下の線が切れていた。こうして何事もなく助かった。あのとき、トンネル中央で、エンストしていたら、どうなったか、考えると、冷や汗ものだった。ふしぎに助かる。ある宗教団体の信徒は「それは『妙の世界』です」と言った。まあ、これも導きですよね。2012年5月1日火曜日
聖母月はじまる。マリアさまのご保護を願う
登録:
投稿 (Atom)