2020年1月31日金曜日

ゾーニに始まり、ゼンザイで終わる。世の中、オチがオモシロイ

昼食に、大きなドンブリに、ゼンザイが出た。これ又、デカイ餅が入っていた。びっくりするよ。
★思わず、心の中で叫んだ。「1月は、ゾォーニ(雑煮)で始まり、ゼンザイで、終わる」。キズナというか、オチというか、こんな、世の中、つながりを発見すると、おもしろい。
★食卓に、栄養士さんが来たから、余計な事を聞いた。「1月も終わりだから、ゼンザイば、出したとね」「いいや、そういうワケじゃなかけど、お正月のお餅は、これで終わり」。ああ、そうなのか。でもね、モチに始まり、モチに終わる。やっぱり、1月は、これで、いい。
★令和2年になって、早いですね。もう1月も終わりになった。元日に撮った写真です。顔が暗く写っているので、今まで使わなかった。今年は、どんな年になるか、その思いで載せました。自分の写真ばかり載せないで、と言わないでください。老人は、いつ何時、急転するやもしれない。去年の正月は、急性肺炎で入院して苦しんだ。老人に肺炎は一番危険です。「まだ、まだ、今年までは、ガンバルぞ」。そんな気持ちで居ります。
★いま、望むことは、何ですか。そうだ、ね。生きる気力、気合いかな。毎日、日記を書いてきて、よかったと思うよ。考える時間だね。日1にち、1にちは同じだけど、イノチをつないでいるのは、お恵みだね。
★ホームに居ても、楽しい事はあるよ。日々の出来事の中に、チョットした、オチを見つけると、楽しい。しめくくりだね。落語じゃないが、ニッポン人は好むからね。
★ああ、そういう毎日を暮らしたい。

2020年1月30日木曜日

ポーランドの子供たちの思い出。子供たちには、未来が秘めている

50年前の、ポーランドの人たちです。大人も居るが、子供たちも居る。ポーランド人たちは、初めて、日本人の一群を見た。コルベ神父が生まれた町です。バス1台の日本人の巡礼団がお祈りと、見学に来た。町にとっては、大きな騒ぎでした。
★ポーランドの人たちは、親愛の眼差しで、日本人たちを見た。「ヤポニァ」「ヤポニァ」「ニッポン」
★その中で、4人の少女たちが目に付いた。すばらしい笑顔。ホントに楽しそうだ。写真に撮った。バスは動き出し、あの笑顔からは遠ざかって行った。
★33年後、この写真の少女たちと再会した。写真を見せて、喜んだ。13歳から17歳だったから、年齢が大よそ分かるだろう。皆、母親になり、小学校の教師をしている女性も居た。私は彼女たち4人に、長崎産の真珠のイヤリングをプレゼントした。彼女たちは、また同じ笑顔で、喜んでくれた。
★最初にポーランドを訪ねた時は、旧ソ連の支配下にあった。生活も苦しかった。しかし自由を取り戻して、明るい国になった。ポーランドの可愛い服装をした子供たちです。「マリア祭」の時の子供たちでした。
★日本とポーランドは縁が深い。100年前に、シベリアへ難民となったポーランド人の子供たちを、日本政府が引き取って、治療・休養させた歴史がある。8回にわたって、765人の子供たちが助けられ、ポーランドへ戻された。今年がちょうど100周年になる。ポーランド人は、日本人が好きだ。日本人もポーランドが好きだ。子供たちに目を注ごう。子供は将来を担う大きな力を秘めている。
★ポーランドの赤いスープ、おいしかったな。ポーランド人の修道士たちの愛、身に染みて感じるなァ。「ジンドブリ」「こんにちわ」「ジンクーエン」「ありがとう」

