2019年9月30日月曜日

昨日が、大天使聖ガブリエル、聖ミカエル、聖ラファエルの祝日

ナザレの乙女マリアのもとへ、「あなたは、神の御子を宿します」と告げたのは、大天使聖ガブリエルであった。
★私が北朝鮮で生まれた時、この町には教会もない、司祭も居ない、両親と伯父・叔父たちが集まって、洗礼を授けた。その時、いただいた洗礼名が「ガブリエル」だった。
★普通、男子の洗礼名は、ペトロ、パウロが多かった。なぜ「ガブリエル」など付けたのか。今も分からないし、この洗礼名の信徒に人生で出会ったこともない。「マリアに告げた役目の大天使」ということで、この洗礼名を嬉しく、誇りに思っていた。ところが修道士になったとき、新たに修道士名で「トマス小崎」をいただいた。慣例で、以来、これを使っている。
★大天使には、聖ミカエルもいる。私が大天使聖ミカエルに感動したのは、平戸へ巡礼した際、平戸ザビエル天主堂で、堂内に入ると、奥の、祭壇の、一番上の所に、大天使聖ミカエルのご像があった。そのお姿は深く印象を与えた。聖ミカエル大天使は、キリシタン時代から大切にされ、教会と信徒たちは、そのご保護を願っていた。
★五世紀に、ローマで、聖ミカエル大聖堂の献堂が行なわれた、と記録されている。古い歴史を持っている。現在では、大天使聖ミカエルに、大天使聖ガブリエル、それに大天使聖ラファエルが加えられて、昨日の9月29日に祝日としてお祝いされている。
★大天使聖ラファエルについては、旧約聖書に登場する。
★ガブリエルは「神の力」の意味。ミカエルは「神と同じようなものが他にあるだろうか」の意味。ラファエルは「神よりの薬」の意味だそうです。
★ガブリエルは「神のメッセージを伝える者」として、通信・放送局、報道・新聞記者などの仕事をする人びとが、保護者として選んでいる。また、ラファエルは、旅人、薬の関係、パイロットの保護者としてあがめられている、と聖人伝に書いてあった。
★9月も今日で終わります。9月上旬は、「写真展」があり、無事に終わって、ホットしました。皆さんに喜ばれて嬉しい月となりました。広島の岩本さんから、農園栽培の大きなブドウが3房も届きました。長袖を着ています。皆さんも、おからだ御大切に。

2019年9月29日日曜日

日曜日。祈りの中で、むかし、何十年前に出会った夫妻を思った

色紙や、カードに描いている絵と、言葉です。「どこから、この言葉が、私の心の中に出たのだろう」。いつも、そう思っていました。
★きょう、もう何十年も前に書いた記事を読んでいると、次の話があった。ある山中で、養豚業を営んでいる夫妻に出会った。ご主人は、ハンセン病の病歴がある。奥さんは、健常者。お互いに「詩」を通じて知り合い、結婚したそうです。詩人らしく養豚の豚にも「アルチュール」とか「ランボ」など、フランスの詩人の名を付けているといった。夫妻に襲い掛かる冷たい視線と、貧しさと、病気の後遺症の苦しみにも耐えながら、ほほ笑みを絶やさず、奥さんは上品な面持ちで、明るく「神さまが取り計らってくださいますよ」と前向きに希望を持っておられた。近くに小学生の男の子が2人いた。
★ご主人は、手足の神経がマヒする症状があり、この間など、長靴の底に釘が入っているのを感じないで、夜になって長靴を脱いだとき、足は血で真っ赤に染まった。そこから菌が入り、足が腫れて大変だった、と語った。
★その後で、ご主人が言った。「亡くなられたカンドー神父さまが見舞いに来られたとき、別れの際に、自動車のソバで右手を高く上げておっしゃった。『愛のあるところに、苦しみなし。たとえ苦しみありとも、のち喜びとなるべし』。この言葉は苦しいとき、いつも力づけ、前進する姿勢を保ちつづけてくれます」。ああ、この夫妻の言葉が、心に残っていたのだ、と出処が分かった。
★今朝の教会です。5時20分に写した。湯江教会のステンド・グラスが輝いている。中では修道者たちが祈っていた。こんなに朝、早くから、女性が手押し車を頼りに、お祈りへと入っていた。五島の女性だった。今日は、日曜日です。あの山中の夫妻は、お元気でおられるだろうか。カンドー神父さまには出会ったことはないが、当時は著名な司祭だった。お名前は今も覚えている。意味深い言葉も、大切にしている。

2019年9月28日土曜日

老いて生きるのはツライ。日々、変わらないのが、幸せです

昼食に食べたデザートです。プルン・ゼリーですか。ホームでは、昼食に各種のゼリーがよく出ます。まあ、ちょっとした楽しみにもなっていますね。
★ホームの生活は、いつも変わらない。変わらないのが、いいのです。きのうの体調が、きょうも続けば、それが、いいのです。入浴して、三食たべて、昼寝して、お祈りして、あとは何があるというのですか。
★自分は、幼児の頃は、自動車が好きだった。新聞に自動車の写真が載ると、切り抜いて残した。子供になると乗合バスが好きになった。バスに乗るときは、必ず運転士の席の後に座った。バスの屋根には、赤や青のランプが点っていた。あの色に少年は心を惹かれた。自分は交通事故で死ぬんじゃないか、そんな思いを長く抱いた。
★きょう、入った風呂です。男性は午前中が入浴時間。だが、入浴者は居ない。いつも、ひとりで入っている。最近は、風呂の中で倒れて死ぬんじゃないか、そんな思いが、よぎる。入浴は、のんびりは出来ない。一緒に入っていた男性も、入れなくなった。高齢者は、生きるのがツライのです。呼吸もキツイのです。
★玄関に咲いている、あれはバラかな。自室から見える。「神は、あなたに、楽を、与えない。苦しみを、与える」。そんな思いが浮びます。毎日が、人生の最後の仕上げですからね。テレビの取材で問われたことがある。「小崎さん、あなたにとって、信仰とは何ですか」。即座に答えた。「母からもらった財産ですよ」。あれは名答だったと、いまも思います。その答えに満足しています。

