2013年8月31日土曜日

黙想、6日目。新たな出発をしよう。まだ前途は有るぞ。良し

祈りも、そうですが、食べるのも、大事です。毎食、20人余りの食事を、3度、準備するのは、大変です。何を食べさせようか、悩むでしょう。3人のシスターが居ると聞きました。最後の夕食になった。サシミが出ました。かたわらに、ワインが入ったゼリーもあります。小型のパイもある。実は、語りたいのは、料理もですが、これを作っているシスターにご縁がある。もう30年ぐらい前ですか、イスラエル聖地巡礼へ行った。ある司教さまのご案内、説明で、すばらしい思い出に残る旅行でした。男子は少なく、シスターが多く参加の旅でしたが、そのとき、1つの思い出が起こった。飛行機のなかで、どうゆうワケか、弁当が1つ足りない。2人が、同じ弁当を、分け合って食べることになった。そのシスターが、この黙想の家に勤めているのです。もう何年も、ここにお世話になって、シスターとの思い出を、繰り返しています。ニンゲンって、ふしぎなモンですね。小さな出来事なのに、なぜか、この思い出が、いつまでも残っている。安否を確かめ合って、「長生きしてね」と、2人で、玄関で写真も撮ったが、それは載せません。ほかのシスターのご苦労も合わせて、「毎食のごちそう、ありがとう」。こうして無事に、年の勤めの黙想を終えて、聖コルベ館に戻ったのでした。

2013年8月30日金曜日

黙想・5日目。告白は、あの司祭にしよう。来たッ、その人が

黙想の家・聖堂の「祈るキリシタン」。この前で、祈りました。黙想も最後に近づいた。きょうは、告白をしよう、と朝から決めていた。講話の司祭も居られる。会の司祭も、10人も居る。誰に、告白しても、いい。自由に出来る。告白を頼むのも、チャンスが要る。聖堂に、来てもらうからだ。それでも告白は、黙想の最後には、必ず行なう。いろいろ考えて、あの司祭に頼もうと、決めた。午後、休息の後で、講話の30分ほど前に、余裕をつくって、聖堂へ行った。2人の司祭が黙して祈っていた。しばらく、すると、音がして、もう1人の司祭が入ってきた。チラッと、見ると、なんだ、あの意中の司祭ではないか。ヒザまずいて、ロザリオを唱えている。運よく、2人の司祭が、次々に出て去った。すぐ立って、声をかけた。「告白、お願いします」。なんで、こんなに、うまく、事が運ばれるのか。1つの恵みを感じた。神さまが、ちゃんと、準備してくださる。ご配慮を強く感じた。告白台へヒザまずき、心中を順々に述べる。司祭は又、順々と諭した。告白での語りは秘密で、公にされないが、次のような気持ちを感じた。「足りないところ、神さまは、知っておられる。いただいた恵みを感謝するように、してください。騎士誌の記事は、読まれている。お恵みがあるから、感謝して、つづけてください」★司祭の講話。自分と神さまの、つながり。求めている。しかし個人だけが救われるのでない。隣の人も神さまに「つながって」いる。その救いをも、望む。教会の集うもの、救うのを神は望まれる。タテのつながりの熱心さに、ヨコのつながりも大事です。共同体に求められるもの、「共感力」です。自立は、教育でも大切だが、本当の自立は、共感するチカラを育んでいく。神が人となられた、これも共感力でしょう。