2020年1月29日水曜日

歩けるハズの人間が、今は「押し車」に頼って移動している

人間が歩くのは、普通と思っていた。呼吸するのと、いっしょです。考えなくても、深刻に思わなくても、自然に、歩ける。階段も、登れる。ホームに来た6年前は、そうでした。
★ホーム入所当時は、庭を、マリアさまのご像を中心に、何度も回って歩いて満足していた。それが今では、困難になったんですね。ヒザ関節が、痛いわけではない。カラダ全体が、重くて、歩けない。本当に思うよ、歩けるって、有り難い。80までは、考えても、みなかった。90に入ると、そうは、いかない。
★今では「押し車」を使って歩いている。朝、ミサと祈りに教会へ。3度の食事で食堂へ。週に3回は入浴場へ。この小さな押し車に頼っている。去年の7月、9.800円で買った。「小さくて、いいね」「いい、ガラだね」。誉める声が聞こえる。「ほめて、もらっても、使う者には、大変だよ」。両手で持って、トコ、トコ、前へ歩く。情けないよ。こんな自分じゃなかったが、人は、こうして徐々に、老いて行くのだね。ホームは、余生を暮らす生活、と言い聞かせる。わかっとります。
★老いても、祈りと、読書は出来るじゃないか、という人もいる。それは出来ます。でも、素直に、そうは行かないのが、人間です。人生には、生産性や与える愛が、必要だね。日常に、それが無ければ、やっぱり、クビを、かしげるね。今の気持ちを、素直に綴れば、自らに言う。人に、説法ができるか、お前は、何んなんだ。
★介護の女性職員さんが、自室の掃除をしてくれた。「ありがとう。スマンね」。洗濯の職員さんが、洗濯物を持ってきてくれた。こちらも「ありがとう、いつもスミマセン」。いま、トン、トンと自室をノックして男子職員が扉を開けた。「見回りです」「大丈夫、ありがとう」。こうして自分は、今日も痛みなく、ゆっくりと呼吸しております。

2020年1月28日火曜日

新聞で、コルベ神父が紹介。強制収容所、2度と悲劇を繰り返すな

昨日の「西日本新聞」に載った。1月27日は、アウシュビッツ強制収容所が解放された日。今年は75年を迎えた。この日に、コルベ神父が紹介された。やはり、コルベ神父は忘れられていなかった。
★私が、聖母の騎士に入った時、コルベ神父は戦争中に亡くなった、という事だけが噂として話されていた。1年数か月後に、初めてポーランドから「聖母の騎士誌」が届いて、コルベ神父の最後が分かった。しかし「オシフィエンチㇺの英雄」を記されているだけで、強制収容所の実態は、全く知られていなかった。
★数年が経って、私は1冊の、赤い表紙の、アウシュビッツの実態を書いた本を読んだ。その時、初めて「オシフィエンチㇺ」は、ポーランドの町の名前であり、強制収容所の名前がアウシュビッツであるのを知った。その場所で、何と悲惨な、残虐な行為が行なわれたことか。人体実験、強制労働、ガス室、飢えと寒さ、銃殺、110万人が殺された。ポーランドの修道院からの便り、雑誌には、全く、それらの様子は書かれていなかった。
★1971年、私が聖母の騎士に入って、26年が経っていた。初めてアウシュビッツ強制収容所を訪れた。福者コルベ神父への巡礼であった。そこで見た、聞いた現実は、余りにも辛辣だった。その後、2004年まで、10回、アウシュビッツを訪問し、コルベ神父の餓死室で祈った。
★人は、生まれた時には、人間が何者であるか、全く知らない。老いて、老人になることは、人間が何者であるかを、余りにも知りすぎる。欲望と絶望しかない。その中にあって「友の為に命を捨てる、これ以上の愛はない」。聖書のキリストのみ言葉を文字通り実行して、真実の愛を貫いたコルベ神父の殉教は、人間に希望と平和を与える。コルベ神父の声が、もっと聞きたい。
★コルベ神父への追いかけは、私の人生にとって、貴重な慰めと勇気になる。聖コルベが居たという事実が、人間に、希望と、明るく生きる力を与えてくれる。
★聖コルベの取次ぎを、祈って下さい。心は、安らぐ。

2020年1月27日月曜日

40年前の写真。3人は同じホームで暮らし、1人は神へ逝った

40年前の写真です。
ヴァチカンの聖ペトロ大聖堂の広場です。
左から、ローマン修道士さん、トマ修道士、ローマ在住の西山神父さんです。
ふしぎな縁ですね。
ローマンさんは、ホームで、100歳で神に召された。
トマ修道士と、西山神父さんは、同じホームで暮らしている。
3人揃って、写真を撮ったとき、将来、こうなるって、想像もしなかったよね。
★40年前だよ。歳月に押し流されて、人は、老いて行く。
西山神父さんに、ローマでは度々お世話になった。
★西山神父さんは、日本の巡礼者から貰った日本の小物、ボールペンなど、バッグに入れて、ヴァチカンのスイス兵に、差し上げる。まあ、言ってみれば「おみやげ」だよね。スイス兵は、西山神父さんを見れば、サッと敬礼して、通してくれる。普段は入れない部屋にも案内できる。事は順調に運んでいく。
★この写真を見て、人は歳月で変わる。花の時代もあった。飛び跳ねる時代もあった。30年経って、40年経って、人は思いもかけない程に、老いて行く。枯れて行く。やっぱり、花の時代が、懐かしいよ。うらやましいよ。でも、もう、戻れない。
★現実を、素直に、受け入れて、耐えて、捧げて、最後まで奉献生活を貫いて行こう。ローマンさんが、よい手本を示してくれた。

