2017年9月7日木曜日

鳥取のみどりさんからナシの贈り物。ラクダの思い出

鳥取のみどりさんから、ナシが届いた。二十世紀のナシです。ホームに入って3年を過ぎるのに、忘れないで送ってくださることに感謝する。夜に、お礼の電話をかけた。
★私も、色々の場所を旅行したが、鳥取の旅が最後になった。みどりさんは、私がいつ鳥取に来て、何日に帰ったか、その日を携帯に入力していると言った。愛情が伝わってきて、うれしい限りです。
★3年が経って人生がこんなに変わるとは、想像もできない。3年を数えれば、もう生活は落ち着いた。からだの痛みがあっても、あわてない。血液検査の数値も気にならない。今日を生かしてもらっている気持ちです。それだけで、よい。自分が生まれ、生きてきた道は、この道であった。振り返っても、悔いはない。ただ、いつまで自分の足で歩けるか。足の不安は限界まできている。
★人のために尽くすことがない。人を助けること、奉仕することがない。そのことが最も、さびしい。野々村哲さん(トマさんのことば・編集者)が、時々、聖コルベ館の資料室へ行って、私が修道士のときに写したフイルム帳(56冊)をメモリーカードに入力してくれている。修道士たちの生活の数々、良い写真もあるという。また、何かが生まれるか、楽しみにしている。夢がなければ、一日の生活がわびしい。
★鳥取では、みどりさんにお世話になりました。鳥取といえば、鳥取の砂丘でしょう。砂丘にも行きました。砂丘のラクダにも乗った。人生、最後に乗った乗り物は、ラクダと言える。実際は、ラクダの揺れは、そう楽なものではなかった。外から見るより、しんどかった。世の中は、そういうものです。見た目のように、行かないのが、ジンセイです。

2017年9月6日水曜日

ポーランド御みやげ。ピクルスか?あの少女の成長


去年の5月に、ポーランドから1家族がホームの私の所に訪ねて来た。主人は日本人。奥さんはポーランド人。5歳の女の子の名前は、百合香ちゃんだった。彼は、写真映像作家。ポーランドに在住。奥さんはイヴォナさんといった。
★先日、ポーランドから映画班の一行が私を取材に来たが、その案内役というか、お世話役と言うか、それが彼、山平茂美さんだった。1年前に出会ったことが懐かしい。あのとき、「ポーランドの赤カブのスープがおいしい」と奥さんに語ると、手軽な紙袋に入った赤カブのスープや、その他のスープ、お菓子などを8月頃に送ってくれた。
★今度は、取材班に同行した山平さんから、重たい、紙袋に入ったお土産をもらった。大事に包まれており、大瓶に入った一見、「ピクルス」らしきものが入っていた。フタが空かない。必死の思いで開けると、キュウリに似た、細長、緑のものが、灰色の液に浮いている。ポーランドから、わざわざ持参されたものだった。「ピクルス、かな?」と、一口食べてみると、酸っぱい味がしない。
★ピクルスといえば、ポーランド人修道士たちが居た修道院では、好評の食品だった。キュウリを酢づけにしたもので、サッパリして、変わった味の「つけもの」だった。日本の修道士たちも好んで食べていた。
★修道院では、ポーランド人たちは、このピクルスと、牛乳を腐食させたヨーグルトを好んで食べた。通常、食事のときは、沈黙で食べる。ヨーグルトが出ると、院長の機嫌が良くなり、沈黙が解かれて、賑やかになるのだった。思い出もある。日本の修道士もピクルスを好んで、日本人の炊事係りも時折、作って食べさせた。
★いただいたお土産の瓶入りの「もの」は、キュウリではなく、似てはいるが、味が違っていた。酸っぱくない。ポーランドで、何と呼ばれる食品かは分からない。
★娘の「百合香」ちゃんの写真を山平さんが下さった。可愛い、少し成長したポーランド少女のほほえましい姿があり、裏には、絵があり、DLA OJCA OZAKI YURINKAと書いてあった。