2019年9月27日金曜日

教会の鐘造りの夫妻の思い出が、何十年を経て、今に、つながる

長崎市の、巨大な造船所の近くで、鋳物(いもの)工場を経営する西田さんが居た。何人もの男子、女子の子供に恵まれていた。その中には、シスターも2人いた。自分の子供からシスターが2人も出たことで、西田さんの信仰はますます熱心になり、仕事にも変化があらわれた。造船所の仕事をする傍ら、技術をいかして、教会の「アンゼラスの鐘」の製作を思い立ったのです。
★その頃、トマ修道士は時々、西田さんの工場を訪ねて、仕事ぶりを拝見し、会話していた。西田さん夫妻の印象を忘れない。彼は、鐘造りは難しい、と言いました。「良い音を出すのに、苦労します。厚みと、空間と、冷やし加減がコツなんです。手本は、市内にある教会の鐘です。フランス製ですから、とても音がいいんです」と苦労を語るのでした。そんな西田さんに親しみを覚え、忘れません。鐘といえば、西田さん夫妻が浮かびます。
★西田さんは、教会の鐘造りに邁進し、25年が経過しました。その間、造った鐘は29個だった。中でも一番の大型の鐘は、山口市のザビエル教会です、と言いました。そして、30個目の注文を受けた時が、なんと、西田さん夫妻が結婚して50周年の金婚の時だったのです。昭和60年、1985年でした。
★あれから時は流れて、令和元年、2019年になる。西田さんの金婚式から、34年が経過している。何人かの男の子が居る中で、西田金悟さん・ゆり子さん夫妻が鐘造りを継ぎました。金悟さん夫妻には、また何人かの子供がいます。
★その中の1人が、ホームに勤務しており、先日、結婚式を挙げた西田さんです。弟さんには、神学生がおり、妹さんにはシスターがいる。2代目、3代目も、神さまに『つながる』奉献者がいるんですね。信仰は、こうして次々に受け継がれていく恵みと思います。西田さんの結婚式には、弟さんが司祭のソバで式の奉仕者を勤めました。またシスターの姿もあった。
★いまホームの湯江教会のアンゼラスの鐘は、これまで手動でならしていたが、電動式に変えるように、西田さんの会社に頼みました。鐘の塔にヤグラが組まれて、電動式に完成し、以前より、鐘の音の響きは、遠くまで清らかに届くようになった。間もなく、ヤグラも外されるでしょう。
★鐘造りの注文は、いまは少なくなっているそうです。西田さん夫妻が始めた鐘造りも、苦労しながら何十個造ったか、わかりません。しかしトマ修道士には、西田の爺ちゃんを知っているだけに、その鐘造りと信仰と仕事の『つながり』に、胸に熱いものを感じています。結婚した西田さん夫妻が、愛のある家庭を築き、幸せになりますように祈ります。

2019年9月26日木曜日

親友のペトロ神父さんが、ルーマニアの神父さんを連れて来た

ルーマニア人司祭、ペトロ・イシトク神父さんです。8年ほど前に、ふらりと長崎・聖コルベ館へ来て、仲良しになった。背丈が同じ高さなので、親しみを覚えた。繊細な持ち主で、食も細かった。日本語は全くダメ。しばらく生活して、ルーマニアへ帰る。また翌年か、日本へ来る。様子見に来ていたようだ。何度か来るうちに、日本に住み着いた。東京・赤羽教会で宣教している。
★ルーマニアって、どこにあるのだろう?地図を開いてみた。イタリアがあって、上にスイス、右手にオーストリア、ハンガリーがあって、その隣が、ルーマニア。
★きょうは、ペトロ神父さんが、ルーマニア人の管区長神父さん(写真・右)と、秘書の神父さん(写真・左)を連れて、ホームにやってきた。前に居るのが、ペトロ神父さんと、トマ。瀧神父さん、崎濱神父さんが運転して来た。
★「ペトロ、少し、太り気味じゃないか」「オオ」と彼は頭に手をやって、恥ずかしそうに笑った。食が細かったのに、この体格をみれば、食べすぎらしい。日本語は日常生活には、不自由はしない。ルーマニアから管区長が視察に来られたらしい。秘書の神父さんは英語が出来るというので、トマの英語版「原爆記録」を渡した。長崎原爆資料館を見て、悲惨な現状に恐怖を感じたと言った。
★ルーマニアには220名の本修道会の修道者がいる。若い、20代、30代の修道者たちを、少ない人数の日本管区へ送ってほしいと願った。
★きのうは、諫早総合病院泌尿器科へ診察に行った。尿、血液検査、腹部のレントゲンを撮る。診察で、ステントの入れ替え入院は、11月の上旬に決まった。