2020年1月26日日曜日

人生には様々な試練や苦しみがある。祈り、求め、信頼して生きる

日曜日。長崎市の白浜さんが、ルルドのお水を持って来た。「白浜さん、がんばるね」。彼は、日々、聖母の騎士のルルドを守り、清掃している。「きれにしておけば、お参りに来る人も、気持ちが、いいからね」
★コルベ神父さまが開いたルルドのお水は、多くの人に親しまれて、愛飲されている。世の中には、様々な試練や、苦しみ、痛みがある。マリアさまに助けを祈り、信頼して、苦難を背負って生きるしかない。祈る人の心は清い。きっと恵みが有るだろう。
★「特別に、目だった人が来ているって、ありますか」
★毎週、見える人に、2人居りますね。1人は、アタマ、ツル、ツルの男性。お坊さんかと思ったら、整体師。リュックにお水を一杯背負って帰る。「時々、ご苦労さま」と言って、ジュース代200円くれる。ありがたく頂いて、献金箱へ入れている。
★もう1人は、寿司屋のお兄さん。こちらもリュックに入れて、帰る。
★「韓国人の巡礼者たちが全く来なくなって、寂しくなった」。白浜さんが、この仕事をするようになって8年目。66歳の時からだという。聖母の騎士のルルドへ行って、働いている白浜さんを見かけたら、言葉をかけてください。
★ルルドには、いろんな木があります。教えてくれた。クスの木、スギの木、ツツジ、キンモクセイ、サツキ、ナンテン、ヒイラギ、ツバキ、サザンカ、などなど。
★「聖女ベルナデッタのご像の背後に、1本の白い八重ツバキがあったでしょう。俳人が来て一句を詠んだ。『おん母の恵みか冬の八重椿』」「あれ、枯れてしまった」「ああ、残念や、な」。俳人は、水原秋桜子さん。あの時、修道院のドナト・ゴスチンスキー神父さんが案内した。神父が言った。「わたし、ゴチソウスキーです」。俳人は笑った。それだけ覚えている。
★コルベ神父のルルドには、いろんな人がお恵みを戴いています。湯江修道院では、高原修道士さんが頻繁に通って運び、愛飲している。白浜さんが来て、ルルドを思い出した。

2020年1月25日土曜日

テレビでシスターは語る。命ある限り、神の愛に包まれている

食卓で、隣の女性が言った。「テレビで、シスターの話がありますよ」「シスターって、渡辺?」「いや、鈴木か?新聞に載っていました」。既に録画をしておいた。
★朝から入浴して、ゆっくりと録画を見た。その中で、「回心」という言葉が出てきた。
★シスターが言う。「カイシンとは、自分をあらためる『改心』ではなくて、『回心』、自分を、まわす。世俗的な物欲に引っぱられる自分を、またキリストの方へ心をまわしていく。毎日、毎日、苦しい中でつづける」
★今日は、聖パウロの回心の祝日です。「教会の祈り」にも、回心と書いてあった。キリスト教徒を迫害し、あるいは殺害していたユダヤ人のパウロは、突然、光に打たれて声を聞く。「パウロ、なぜ、私を迫害するのか」。パウロは、それをきっかけに回心し、熱烈なキリスト教徒となる。
★改心ではなく、回心に変えよう。シスター、ありがとう。目が開けた。どれほど今まで沢山の回心をしてきたことか。修道士を生きるという事は、何度も、何度も、回心の連続だった。それでも神さまは、待ってくださっている。生かしてくださっている。生きることが、大きなお恵みであるのを、心底わかっているのだろうか。
★テレビのシスターの最後の言葉をメモしたよ。「いのちは天から与えられている。その人にとって一番かけがえのないものだから、命を与えられている限り、神の愛に、あなたは包まれている尊い存在だということを、私たちは覚えておく必要があります」
★昼食のとき、隣の女性に告げた。「テレビ、シスター、見て、よかったよ」