2013年8月29日木曜日

黙想・4日目。ルルドのお水にチカラを得る。み旨に従う

朝、早く、修道会員だけの祈り。これもお恵みです。心が、みな、合い通じるというか、気持ちが違うんですね。信頼を持って祈りました。こころは嬉しいが、カラダは、キツイ。身体的に、苦労が重なるのを覚えます。夜中も、ほとんど眠れなかった。まあ、歳も年だし、眠れなくても、そう気にはならない。飲み水が、カラダに合わない。電話をかけて、白浜さんに、「ルルドの水」を持参してもらった。これで、やおらゲンキが出る。★司祭の講話。見えない神さま。この日常生活のなかに、神さまは居る。神さまの基準で、考える。神さまが、こう望んで、おられるでしょうから、ワタシは、こう、したい。欠点を知る。神と出会うために。自分をカラにする。イエスと出会うために。結婚者は、相手に、忠実を尽くします。奉献者は、神さまに忠実を誓って、独身を守ります。忠実では、同じことです。コインのウラ・オモテのようなもの。忠実であるのが、大切です。★自分が、いつも中心。自分が中心というのは、罪の深いところに、ある。エデンの園で、人祖が、木の実を食べた。まんなか、みむね。これは神のみむねを、人間が自分の考えで置き換えた、ことを表わしている。弟子は、アミを捨てて、イエスに従った。この「捨てる」と、己を捨て、我に従えの「捨てる」は、日本語は同じ単語だが、原文は、単語が違っている。★そこで問うた。イノチを「捨てる」は、どうですか?この捨てるには、抵抗がある。捨てる、余分だから、カスだから、いらないモノだから「捨てる」。イノチは、合わない。「捧げる」がよい。司祭は言った。この「捨てる」。単語が違います。

2013年8月28日水曜日

黙想・3日目。今の世は、隣の人を真に理解するのは、難しい

子どもの時から教えられた信心は、「いのりバ、せろ」「スラごと(偽り)くる、より、ロザリオ、繰れ(くれ)」「善業バ、せろ」「犠牲バ、せろ」「死者を想え」。それに、もう1つ。「神父さまバ、大事に、せろ」でした。「祈りや、善業をすると、天国にタカラを積む。煉獄の霊魂を助けます」と教えられた。単純に、そう信じて、せっせと、カラダを動かした。こんにちでは、「個人の信心だけでは足りない。共同体で、隣人の救いに活動しなさい」と言われる。確かに、そうでしょうが、でも、どうしても、個人の信心は捨てきれません。講話の司祭は言う。「隣人を(近い人)を愛しなさい。遠い人ではない。近い人、隣の人、これを愛するのが、むずかしい」。現代は、マンションに住んで、隣の部屋が、誰かも分からない。孤独死しても、数日は分からない。そういう時代に生きている。真に理解し合った隣人になる。これは、ひじょうに、むずかしい。受難であり、十字架でも、ある。★神と共に居る。イエスは「共に居てほしい」と願っている。講話の司祭が言った。「ある老人が居てね。仕事へ出かける前に、教会へ寄って、末席で、じっと前を見つめて、しばらく黙っている。教会を出て、仕事へ。帰りに又、同じことをしている。少年が聞いた。おじさん、何をしているの?わしはな、神さまが、わしをジッと見つめて居られるので、わしも、ジッと見つめておるのだよ」★病気のとき、孤独のとき、主は、ここに居られます。