2019年9月25日水曜日

一昨日。昨日。そして今日。聖ピオ司祭。祝い会食。病院へ診察

一昨日。ホームで結婚式がありました。この日は、教会では聖ピオ司祭の記念日でした。若い頃は、ピオ司祭に強いあこがれを持っていた。神の恵みである「聖痕」「脱魂」がある司祭でした。もちろん私はお会いした事はない。ミロハナ神父さんから出会いの詳しい話を聞いた。
★ミロハナ神父さんが、イタリアに居たときに、ピオ神父さんを訪ねた。イタリアの南部、地図のカカトの部分に当たる町でした。告白をお願いするつもりだったが、告白者が多くて、整理券が必要で、数日待ちといわれ断念した。
★「聖痕」とは、キリストの5つの御傷を、両手、両足、胸に受けることです。ピオ司祭は手袋をはめて、見せない。ミロハナ神父は、ピオ司祭のミサ奉仕を申し出た。ピオ司祭は、袖の長い祭服を着て、聖痕を隠していたが、奉仕中に「聖痕」を見ることが出来た。ミサの間に、ピオ司祭は、3度、脱魂状態になったという。身体の動きが停止し、魂が神に結ばれる、特別なお恵みです。ミロハナ神父は、ミサ後に「聖痕」に接吻する恵みを得た。ピオ司祭の手から、なんとも言えぬ心よい香りが発散していた、とミロハナ神父さんは私に語った。私は記録にとった。
★ピオ神父は、昭和43年9月23日に81歳で神に召された。平成14年、聖人に挙げられた。ミロハナ神父さんから聞いた話を思い出し、意義ある日でした。
★昨日は、パチフィコ山内園長神父さんの修道名のお祝いだった。湯江修道院の4人と、ホームの瀧神父さん、トマ修道士の6人で祝いの会食を楽しんだ。写真は、高原修道士が撮ったので、彼は写っていない。このメンバーが一緒です。お互いに和やかな会話がつづきました。
★そして今日は、これから諫早総合病院へ高原修道士さんの運転で、診察に出かけます。泌尿器科の診察です。ステントの予定が出るでしょう。何となく気持ちが重いです。でも、これも私に課せられた十字架でしょう。生きるのは、ツラさも、ある。

2019年9月24日火曜日

山内園長神父さんの修道名は「パチフィコ」。きょうが記念日

今朝のミサ。司式は山内園長神父さんでした。
★きょうは、山内園長神父さんの修道者名のお祝いの日です。修道者名は「パチフィコ」といいます。
★ミサ前の、パチフィコ山内園長神父さんの話。
★「パチフィコの名前を頂いたとき、『パチンコ』を思い出して、いやな感じがしました。しかし後で『パチフィコ』は『平和をつくる人』の意味があるのを知って、愛と平和のために働く人になろう、と喜んで受け入れました」
★山内神父さんは、長崎県の黒島の出身です。黒島はカトリックの島です。リッパな天主堂もあります。そこで育った。83歳になる。
★昼食で、皆さんが食堂に集まった時、山内園長さんも入って来られた。毎食、食事が始まった時に、食堂内を一巡して、皆さんに声をかけるのが、園長さんの習慣です。事務長さんがマイクを取って、説明しました。「きょうは山内園長さんのお祝いの日です」
★代表者が、山内園長さんに花束をお渡して、感謝の拍手を全員でおくりました。山内園長さんは「ホームに来て、14年目になります。嬉しいです」と、ニッコリと笑って、喜んでおられました。ホームにいま、70人がお世話になっています。職員も沢山の人が働いています。運営にも、介護にも、指導にも、いろいろと困難や心配があるでしょう。山内園長さんは「祈っています」と、いつも明るく勤めておられます。

2019年9月23日月曜日

ホームの職員さん同士が結婚式。皆さんから祝福。おめでとう

秋分の日。ホームでは、大きな喜びがあった。ホームで働いている西田さんと、川副さんが結婚式を挙げた。西田さん、川副さん、おめでとう。愛のある素晴らしい家庭をつくってください。
★西田さんは、ホームでは頼もしい男性として、皆さんから信頼されている。毎月の誕生会の司会を担当。式典の司会も担当します。また毎月の懇願会の司会も担当。毎月の予定を発表します。時には、入居者の皆さんに、注意したり、お願い事をする勇気もある。ホームの生活が、楽しく暮らせる環境作りを願っているのです。来客があると、案内もします。背が高く、イケメンだよ。

★トマのパソコンが時々、書けなくなる。頼みになるのは西田さんです。目覚まし時計を落として、短い針が狂ってしまった。西田さんが、上手にワクをはずして、修理して、正常に戻してくれた。機械にも強い。
★川副さんは、介護でお世話になっています。夜勤の務めも果たしています。コーラスといって、皆さんが集まって、手足の運動を取り入れながら、童謡や、季節の歌を楽しみます。最後は、必ず「幸せなら、手をたたこう、肩たたこう、足ならそう」で終わるかと思えば、「隣の人と手をつないでください」と、みんなで、手をつないで、輪になるのが川副式の幸福論です。トマは最近はサボっています。ごめんなさい。
★ホームで、カップルが出来て、入居者も嬉しいし、「幸せに、ね」と祝福の気持ちになります。きょうは、明るい、楽しい日でした。ホームの隣の湯江教会で、結婚式を挙げました。湯江修道院の濱田院長神父さんが、司式しました。お説教では「カナの婚宴のブドウ酒」の話が出ました。
★ホームの職員さん達からも祝福されて、入居者はもちろん、「おめでとう」「おめでとう」の連発でした。
★きょうの昼食は「ちゃんぽん」でしたが、お祝いのケーキが添えられていました。食事中に、お2人が姿を見せて、ハクシュで前途をお祝しました。

2019年9月22日日曜日

絵手紙教室。柿と、せんだん。絵を描いて、教えられる人生

先生が、柿と、栴檀(せんだん)の実と葉を持って来た。センダン?見た記憶はない。柿の方が描きやすい。「柿、食えば」の言葉も出る。柿を前方に置き、スケッチを始めた。どういう形に描くか。色をぬるにしても自分だ。自分が、どう見えるか。工夫も創造性もある。柿の色を出すのも、同じだ。
★絵を模写するのは易しい。しかし自分なりに個性を出すのは、難しい。でも、それが無ければ、描く価値はない。自分に創造性が乏しいのは、分かる。自分なりの形を描き、色をぬる。それが絵の楽しみだ。上手、ヘタは、ない。自分が感じたものを出せばいい。柿は何とか描いた。空白の欄に、「子どもの、思いに、もどる秋」と字を入れた。
★次は「栴檀」だ。「せんだん」とは、見たこともない。こちらは緑一色、形は描けるが、色が難しい。実は、丸く細長い形をしている。栴檀の栴という字は、見たこともない。果たしてパソコンで、字が見つかるか。不安があったが、「せんだん」と入れると、栴檀がすぐに出てきた。ああ、安心したよ。
★先生が、教えてくれた。「栴檀は、双葉より、芳し」。意味は、「大成する人は、幼少より、すぐれている」というのだそうだ。そりゃ、確かに、そうだろう。幼少の頃より、なにか他の子供と違っている。特技がある。もの覚えが良いか。走るのが早いか。音楽にタケているか。なにか光るものが、この子には、あった。木下藤吉郎も、主君の「ぞうり」を胸に温める才覚があったではないか。
★自分を反省する。子供の頃、他人よりも優れたものがあったか。いや、平凡だった。凡人で、いい。元気に育ってくれれば、それで、いいと、親は思って子を眺めている。