2020年1月24日金曜日

食べて、元気を出して、前へ進もう。コップの水は満杯か、良し

栄養士さんが、全員に、「食事の調査票」を配った。「ご飯の、硬さ、やわらかさ、どうですか。おかずの量は、どうですか。味付けは、どうですか。何か食べたいモノがありますか。デザートは、どうですか」。いろんな問いが書いてある。栄養士さんも、何とか、決められた料金で、おいしいモノを食べさせようと、心がけているんですね。
★食べることは、前へ進む原動力です。食欲がなくなると、困るなァ。食べているうちは、元気が出る。やる気も出る。安心でもある。
★写真の料理は昼食でした。ごはん、えび寄せカツ、くず煮、山菜そば汁、みかん、でした。ホームのデザートに、ワイン・ゼリーなど、各種のゼリーが出ます。これが、おいしい。楽しみでもある。きょうは出ない。きのうの昼食に、アズキ入りのゼリーがあった。
★昨日のコメントに、牛肉の天ぷらを食べた、とあった。ひさしぶりに、牛肉の天ぷらを思い出した。これがボクの大好物だった。母の味です。ホームにお世話になって、これからは、自分の身体のことを考えて行くべきでしょう。
★自分は、自分なりの、人生を過ごしてきた。他人と、比べては、いけません。うらやんでも、いけません。大きなコップには、沢山の水が入る。小さなコップは小さく入る。どちらも満杯になれば、それでよい。それ以上、望むなら、こぼれてしまうよ。自分の人生を感謝しましょう。「ハイ、これだけよ」。たいした事はなくても、コップに一杯なら、「ハイ、ヨカたい、ヨカばい、うれしかバイ」

2020年1月23日木曜日

壁で小さなカードが「ありがとう」と叫んでいるよ。聞いて、よ

「ウーㇺ?」。廊下で、立ち止まって、見た。10cmほどのカード。壁に、ひっそりと、セロテープで止められている。他に、目に付く貼物が沢山あるから、こんな小さな『モノ」は、目につかない。でも、ボクの目にとまった。「かわいい」。折り鶴に、一輪の紙の花。「ありがとう」の文字。これを見て、「イッパイ、こころが、詰まっているな」と感じた。
★端っこに書かれた「ありがとう」。この文字が、大きな喜びと愛を表現している、そう感じた。
★ひっそり、場所で、ありがとう。誰も、気が付かないだろう、でも、「ありがとう」と叫んでいる。神さま、ありがとう。人さま、ありがとう。介護を、ありがとう。これしか、今日のボクには、ありません。
★あなたも、きょうは、誰かに、「ありがとう」言ってください。ポーランド語で「ジンクーエン」

2020年1月22日水曜日

「ツライ」と「幸せ」の合間を通りぬけて、まイチもんじに、進め

「幸せ」という字は、心地よい。誰もが、望んでいる。父親の名前は「松吉」といいます。その松吉が、生まれた息子に「幸一」の名をつけた。「一」は長男だからであろう。「幸」は、「幸せであってほしい」と願ったのであろう。誰もが、生まれた赤子には、そう思い、喜ぶ。
★だが、「幸」から、「一」を引くと、「辛い・ツライ」になる。これが、問題だよね。「一」が、あるか、無いかで、ガラリと変わる。人生とは、そんなモンだよ、と「幸一」は我ながら、そう思う。
★苦しみ、悲しみは、あちらから、やってくる。幸せは、自分で見つけるモンだ、といわれる。いろんな困難は多々あったけど、それも、なんとか乗り越えてきた。ツライときも、痛みも、苦しいときは、ツライけど、何かの意味があるのだと、これも捧げようと、流れに任せて、いまが、ある。そんな感じがします。
★父親が付けた「幸一」は、好きな名前です。シンプルで、幸せがありそうな、名前です。でも「幸一」は、殆ど使っていない。「登明さん」「トウメイ・さん」。これだね。★入院先の病院で、見舞いに来た神父さんが「トウメイ・さん、何号室ですか?」と、受付に聞いた。「そんな人は、入院しておりません」。後で、わかって、「ハッ、ハ、ハ」
★「幸い」と、「辛い」が、隣りあわせというのが、いいね。人生、そのものだよ。
★残る余生に、「幸い」があるだろうか。考えるね。また、何が「幸い」なのか、と問われれば、答えるは「難しい」。ツライことは、イッパイある。わかる。幸いは、納得しにくい。どうして、そう、なんだろう?
★「辛い」と「幸い」の真ん中を、通り抜けて、ま「一」もんじに、進み行け。最後の瞬発力を絞り出せ。カラ・ゲンキを出して、いまは、そう、思う。
★パソコンで、この日記を書きながら、窓の外を見ると、ホームの庭の片隅の所で、葉が付いていない2m位の木に、2人の男性が、腰をかがめて、根元に、何か作業を行なっている。背の低い桜の木もあり、さるすべりの木もある。肥料をやっているのだろう。「やっぱり、人生、進むには、肥料が必要か、な」
★今日は、体操が終わって、女性の職員さんが自室を掃除してくれた。日記を早めに書いた。午後から来客があります。

