長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2014年8月6日水曜日
広島・原爆の日。死者と平和を祈る。あの頃。
★15歳の頃の顔です。その頃、1年半ほど、大学病院へ入院して、背骨・肋骨・腰骨のカリエスの治療をしていた。だいたい良くなって、そのままの流れで、大学病院の耳鼻科の医局に通って、お医者さんたちの研究の手助けをしていた。そのときの顔です。手助けに、ほかに1人の男性と、2人の女性、写真技師がいた。この頃、聖母の騎士のポーランド修道者たちを知って、時々通っていた。「ボクも、修道者たちの仲間に入りたい」。そう願って、お医者さんの1人に打ち明けると、「なんだ、いま戦争だ。兵隊さんは皆、戦っている。お前は、そんな所へ入って、日本人として、いいのか」と言って、ボクのビンタをパシッ、パシッと、たたいた。当然、泣くわね。15歳だよ。悔しくて、泣いた。すると忘れもしない、長谷川教授の先生が来られて、ボクを教授室へ連れて行って、慰めてくれた。★2年後、原爆がおちて、手助けの3人と、写真技師は、爆死した。ボクは、もう、その場を退職して、爆弾をつくる工場で働いていた。助かった。ボクを叩いたお医者さんは戦地へ行って、戦後、戻ってきた。戦後、出会ったとき、聖母の騎士に入ったと知って、「良かったね」と言ってくれた。慰めた教授の先生は、教授室は壊滅したが、原爆落下の1分前に、廊下をへだてたトイレに入っていて、イノチは助かった。戦後、カトリックの洗礼を受けられた。戦後も出会って、聖母の騎士に居ることを喜んでくれた。パパさまが長崎へ、聖母の騎士へ来られたとき、教授の先生もご招待して、一緒に歓迎することが出来た。★8時15分、広島にむかって、祈りをささげた。死者のため、平和のため祈った。戦争なのに、平和な顔をしていたよ。
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本日のブログにて、その時はそのようにおもっていなくても、その後に神様のはからいによってその続きのよき物語がつづくことをおしえてもらいました。
返信削除私も長く生きて、その神様の不思議なわざのつづきをさらに体験してみたいと思います。
大病を患った後とは思えない可愛い顔をした少年ですね。
返信削除戦時の強いられた大義に従って少年を叩かねばならなかった医師は、その時はご自分の本心に気づかれていなかったのでしょうね。でなければ後で「修道院に入れて良かったね」とは言えませんものね。トイレにいて命が助かった教授・・・明暗が際立ちます。「戦争は悪だ」と宮柊二は詠まれましたが、これに尽きると思います。こんな暗黒の時代を体験しないためにも私たちは今こそ「NO!」と叫ばねばならないと思っています。
去年の11月にカトリックの門を叩き、
返信削除図書館でたまたま見つけた、「ロザリオの祈り~長崎の原爆シリーズ~」を読んでロザリオの意味を理解したのに。
今日は外出しよう、教会へ行きたいと思っていたのに、
心と体が一致しなかったため、行けませんでした。
当時の人から見たら、私は・・・。
心からご冥福をお祈りいたします。
明日はカトリック系の病院のホスピス病棟にて、
掃除ボランティアがあります。
そのあとは病院内の御御堂にて、
ひとり考え事をしてきたいと思います。