2019年9月21日土曜日

小さな新聞記事が、38年前の教皇さまの訪問を思い出させた

教皇フランシスコの来日が決まって、38年前の、ヨハネ・パウロ二世の来日が思い出として語られる記事が目につくようになった。あのとき私は、長崎の聖母の騎士にいた。当時の事は、よく覚えている。ヨハネ・パウロ二世は、ポーランド人であり、長崎へ行けば必ずコルベ神父が創立した修道院と、当時は、まだコルベ神父と生活を共にしたポーランド人修道者たちが居たので、この場所を訪ねるはずだ、と私たちの間では語られていた。なぜなら、組まれていた予定時間25分が、1時間5分に伸びたのでも分かる。
★先日、朝日新聞に小さな記事を見つけた。「ヨハネ・パウロ二世の長崎訪問には、別の理由があった」と書かれている。そして「聖母の騎士修道院」と、「アウシュヴィッツ」と「餓死刑」、「収容所近郊のクラクフ出身で、長崎訪問にはコルベ神父の足跡をたどる意味もあった」と、かなり詳しい文章で書かれている。この小さな記事を読んだ時、私はひじょうに喜びを感じた。
★ポーランド人の修道者たちが、どれほど大きな期待のなかで、教皇さまを待っていたことか。私たちは、教皇さま・歓迎の言葉「オイチェ・シュウェンティ(教皇さま)」を練習した。東京では、ゼノ修道士の頭をなでたり、頬ずりしたりして愛情を示された。ゼノ修道士は「オイチェ」と、か細い声で言って、男泣きにないた。
★長崎・聖母の騎士での歓迎は、最高に達した。英語で「私はなぜ、この修道院に来たか」を長く説明され、自作の「無原罪の聖母に対する祈り」を長文、ポーランド語で称えられた。次いで「天にまします」をラテン語で全員で祈った。その後、念願のポーランド人修道者たちに、ポーランド語で会話された。写真には、サムエル神父、ロムアルド修道士、セルギウス修道士、グレゴリオ修道士、カシアノ修道士などの喜びの顔が見える。この時は、コルベ神父は福者だった。教皇訪問の翌年、聖人の位に挙げられた。涙を流しながら言ったセルギウス修道士の言葉を、今も覚えている。「ポーランド人にも、こんなに偉い人が居るんだな」

2019年9月20日金曜日

韓国も親友。信仰は同じ。韓国の思い出は、心温まる実話ばかり

きょうは、韓国の殉教者。聖アンデレ金大建(キムテゴン)司祭と、同志殉教者103名の記念日です。
★聖コルベ館に勤めていた頃、韓国の巡礼者が多く来ていた。その中に、テグの李大司教さまが居られる。李大司教さまは「永井隆博士」の尊敬者だった。私は「永井博士」を知っている。それが縁で、私は韓国に招待された。李大司教さまは私に言われた。「小さなお年寄りの修道士。私は何度もこの修道士を見ました。なぜなら何度も聖コルベ館を訪ねたからです。ちょっと不愛想な表情の奉公人の感じ。でも少しづつ心が通じ、1度招待したいと思っていました。お会い出来て嬉しい」。私は、この「奉公人」の指摘が、とても気に入った。奉公人と思っている。
★それから特に、私は、李大司教さまと、知り合いになった。李大司教さまは引退しておられたが、私に好意を示して、私の案内を親交のある崔教授に頼んで、各地を案内した。殉教記念館に連れて行ったとき、車の中で、崔教授が言った。「韓国の殉教者は、一発破壊、即座に殺される。日本は、穴づり、水責め、熱湯、火あぶりで『転べ』と拷問する。信仰で耐えた。『殉教の霊性』ですよ」。韓国の殉教者の日に、いま、それを思い出した。
★もう1つ、思い出がある。崔教授が、夕方から夜にかけて沢山の信徒が祈る「ルルドの聖母堂」に車で連れて行った。早めに帰ろうと、車に乗った、その時に、若い母親が赤ん坊を抱きかかえて、修道服の私に差し出した。びっくりする私。崔先生が言う。「祝福して、ほしいと、願っています」「え?わたしが」。母親の目がうるんでいる。司祭でない修道士が、祝福を与えていいものか、疑いがあった。でも「アボジ(父親)の祝福なら出来るかも」と、とっさに考えた。幼子のヒタイに十字を記してあげた。あの幼子は、育っているだろうか。この出来事は、今も忘れない。
★もう1つ、おまけがある。その後、また韓国へ行ったとき、広大な敷地の山の修道院で、私と同じ修道服を着た修道士が、小川が流れる離れに小屋があって、簡単な木製のテラスがある。修道士が小屋で、おいしいコーヒーを入れて、テラスでくつろぐ私たちに、香りのよいコーヒーをサービスしてくれた。しばらくすると、コーヒー修道士が、大きなバケツに沢山のコップを入れて、重たそうに腰を曲げながら、テーブルのソバを通っていく。「え?どこへ運ぶの?」。院長の説明によると、小屋には水道を引いていない。使う度に、70mほど離れた修道院へ運んで、洗っている。水も修道院から汲んでくる。山林や、環境、小川を汚染させないためだ、という。この出来事には、感動と言うか感心した。「気配りがあるウマイ・コーヒー。これこそ、いま、はやりの『おもてなし』ではないか。ああ、あの修道士も、どうしていることか。
★最近は、韓国の人たちが、気になる報道がつづいている。