2020年1月21日火曜日

永井隆博士の映画と、コメント、ハガキから、思い出を語る

丘の上に建っている浦上天主堂。これは映画のセットです。昭和58年(1983年)、永井隆博士の原作「この子を残して」が、映画となって公開された。
★監督は、木下恵介さん。主人公の永井隆に、加藤剛さん、奥さんの「みどり」さんは、十朱幸代さん。この写真を撮ったのは、私です。天主堂を真っ先に、永井先生の2階建ての家や、番地と名札、井戸、天主堂からの道、など46枚のフィルム写真が残っている。監督さんや、俳優さんの記者会見の場面もある。
★しかし、この写真を撮った記憶はあるが、場所はどこだったのか、どこに天主堂を作ったのか、全く覚えがない。素人とは言え、加藤さん、十朱さんなどは、パッチリ撮っている。原爆前の姿です。戦争中でもあった。後ろの家が、永井先生のお宅になる。
★私が、この思い出を日記に載せたのは、1月5日、カシアノ修道士の命日に、カシアノさんの「ハンバーグ」の思い出など日記に載せたところ、コメントに、「千葉の81歳の男性です」と、聖母の騎士園や、ゼノ修道士、そこに「隆叔父」と書いてあった。「隆叔父」とは誰のことかと、コメントの返事に「その頃のこと、記憶していること、ハガキで教えてください」と記した。すると、その男性から、ハガキが届いた。
★「隆叔父」とは、永井隆博士のことだった。先ずは、びっくりしました。左の写真は、映画のロケのなかで、天主堂から、家族が自宅へ帰る場面です。左の隅に、4人が映っている。当時は、こんな風景でした。
★そして、そのハガキに、英子(ひでこ)さんの名前が記されていたのです。これ又、2度、びっくりした。
★原爆前、戦争中に、私は脊椎カリエスを病んで、大学病院に入院・治療していた。時々、知らない、キレイなお姉さんが見舞いに来るのです。少年の私の胸は、ときめいたモノです。誰だろう?そのお姉さんが、英子さんでした。永井先生の妹さん、と聞いた。女子医専に通っていたが、療養で永井先生のお宅に居られたようです。本当に、あの頃、病気の私はお姉さんに慰められた。忘れられない人です。
★その後、英子さんは結婚されて、満州へ渡る。戦争に巻き込まれ、家族を失い、苦労されて、長崎へ戻られる。英子さんは東京で、ある教会の受付係りとして、永井先生の意思をついで平和活動をされていた。私が、その教会を訪ねた時、英子さんは既に逝かれており、英子さんをよく知っている女性が案内してくれた。「永井先生の妹であるのを、一言もいわなかった。逝かれたとき、報道陣や著名な人が葬儀に見えて、初めて知りました」と語っていた。私が「英子さんの著書に『奪われても』があるはずですが」と、女性と一緒に教会の図書棚を探すと、1冊、見つかった。
★今日は、永井先生の映画と、寄せられたコメントにまつわる思い出を書きました。