2013年8月27日火曜日

黙想・2日目。カトリックで生きるしかない。それが幸せ

黙想の家の、食堂から見た、長崎の港です。眺めが、いいですね。この港から、五島行きのフェリーが出ています。黙想が、始まりました。司祭の講話は、午前と午後の2回。信仰生活で、いま、考えていることは、度々の病気で、入院しては、1人で苦しんできた。その中で実際に悩むことは、「主よ、ここに、あなたは、居られますか。居てくれますか。それが分かれば、孤独じゃない。ひとり、でない」という問いかけです。神は目に見えない。声も聞こえない。日常生活のなかで、神を肌で体験していく。いかに築くか。むずかしいテーマでしょう。一生涯、追いかけて行くテーマでしょう。すぐに答えは出ない。それの答えが、司祭の講話を聞いて、少し分かった気がする。聖書に、イエスが「共に居る」という箇所がある。マタイ・ゲツセマニの園での祈り。「主は言われた。わたしと共に居てください。弟子たちは、いっしょに、居ない。イエスが、共に居てくださいと言われるのに、弟子が居ない。そう言われる主が、ここに居ない分けが、ない。そこに突破口が有るように思われた。次の悩みは、「なぜ自分だけが、苦しむのか。そういう迷いも実際に、あった」。それに付いて司祭は、イエスのゲツセマニの園での祈りをあげた。イエスでも、「このサカズキを、取り除いて、ください」と言われた。最初から、受け入れることが出来ますように、とは言わなかった。苦しい時、病気のとき、すぐ受け入れる、でない。サカズキを取り除いてください。イエスも、そう願った。次の祈りで、変わる。「あなたの、みこころが、行なわれますように」と、神のみむねを選んだ。最終的には、「みむね、ならば」と受け入れる。常に考えることは、自分の意思ではなく、神のみむねは何か?いま、神は何を望まれるか?★先祖は代々、カトリックを信じてきた。そこへフランス人の宣教師が来て、カトリックを教えた。信仰は、より強いものになる。カトリックの家族に生まれ、幼児の洗礼を受けている。当然、カトリックの教えを守って育ち、老いるまで勤めてきた。どんなことがあっても、この教えで行くしか、ないでしょう。迷いも、つまずきも、ありません。ある人は、せっかく教会に導かれても、教会のなかに入ると、信者同士の様々な出来事に、「わたしは、この共同体に入れない」と去って行く人が居ると聞く。本当に悲しいですね。教会へ導かれたのも、お恵みなのに、ザンネンに思います。そう思いながら、この夜は休みました。

2013年8月26日月曜日

黙想・1日目。小さいことでも、大きな意味がある。初日の遅れ

月曜から、土曜まで、年の黙想です。修道会のお勤めです。長崎市内の、山の上、黙想の家で行なわれた。18人が集まった。司祭が、10人。修道士が、8人。修道士は少ないので、こんなに8人も集まるのは、めずらしい。司祭の1人は、兵庫県から、軽自動車で、やってきた。修道士の1人は、名古屋から、クルマでやってきた。「ゲンキが、あるんだなァ」。遠くは、東京、鹿児島県・奄美大島、沖縄からも、来た。最初の日は、皆さん、それぞれの道で、神に呼ばれたことを確認し合う。「イエスが、いま、あなたのソバを通りすぎようと、している。さあ、あなたは、どうするか?叫ぶか。ムシするか。ジーッと見るか」。1つの問題が、浮かび上がる。斉藤修道士が、「お元気ですか?」と声をかけられる。久保神父さんが、「記事を書く、アイデア、浮かぶね?」と声をかける。黙想に来て、最初に何を感じましたか。「自分が、やっていること、いかに、小さいことか。小さいことに、こだわって、あくせくしている。小さいことでも、大きな意味を持っている、そんなことを考えた。導入の講話が、夜にあった。うっかり、ベッドに横になっていたら、気が付くと、15分、過ぎている。「やりとばした」。これから講話をするのは、白いスータンで、黒髪の若い司祭だった。長崎出身だそうだ。

2013年8月25日日曜日

過去の落ち度を、くよくよ、後悔するな。キズも意味がある

騎士誌10月号のため、記事を書き上げた。東京へ行ったこと。「東京へ・出会いの・一人旅」です。東京では、赤羽教会・修道院の下村コルベ修道士さんに、大変、お世話になった。全然、歩くことなく、運転のクルマで、あち、こち、連れて行ってもらった。「ありがとう」。感謝です。そのことも記事に書きました。★人生には、きれいごとでは、すまされない、現実があります。歳をとれば、よく分かる。心に、キズを受けたニンゲンは、人の痛みや、気持ちに、寄り添えることが、できるでしょう。★久しぶりの夏休みで、赤羽に、こだわったのには、意味があった。昔を思う。40年前です。1970年代、赤羽で、4年間、暮らしたことがあった。あの頃を思い出した。カトリック・グラフの編集を勤めていた。あの頃は、若かった。失敗も、あった。「赤羽には、痛悔とナミダの思い出があります」。それでも、赤羽の教会で祈ったとき、清められる気持ちがした。過去の落ち度を、くよくよと、後悔するな、の思いがある。心のキズは癒された。カンシャの気持ちで、記事を書きました。★騎士誌、10月号は、9月10日頃、発売になります。読んでくだされば、ありがたいです。