2017年9月5日火曜日

目は不自由でも、神社の階段、上り下り挑戦。負けぬ

「人生に、何が必要か。それは希望と、勇気でしょう」
★トマちゃんが、修道士たちの所へ戻ってきた。修道院の一角、家を借りて、改築して、住むようになって、もう、かなり経っている。両目が不自由なのに、高級なカメラを使って、美しい自然界の風景を撮る。最近、ハマッテいると聞こえたのが、神社の階段を上り下りする健康づくりである。足を鍛えるために、頑張る。「このヘンの神社は階段が短いので、週に1回は長崎の諏訪神社の階段にいどみ、10回、上り下りしている」と聞いた。
★ホームの人は自分も含めて、歩いたり、階段の上り下りに苦労しているのに、足を鍛えるために、階段だけを求めて、体力づくりの者が近くに居るとは、黙ってはおれない。1度詳しく尋ねてみようと彼に聞いた。トマちゃんの自慢に迫る。
★戦争が終わって10年程経った頃、トマちゃんは養護施設に居た。私もその頃、施設の修道院で療養していた。「トマちゃん、トマちゃん」と可愛がられた小1の頃の彼を良く知っている。他の少年たちからイジメられ、「ハロー、ハロー」と、ひやかされる。トマちゃんは「ハローじゃ、ないよ」と、抵抗しながら、ビョン、ピヨンと飛び跳ねて逃げた。目が不自由なのに、ちゅうちょしない軽快な足裁きを不思議に思った。
★27歳のとき、施設を出て、盲学校の寮に住み込み、マッサージ術を覚え、免許を取得した。群馬県の温泉町で長年働いた。いつの頃からか、足を鍛えるために、神社の階段の上り下りを始めた。近くに365段の神社がある。朝、夕方、2回づつ挑戦をつづけた。高崎観音山には、518段がある。8分で往復したよ。しかも2回も実施した。
★もちろん仕事は熱心で、同業者の何倍も、マジメに稼いだ。結婚もした。奥さんは早く亡くなった。10年ほど前に、仕事を切り上げて、趣味に生きていたが、幼い頃、育てられた修道士さんが懐かしく、湯江の修道士さんを頼って戻ってきた。湯江の神社は100段しかない。それでは、つまらないと週に、2、3回は長崎の諏訪神社へ行って、200段を、10回挑戦している。
★それを聞いて、感心するやら、驚くやら、もう何も言えません。「何のために、そんなに、こだわるの?」。目的は自分の健康を保つためで、人は足からダメになると彼は言う。それは本当です。私の近くに、こんな、こだわり人間が居たとは、もう何も言えません。脱帽です。彼は食事は、2度しか食べない。1度の時もある。「それでも病気にならない」。座右の銘も、何も無い。ただ神社の階段に挑戦する。
★ホームの墓地に、奥さんと自分の墓を作った。「永遠の絆」と大きく書いてください、と頼まれる。トマちゃん、まだ、まだ大丈夫だよ、と思いながらも、希望の字を書いてあげた。
★幼児から、目の不自由さという苦境にもめげず、人生を明るく希望とマジメさを基本に、70年生き抜いたトマちゃんは、また、元の修道士たちの処へ戻ってきた。そのトマちゃんの生き方に感心する他はない。日曜日には、湯江教会のミサで、祈る姿を見る。

2017年9月4日月曜日

ポーランド映画の取材。ゼノ修道士の「限りなき愛」

ポーランドで、ゼノ修道士の映画を作るという。取材班の一行がやってきた。題は「限りなき愛」。ドキュメント映画で、30分。ポーランド外務省宣伝の映画になる。午後から、2時間ほど、ゼノさんとの出会いや、思い出を語った。ゼノさんのような奇才は、もう出ないだろう。無欲で、貧しい人に対する兄弟愛で生涯を貫いた。
★15歳、母に連れられて、聖母の騎士のルルドに参詣する。度々、ルルドに来ていた。ルルドを掃除することもあった。ゼノさんは受付に居たので、当然、会っている。ゼノさんは、コルベ神父の時代に、騎士誌を配布するために、長崎市内を修道服姿で周っていた。長崎の人によく知られていた。日本語がヘタなところが愛嬌があった。ブラザーゼノは、ポーランドでも名の通った人物だそうだ。
★17歳。原爆の後、雨にぬれて、聖母の騎士の扉の捕り手を引いた。修道院の奥で、「チャラン、チャラン」と鐘がなる。ヒゲが美しいゼノ修道士が顔を見せる。中に入れてもらった所で、ゼノさんが聞いた。「お姉さん、どうしました?」。母が若かったので、お姉さんと間違えた。「原爆で、死にました」。ゼノさんの青い目から涙がこぼれた。
★ゼノさんを知っているとはいえ、ポーランドから私の処にも取材に来るなんて、光栄な出来事だ。修道服に着替えて、応じた。思い出してみると、テレビには、もう何度も映っている。原爆の体験もあったし、日本26聖人の映画もあった。「修道士の半生・生かされて」(48分)もあった。生き方が、一本道だったからであろう。
★お世話をしてくれたのは、ポーランド在住の写真家、山平茂美さんだった。一緒に同行している。明日は長崎の聖コルベ館を取材する。ゼノさんの遺品は沢山残っている。