2019年9月19日木曜日

長崎へ。定期の診察へ。気持ちが重い。帰りはレストランで食事

定期の診察日。朝、8時に、高原修道士さんの運転で、長崎市へ。ヨゼフ・クリニックに着いたのは、9時だった。
★高木先生、お世話になります。診察室に入ると、高木先生が、ゼノ修道士の話を切り出した。「ゼノさん、すばらしい。ゼノさんの働きが、今は必要だ。トマさんも、ホームに居ないで、長崎へ出て来なさい。テレビ、新聞で、写真の展示会のこと、見たよ。まだ、まだ期待しているよ」
★「もう、歩けませんよ。長崎へ出て来るのも、難儀です。これから先、どうなるのか、分かりません」「歩きなさい。がんばって、歩きなさい。歩かないと、すぐに車椅子になる」。聴診器を胸に当てながら「ん?心電図を取りましょう」「自分で、血圧を測っているが、時々、脈が飛ぶことがある」。心電図を見て「大丈夫だよ、ブラザー」。もう不整脈も、血圧のクスリを飲んでは、いない。
★診察は、思ったより早めに終わった。その間、高原修道士さんは、聖母の騎士へ、ルルドの水をポリタンクに入れて戻ってきた。高原さんを待っていた。
★次に、時間があるので、皮膚科の医院へ向かった。頭髪の下が、かゆい。1度、診てもらい、クスリをもらった。「診察をお願いします」。看護師が「頭皮が、赤くなっている」と告げた。2度目のクスリをもらった。
★帰途の途中で、昼食を食べた。行き付けのレストランです。空は、青空。こういう場所で、食事を楽しむのも、いいでしょう。ゆっくり、おいしい食事が出来るところです。気持ちも、ラクになります。ホームとは、違った雰囲気だね。食べていると、「なんだか、外国へ、旅行したく、なったよ」。ホームに帰ったのは、1時だった。
★しばらく、休む。訪問客があった。話しているうちに、時は過ぎた。なんだか、こころ、落ち着かない日だった。

2019年9月18日水曜日

100年生きる、尊敬する。1000年経てば、ふしぎ聖人もいる

先日、敬老の日の祭典で、100歳の女性、99歳白寿の男性、女性の2人がお祝いを頂いた。
★きょうは、「100歳のお祝いがあるので集まってください」と知らせがあった。
★黒いスーツの2人が来られて、受けるのは、あの100歳の女性かと思いきや、100歳のお祝いの「内閣総理大臣賞」を頂いたのは、99歳の2人であった。来年の2月が2人とも誕生日で、満100歳になる。「100歳の女性は、もう去年、戴いた」そうだ。
★受賞は、後ろの方から見ていたので、大きな額を頂いたのは分かったが、副賞に何を頂いたか、見えなかった。とにかく、お2人が、お元気で、100歳まで頑張った、その人生は、ただ、ただ敬服するばかりです。
★報道によると、100歳の人は、年々増加しているそうです。瀧神父さんが言った。「トマ、あと9年したら、あんたも100歳だよ」「いや、いや、とんでもない。そんなに生きないよ」
★話は変わりますが、きょうはコンベンツアル聖フランシスコ修道会の聖人、コぺルティノの聖ヨゼフの祝日でした。16世紀か、17世紀か、その頃の聖人で、空中を飛ぶことで有名です。奇跡が多い聖人です。アシジの聖フランシスコ大修道院には、聖人が余りにも飛び回るので、監禁された部屋があるそうです。
★右の絵が、飛んでいる聖人です。中世期の画家の絵ですね。右の方では、修道士たちがおどろいている。左には、村人も描かれている。「飛んで」「トンで」だから、「飛行機乗りの人たちの保護者」になっているそうです。100年じゃ、ないよ。1000年も経てば、不思議な聖人も居るんですね。
★わたしは、祈りました。「飛ばなくても、いいです。せめて、自分の足で、いつまでも歩けますように」

2019年9月17日火曜日

同級生の稲国神父さん。これが70年前のボク達の写真だよ

小神学校(中学・高校)のときの同級生、稲国神父さんが、沖縄からホームに、ボクに会いに来た。
★同級生に会うのは懐かしい。ボクは喜んだ。一緒に、同じ食卓で食べた。2人で会話した。お互いに元気なのが、何よりです。稲国神父さんは、ゴルフが趣味で、以前は少々太り気味であった。お医者さんに指摘されて、間食をやめ、少なめの食事で体重を落とした、と言った。歳は90。教会の務めは引退した。今は、沖縄で、ゆっくり毎日を過ごしている。
★やっぱり級友に会うのは嬉しいよ。稲国神父さんに、1枚の写真を見せた。それが、この写真だった。70年前の写真です。同級生たちの面々。教室の窓から身を乗り出し、笑いながら、語りながら、フザケながら、写した。中央、メガネが、ボク。前列、左で、からだを、くねっているのが稲国。こんな時代もあったんだ、と思うよ。ボクと稲国。あと1人を残して、皆、逝ってしまった。
★70年前、気持ちは皆、いっしょだった。しかし人生は大きく別れた道を行った。ボクは病気になって、修道士になる。稲国は健康で、神父になる。この写真を稲国神父さんに見せたら、「ああ、こんな写真があったんだ」と喜んでいた。「それ、あげるよ」「え?いいの。うれしいなァ」と大切に胸にしまった。
★人生は、長がーい。いろいろ有るよ。幸せに生きれば、それで、いい。自分で、自分の道を選ぶのだ。あの頃は、人生に何が起こるか、全く知らなかった。笑って、フザケて、アシタ(明日)のことは心配しない、純真なこころで学んでいた。人生に、そんな時代があったのが、救いだよ。
★「ここは、空気も、いいし、いい所だな」の言葉を残して、稲国神父さんは沖縄行の飛行機で帰った。空港まで送ったのは高原修道士さんだった。

