丘の上に建っている浦上天主堂。これは映画のセットです。昭和58年(1983年)、永井隆博士の原作「この子を残して」が、映画となって公開された。
★監督は、木下恵介さん。主人公の永井隆に、加藤剛さん、奥さんの「みどり」さんは、十朱幸代さん。この写真を撮ったのは、私です。天主堂を真っ先に、永井先生の2階建ての家や、番地と名札、井戸、天主堂からの道、など46枚のフィルム写真が残っている。監督さんや、俳優さんの記者会見の場面もある。
★しかし、この写真を撮った記憶はあるが、場所はどこだったのか、どこに天主堂を作ったのか、全く覚えがない。素人とは言え、加藤さん、十朱さんなどは、パッチリ撮っている。原爆前の姿です。戦争中でもあった。後ろの家が、永井先生のお宅になる。
★私が、この思い出を日記に載せたのは、1月5日、カシアノ修道士の命日に、カシアノさんの「ハンバーグ」の思い出など日記に載せたところ、コメントに、「千葉の81歳の男性です」と、聖母の騎士園や、ゼノ修道士、そこに「隆叔父」と書いてあった。「隆叔父」とは誰のことかと、コメントの返事に「その頃のこと、記憶していること、ハガキで教えてください」と記した。すると、その男性から、ハガキが届いた。
★「隆叔父」とは、永井隆博士のことだった。先ずは、びっくりしました。左の写真は、映画のロケのなかで、天主堂から、家族が自宅へ帰る場面です。左の隅に、4人が映っている。当時は、こんな風景でした。
★そして、そのハガキに、英子(ひでこ)さんの名前が記されていたのです。これ又、2度、びっくりした。
★原爆前、戦争中に、私は脊椎カリエスを病んで、大学病院に入院・治療していた。時々、知らない、キレイなお姉さんが見舞いに来るのです。少年の私の胸は、ときめいたモノです。誰だろう?そのお姉さんが、英子さんでした。永井先生の妹さん、と聞いた。女子医専に通っていたが、療養で永井先生のお宅に居られたようです。本当に、あの頃、病気の私はお姉さんに慰められた。忘れられない人です。
★その後、英子さんは結婚されて、満州へ渡る。戦争に巻き込まれ、家族を失い、苦労されて、長崎へ戻られる。英子さんは東京で、ある教会の受付係りとして、永井先生の意思をついで平和活動をされていた。私が、その教会を訪ねた時、英子さんは既に逝かれており、英子さんをよく知っている女性が案内してくれた。「永井先生の妹であるのを、一言もいわなかった。逝かれたとき、報道陣や著名な人が葬儀に見えて、初めて知りました」と語っていた。私が「英子さんの著書に『奪われても』があるはずですが」と、女性と一緒に教会の図書棚を探すと、1冊、見つかった。
★今日は、永井先生の映画と、寄せられたコメントにまつわる思い出を書きました。
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