2017年9月3日日曜日

あなたの人生、すばらしい。喜びも、涙も、心の宝

女性職員さんが、大きな横長の紙を持ってきて、「両脇に、何か、字を書いてください」と頼んだ。ホームの皆さんが見える場所に張りたいという。何を書いたらいいのか、ちょっと考えました。暗い言葉は望まない。やっぱり前向きで、明るい言葉が欲しい。
★ホームのいえば、入居を、なぜか好まれない。人は老いには勝てないのは事実です。ホームで生活する車椅子の人や、押し車の人を見ると、本当に、痛みや不自由に耐えて、懸命に生きておられる。その皆さんにも、かつては元気で愉快で、大きく笑った時代もあった。その大切な思い出は、その人の宝箱だと思います。
★自分がホームに入った時、過去との間に、断層が出来たのを感じた。自分の人生、これで良かったのか。過去は遠くに去ってしまったのか。いや、ホームの生活も自分の人生なのだ。頼って来てくれる人が居るではないか。そう思い直した。先日のテレビだって取材に来てくれた。どう生きて来たのか、考えるときに、否定はしたくない。だから次のように書いた。「あなたの人生、すばらしい。喜びも、涙も、こころの宝」。それに、もう1つ。「仏さまも、神さまも、見守って、くださる」
★先日のテレビが帰って、放送日を暦に書き込もうとして、気がついた。10月19日は、25歳の頃、結核を病み苦しんでいた時、看護師をして世話をしてくれて、命を助けてくれたシスターの命日に当たっていた。しかも50週年忌の日です。私には、これは不思議な取り合わせと思った。まだ、まだ、シスターの思いが通じているから、こんな一致が起こるのでしょう。だから生きる者も、苦しみがあっても、見守られている。それを感じることが出来れば、嬉しいじゃないですか。不思議な縁だと思いませんか。

2017年9月2日土曜日

誕生会。1つ歳を重ねて、おめでとう。長生きしてね


毎月、最初の土曜日。昼食は誕生会。9月に生まれた人を一緒にして、お祝いします。9人が居りました。これが、また楽しんだな。
★毎月、同じことなんだが、職員たちの出し物も期待している。今月は、サラ踊りでした。食事が終われば、歌が出る。音楽なしで、何人かが自慢の歌を披露して、お祝いして、喜ばれる。「さあ、歌へ」とマイクを差し出されても、ね。ちゅうちょして、遠慮しますよ。老人になれば、声も出ないし、歌詞も忘れて出て来ない。それなりの理由があるわけです。ボクなんか、青年、壮年の愉快な時代に、覚えたといえば、ラテン語の賛美歌だった。演歌や、流行歌に、縁がなかった。歌っていたら、叱られた。歌え、と言われてもムリだよ。
★ところが今月は目立つ出来事が起こった。西山神父さまが、「九段の母」を歌う。それに負けじと、瀧神父さまが、「岸壁の母」を歌う。トマは、もう、びっくりした。九段の母は、戦中の歌。岸壁の母は、戦後、帰国する息子の兵隊を待ちわびる歌。妙な取り合わせで、皆さんは喜んだ。山内園長神父さまと、瀧神父さま。お世話になっています。メニューは、お赤飯、お刺身、ポークソテー、さっぱり煮、アボカド・サラダ、白饅頭、リンゴ・ジュースでした。職員の皆さん、お世話様でした。ありがとう。誕生会をお祝いした人びとも、これからも元気で、明るく、長生きしてください。

2017年9月1日金曜日

NHK長崎テレビが集材。「岳踊り」。放送が楽しみ

約束の時間は、10時だった。修道服に着替えて、受付・玄関で待っていた。定刻より早く、カメラ・マンが、庭から園を撮影している。彼ら3人は、定刻に玄関に入ってきた。NHK長崎テレビの女性デェレクターは1度ホームの自室に来たことがあるから、既に顔見知りになっている。
★早速、インタヴューが始まった。話題は「岳踊り」。この記事を、よくぞ聖母の騎士のネットから見つけだしたものだ。昨日のブログ(日記)で、内容は、まとめていたので話しやすい。先ずは、45年ぶりに自分が撮った写真を見た感動を語る。棒に紅白の布が巻いてあるので、これは喜びであり、希望の踊りである、と感じを伝えた。太鼓を叩き、2人の女性が歌っているが、内容は分からない。するとデェレクターが。歌はテープに録音されており、信徒たちは踊りも覚えていると教えてくれた。再開に希望がある。あの時、私に説明してくださった男性信徒は59歳と記事に歳が書いてある。45年を足すと、相当の数字になるから、もう、ご健在ではないだろう。
★その男性信徒から受け継いだ信徒は、踊りの由来を聞いていないと、女性デェレクターが言う。そこで、「記事の、この場所を、読んで下さい」と、取材の核心を頼まれる。「岳にも牢屋があり、36人衆が、刀とムチ」の責め苦を受けた。それらを払い退けるために始まった踊りです」
★インタヴィユーを受けながら、メガネの奥の目から涙は出る、鼻水は出る、困ったものだ。左手をズボンのポケットへ入れて、落ちる鼻水を拭こうと思い、ポケットに手を突っ込んだが、カメラに写ると、ヤバイと、やめて、そのまま最後まで通した。89にもなると、言葉も旨く出ない。恥ずかしいよ。それでも、わざわざ取材に来てくれるのだから、ありがたい。40分ほどで取材は終わった。「小崎さんに、他にもヒントをいただきたい」と言い残して、取材班は帰った。
★10月19日、木曜日、午後6時15分からの長崎版で、放送される。コメント程度の出番だと思う。
★今日は、9月1日。昼食の時から、食堂の席替えがあった。車椅子の人、押し車の人が優先的に先に席を与えられて、残りの部分に自由に皆さんが入る。トマの右は、入江さん。左は、瀧神父さまになった。
★ご高齢のヨハネ村山修道士が体調を崩して、救急車で、運ばれた。栄養士さんが教えてくれたので、救急車に乗せられる村山修道士を祈りながら見送った。