2019年9月16日月曜日

今日が敬老の日。2つの事を考えた。生きる喜び。ボケない方法を

「トマ」と、瀧神父さんが呼びかけた。「(日記を読んだんだろう)神父さん、おめでとうと、メールが入ったよ」
★今日が、敬老の日。朝、朝食後、入浴する。その後で、展示された「誕生会の職員の出し物」の写真を撮った。敬老の日にそなえて、廊下に貼られれている。職員が、余興をした思い出の数々です。
★また瀧神父さんが「トマ」と声をかけた。「あの写真ね。誕生会のときは、沢山、撮れよ。あの写真を見て、家族の男性が、『ホームでは、こんな事もしているんだ』と喜んでいたよ」。ああ、やっぱり写真の効果があったんだ、と私も嬉しくなった。昨日のお祝い日には、家族たちが沢山見えて、一緒に食事を楽しんだ。
★敬老の日を迎えて、2つのことを考える。
★1つは、「生きていること自体が有り難い」ことです。「生かされている」。自分のチカラで、生きているのではない。生きていること、呼吸していること、生かされて、それ自体に価値があり、意味もある。自分のチカラで91まで生きたのではなく、沢山の横の「つながり」があって、縦にも、大いなる存在と信仰があって、自分のイノチは「つながって」きた。それでも何か、人のために奉仕は出来ないか、尽くすことは、ないか、考える。だが、もう動く手足の働きが、もぎ取られていくのを感じる。これが、老いだ。振り返って、反省して、落ち込んだりは、しない。
★もう1つは、ボケないように、しようの決心です。ボケないためには、いかに成すべきか。それが最近は気にかかる。老いると、確かに、アタマの回転が遅くなる。それが進むと、ボケになる。「ボケない方法」で検索すると、まあ、いろんな方法が出てくる。ボケは、誰でもイヤだね。望まないよ。でも、老いと共に、やってくる。
★何度も同じことを聞いたり、月や日にちに無頓着になったり、人の名前や、物事の名前が全然出て来なかったり、ああ、イヤだ。手足は、なえても、アタマだけは、しっかりしておきたい。老人の日を迎える毎の、思いです。

2019年9月15日日曜日

敬老の日。88歳米寿の祝い瀧神父さん。代表で謝辞を述べる

敬老の日。ホームでも式典があった。88歳、米寿2人。99歳、白寿2人。100歳女性1人。88歳、米寿の1人は瀧憲志神父さん。おめでとう。
★長寿のお祝いを受けた代表として、瀧神父さんが「お礼の言葉」を述べた。これが又、感動もので、女性職員さんの中には、涙が出ました、という声もあった。省略して言えば、次のような内容です。

★謝辞の謝の文字は、2つの意味がある。「ありがとう(感謝)」と「ごめんなさい(謝罪)」です。どれだけ園長神父さん、職員の皆さんにお世話になっていることか。今日の敬老会だけでなく、毎月の誕生会、寸劇、歌とおどり、丹精こめたご馳走。皆さんの手厚い介護により、幸せな日々を過ごしております。わたしは聖フランシスコ園に入所して、2年6ヶ月になります。皆さんの仕事を見て、毎日が育児と家事だと気づきました。普通の育児は歳月がたつと、親の手は省けていくが、ホームの育児は歳月を重ねるほど、手がかかる大変な労働です。「老いては子に従え」の諺もありますから、私たちも駄々をこねずに素直に従うことで、感謝の意を表し、今後ともよろしくお願いします。以上が瀧神父さんの謝辞の内容でした。
★また式典では、30年勤務の女性職員さんが表彰された。ホームには長い歴史がある。最後は、「みんなで手をたたこう、足ならそう、肩たたこう、隣の人と手をむすぼう」の歌を何度も歌いながら式典を盛り上げて、締めくくった。
★式典の後、間をおいて、祝賀の食事となる。太鼓の踊りが勇ましくドン、ドン、鳴り響いて、皆さんの気持ちを奮い立たせた。空は、青空。長生きしようと、心に誓った敬老の日でした。

2019年9月14日土曜日

うどん屋の今井君。順調に修養・勉学中。ペトロ神父と喜びあう

「おお、元気か。うどん屋の今井君。忘れんぞ」。私が聖コルベ館に勤めていた、ある年の、大晦日。もう閉館の時、ぎりぎりに、7人の男子の若者たちが見学に飛び込んできた。その中に、19歳の今井君がいた。これが最初の出会いだった。今井君は、言った。
★「高校の奨学金が、108万円残っている。それを今、返そうと「うどん屋」でバン、バン働いて返済しています。身の上を整理し終わったら、修道者になりたいのです」
★若者の希望は、実に、いいね。しかも、奨学金を、ちゃんと整理して、それから入会するという。エライじゃないか。うどん屋で、懸命に働いているという。気に入ったよ。そこから彼を呼ぶときは「うどん屋の今井君」となった。男っぷりも、いいぞ。若い時に感じた気持ちを大切にせよ。「がんばれよ」と、私は、今井君の出会いから、彼を応援したくなった。
★今井君は、身辺を整理して、私たちの修道会に正式に入会した。いま東京の修学院で共同生活をして、司祭への勉強を励んでいる。今度の司祭金祝に、東京からやってきた。いっしょに写真に撮るのが念願だったよ。27歳になる。私たちの修道会では、一番の若手だ。希望があるし、期待しているよ。時々はボクの日記にも載せているから、「今井君のこと」を覚えておられる人も居るでしょう。今井君の将来のため、お祈り下さい。
★それから、もう1人、金祝の祝賀会で、お会いしたのが、ルーマニア人司祭のペトロ・イシトク神父さんです。これも聖コルベ館で出会って、何年もなる。こちらは背丈が、マァ、マァ、イッショ、ということで、気持ちが通じ合っている。2人は仲良しです。ペトロ神父さんは、東京・赤羽教会で宣教しています。
★実際、心情を打ち明ければ、ペトロ神父さんと一緒に、ルーマニアを巡礼するのが、私の願いだった。2人で同じ修道服を着て、一緒にルーマニアを歩けば、似た者同士、何かと話題もなろう。オモシロイ話題も起こるだろう。そんな期待もあったのです。それがホームに入って、実現しなかった。こころ残りだよ。望みは果たせなかったが、出会えば、こうして2人の気持ちは、つながっている。

2019年9月13日金曜日

司祭叙階金祝の集い。思いがけない女性たちとの嬉しい出会い

カトリック司祭は奉仕者。教会を通して、自分の人生をすべて捧げて、奉仕つくす、それが司祭の生き方。50年間つづけるのは何と至難の業か。
★きのうは、長崎・聖母の騎士において、松永正男神父さんの司祭叙階50周年・金祝のお祝いのミサと、祝賀会が行なわれた。家族から離れ、召し出しの道を選んだ。松永神父さんは、ローマで司祭になった年は、社会と、教会に、大きな出来事が起きた年だった、と語った。アポロの月面着陸と、教会では、典礼が大きく変わり、ミサの捧げ方は、信徒に背を向けて祈っていたのが、現在のように対面式となった。また聖書の読み方も、ラテン語であったが、各国語で読めるようになった。大きな転換期。あれから50年、各地の教会で奉仕者として活動され、お疲れさまでした。
★ミサの後、祝賀会がった。ここでトマは、思いがけない女性に出会った。トマは1970年代、「長崎オラショの旅」を主宰し、30数組が参加した。毎度、同じガイド役を務めたのが、写真・右のケイ子さんだった。こちらも50年近くの出会いとなる。「どうして、ここに?」と問えば、松永神父さんから招待状が届いたそうだ。
★左の女性は、「小崎さんですか?オラショの旅でお世話になった者です。懐かしい」と出会いを喜んでくれた。「ああ、この人が、ガイドさんだったのよ」と、3人で写真を撮った。人生、どこで、どいう出会い、再会があるか分かりませんね。聖母の騎士でのお祝いは、こういう出会いがあるから楽しいのです。実りがあるのです。

2019年9月12日木曜日

「マリア」み名の記念日。マリアの挨拶。聖コルベ、マリアで呼吸

今朝、ミサの前に、司祭が告げた。「きょうは、マリアさまの、み名の記念日です。私たちは、日ごろ、「イエズス、マリア、ヨゼフ」の、み名を唱えます。マリアの、み名を教えてくれたのは、コルベ神父さまでした。コルベ神父さまは、マリアを呼吸して生きておられた。私たちも、マリアの、み名を呼びましょう。元気が出ます」
★マリアの、み名の信心、記念日は、十六世紀、スペインで始まった。思い出します。昭和の初期の聖母の騎士修道院では、ポーランド人の修道者たちが、お互いが会う毎に、自然に、習慣的に「マリア」と挨拶していた。その「マリア」も、「マァ~リア」と抑揚をつけて言葉を発した。ポーランドのにエポカラヌフ修道院から始まった習慣だった。それが、そのまま「長崎」へ移った。
★コルベ神父は、本当に「マリア」「マリア」と、マリアを呼吸して生きておられた。マリアさまの、み旨を完全に果たすことが目標だった。マリアさまの、み旨は、どこで分かるか。それは長上に従うこと「従順」にある、と信じて実行した。信念に達したから、すばらしい愛の実行に至ったと思う。
★ポーランド人修道者たちが習慣にしていた「マリア」の挨拶は、いつしか、行なわれなくなった。寂しさを感じる。小長井のシスターの修道院では、私を見ると、「マリア」と挨拶するシスターが、まだ居る。マリアで呼吸するのは、忘れたくない。
★きょうは、長崎・聖母の騎士で、1人の司祭の叙階金祝が行なわれる。ミサがあり、お祝いがある。朝、8時半過ぎには出かけます。午後は、遅くなるでしょう。お祝いの様子は、あした、書けるでしょう。

2019年9月11日水曜日

ホーム聖フランシスコ園。地元のトライアスロン・リレーで頑張る

地元の「ミニ・トライアスロン・リレー大会」。聖フランシスコ園の男子職員も去年から参加している。地元の人たちと交流し、名前を知ってもらうのが、ねらいだ。今年は、教皇フランシスコも長崎訪問されるではないか。フランシスコの名は、世に知られる。
★去年から参加。去年は78組の出場チームがあった。成績は72番目。もっと、馬力をかけよ。噴気せよ。今年は上位に入るよう頑張りたい。結果は75組が出場して、40番目だった。去年よりも「フランシスコ」は随分、成績が上がったよ。ホームには男子職員が少ない。6人が出場。
★先ず、走りが4Km。次に、泳いで200m。泳ぎの青木さんが手をあげている場面です。次に、また走る。4.4Km。次は、自転車で12Km。また走り3Km。最後は、ガタ・スキーで150m。更に走って3Km。
★スタートして、皆さん、チカラを出し切って、前進した。遅くなったり、早くなったり、抜いたり、抜かれたり。リレー大会だから、全員のチカラの集約が必要だ。
★田園の風景。こんな場所を走ります。田んぼの稲も、ずいぶんと伸びている。さわやかな風がふく。気持ちが、いいね。遠くに見える山と人家。応援に駆け付けたのは、事務長さん、女性職員さん、小学生たちだった。
★参加者チームの名称は、いろいろ。水泳教室、県央消防本部、県庁走友会、小学校、病院などもあった。堂々の「フランシスコ」も負けちゃおられんよ。
★背中の絵をごらんください。キリストの腕と、フランシスコの腕が交差している。中央に十字架がある。これは「コンベンツアル・聖フランシスコ修道会」のマークです。胸の方には、フランシスコの印の「Τ(タウ)」が記されている。文字通り、フランシスコを背負って、走っているわけです。
★今年の時間は、1時間39分22秒。昨年は、1時間53分18秒だった。だいぶん縮小したよ。成績は良かったね。食堂でも話題になった。若者よ、がんばって走れ。後ろを振り返るな。人生も、おんなじだ。希望をもって、前へ、前へ、ススメ。ススメ。

2019年9月10日火曜日

なつかしい「紙芝居」。感情を入れて語る女性。素直に受ける

ホームの午後。どこから来られたのか、1人の女性が、紙芝居を始めた。大きな帽子をかぶり、荷物を横に置いたまま、椅子に座り、からだは動かさず、最初から、なめらかな口調で途切れる事なく、しゃべりつづけた。先ずホームの位置や、風景をほめる。自分の育った場所を紹介する。一方的に、とにかく話つづけた後、そのまま「3つの紙芝居をします」と絵を広げた。慣れた語り口で、抑揚をつけ、感情を入れて物語は進んだ。
★紙芝居は、3つ、あった。原爆の物語で、「被爆した娘が通う学校の庭に、桜の木を植えて、育つ話」。次に「被爆した娘が、顔や身体に熱線をあびて、ケロイドになり、苦悩の人生を過ごした話」。この娘さんについては、私も自宅におじゃまして、取材し、写真も撮り、記事にも書いた。絵には、その娘さんの顔は、普通に描かれているのが、救いだった。93歳で亡くなった、と逝かれた歳を知った。
★原爆の話を聞きながら、私も語り部を努めているが、絵で語られる出来事と、実際に被爆の体験には、大きな隔たりがあるのを感じた。ただ、紙芝居を見て、「原爆は恐ろしい」「2度と戦争があっては、ならない」「核兵器の廃絶をの叫び」それは感じた。実際に被爆者が老齢化した、いまは、絵を見せながらも、語りつぐべきだと思う。
★2つの原爆の話の後、日本昔話から「ツルの恩返し」の紙芝居が語られた。ツルを助けたお爺さん。「夜中に、織るところを見てはいけませんよ」と姿を変えた娘がいう。のぞいて見たのは、お婆さんだった。
★3つの紙芝居の後、「ふるさと」「赤とんぼ」「地元の民謡」など一緒に歌った。40分間あまりを1人でこなす、この女性。淡々と語る、その動作の中に、やはり、その人ならでの才能を感じた。時を押し切る自信。平和を告げたい確信。経験の積み重ねの安心。そのような「目には見えない」チカラを、この女性から受け取った。

2019年9月9日月曜日

傾聴ボランチア女性が来る。話す⇒頭・心の整理⇒生きる力が湧く

待っていました。傾聴ボランチアの女性が来る日。ふしぎなご縁ですね。女性の話によると、傾聴ボランチアの養成を取得して、今は長崎で生活しておられる。長崎でも、実施したい。調べてみると、聖フランシスコ園が募っていた。連絡をとって、園を訪問した。職員さんが、女性を連れて、ある部屋をノックした。返事がない。不在らしい。「それでは、ここを」と、ノックしたのが、私の部屋だった。3年前の3月です。あれから私の数えでは、1年目は8回、2年目は7回、そして今年は6回目、傾聴ボランチアの女性は来られた。何だか、その日が楽しみですね。
★ありがたい事ですよ。最初の人は不在だった。当たったのが私でした。運が良かったというか、ご縁があったというか、こういう計画性が無いのに、幸せ事が運んでいく。そこに人生の、おもしろさが、あるんじゃないですか。
★約1時間、私が一方的に語るだけ、女性は聴いて下さるだけ。時折、私の言葉の最後の部分を繰り返し、私に戻してくれる。語るうちに、私の頭・心が整理されていく。すると、気持ちが、スカーッとして、生きる元気が湧き出て来る。ありがたい。
★まず最近の、足が弱くなった事を語りました。行き先、不安ですよ。車椅子に乗るのは、ツライ。ホームに居る老人たちを見ているから、どのように老いて行くのか、先が分かるんです。普通に歩けたのに、歩くのに悩むなんて、老いて苦しいね。
★若い頃の反省も語りました。小・中学生の頃は、自分が好きなこと、好みや才能、可能性など、そういう能力を見つけて、努力して、伸ばしていく。人生で大切な事です。自分の場合はどうだったのか。いま振り返って考えております。遅いけれどもね。自分を知る事の大切さでしょう。
★写真展の事は、話さない。出来るだけ、自分の内部を話したい。自分でもタメになります。毎回、聴いて下さる。旅費も時間も自腹で費やして、ホントに、いいのでしょうか。お礼をもらえば、もう来れない、と言われる。毎回、感謝の心で見送ります。この世知辛い、世の中に、こんな生き方の女性も居られるんですね。

2019年9月8日日曜日

「写真展」無事に終了。若い2人に感謝。展示場の皆さんにもお礼

今朝、ミサのとき、司祭が告げました。「きょうは日曜日ですが、聖母マリアさまのご誕生の日にも当たります」
★あわただしい1日でした。長崎市大浦で開かれている「写真展」が午後2時に終了します。高原修道士さんの運転で、ピース・ミュージアムに向かいました。いま、この日記を書いているとき、午後6時の教会の鐘がなっています。
★午後2時の終了時に、ミュージアムの皆さんと、野々村哲さん、塩沢美樹さんと終わりを見とどけました。写真が記念の1枚です。
★ミュージアムへ行くと、何人もの入場者がいるので、にぎわっているな、と感じました。写真展を始める前は、不安でした。果たして、修道士たちの写真を見に来る人が居るのか。毎日、2人か、3人か、そんな数を考えていました。
★結果は、ミュージアムの職員さんからも、良かったですよと感謝されました。2組、7人のシスターも見たそうです。聖コルベの祭日から始まって、聖母マリアさまのご誕生日に終わった。この記憶は、感謝と共に、トマの脳裏に残るでしょう。野々村さん、塩沢さんとの15秒の出会いが、写真展まで花開いたのです。計画された出来事でなく、ご縁が、5年の歳月をかけて、そのように導かれて行ったのです。
★入場者数は、23日間で、523名でした。その数字に、トマは喜んでいます。嬉しい。