2020年1月20日月曜日

自分の足もとを掘りなさい。いい水が出る。そんな声が聞こえる

水仙の花。湯江教会の祭壇。もう、スイセン、か。
★毎朝、祈る。4時30分に起きる。寝るのは夜8時。教会へ入るのは、5時20分。濱田神父さん、高原修道士さん、2人の女性、2人の男性(1人は車椅子)の姿がある。橋口修道士さんが来て、瀧神父さん、山内園長神父さんが席につく。
★5時40分、十数人の信徒がそろう。「教会の祈り・朝の祈り」が共同で唱えられる。その後に、ミサ。
★教会で、祈れるのが、ありがたい。特に聖体拝領では、深くアタマをさげて感謝する。二千年の歴史のなかで聖体拝領はつづいてきた。信仰の重みを感じる。
★「自分の足もとを、掘ってごらんなさい。いい水が、出てきますよ」。そんな言葉が浮かんだ。水は、いつも聖母の騎士のルルドの水を飲んでいる。足もとを掘る、自分の足もとから、何が出てくるか?癒しの、恵みの、いい水が出るだろうか。水は大切だ。いい水が飲めなければ、病んでしまう。「足元を掘りなさい」。これは、ルルドにご出現のマリアさまの、少女ベルナデッタへのみ言葉だった。「いい水」とは、信じる事、愛する事、希望を持つ事でしょう。「わかります、わかります」
★今日の昼食は、鍋ものだった。チャンポン・メンか、ラーメンか、「寒か、ときには、これに、かぎるね」。鍋の熱さで、顔もホテる。冷えたり、温くなったり、日によって肌の感じが違う。ポツ、ポツ、風邪が、はやり出した。注意しなければ、ね。ホームは共同の生活だから、看護師さんも気にする。
★いま、遠藤周作の「イエスの生涯」を読んでいる。テレビでは、相撲の「炎鵬」を応援している。「コマカ、カラダで、よーく、がんばるよ」。炎鵬が勝ったら、3回は声をあげて、ハクシュするね。

2020年1月19日日曜日

長崎にも雪のつもる冬があった。若くして命を失うのは、悲しい

長崎には、いま頃、雪は降らない。温暖化の関係であろう。昭和30年代は、37cm積もった1月もあった。記録しているから覚えている。雪が降ると、「ああ、やっぱり、冬らしいなァ」と、実感が湧く。
★その頃の修道士たちは、若者たちが10数人いた。にぎやかだった。楽しかった。「オーィ、雪だぞ、降ったぞ」。気持ちも、ワク、ワクする。若いからね。
★当時は、昼食が終わると、みんな並んで、教会へ、短い祈り、聖体礼拝がある。それが終われば、自由時間となる。雪に喜び、1人が、雪ダマを丸めて、投げつけた。2、3人で、雪合戦が始まる。雪に、若い気持ちは、抑えられないよね。
★修道士でも、じゃれた気持ちで、雪ダマを作って、投げ返す。また、タマが飛んでくる。場所を変えながら、タマで応戦する。白いのが「ビューゥ」と迫ると、とっさに、カラダを避けるよね。身体をひねった瞬間、修道士は石垣から落ちた。
★何人かの修道士が助けに寄った。意識はあったが、1人の修道士が言った。「これは、危険だ」。鼻から、一筋の血が流れ落ちている。彼は、入会前は電気工事の仕事をしていた。時々、落下事故があったそうだ。その経験から、危機を悟った。やはり、一週間後に、修道士は逝った。27歳であった。今日が、彼の命日です。長いモンですね。61年が経っている。時が経っても忘れない。
★トマが入会した時、彼は既に居た。15年程、いっしょに暮らし、祈った、仲の良い修道士だった。長い年月だが、故人の修道士にために祈った。
★人生を短く終わる人、そして今の自分の歳を思うとき、早く逝った人が可哀そうで、可哀そうで、たまらない。生きて居れば、苦しい事もあるが、楽しみ、喜び、いろんな経験が出来ただろう。振り返って見ると、仲間の司祭、修道士たちは、みな若くして逝った。惜しい人材だった。
★誰が、取られ、誰が、残るか。分からない。特に、事故や、殺傷で、若いイノチを落とす人は、本当に悲しい。なぜ、そうなるのか、イノチのことは、誰にも分からない。冥福を祈ると共に、ただ自分には感謝あるのみです。

2020年1月18日土曜日

傾聴ボランチアの女性が来る。4年目に入る。総計で、24

今年になって、初めてです。4年目になる。数えると、24回目。根気よく、つづけて訪問してくれる。
★当方が、語るだけ。思い浮かんだ事を、しゃべる。1時間。生活は、どうか?心配事は、ないか?楽しい事は、あるか?落ち込む事は、あるか?自問する。
★いよいよ冬の寒さに入った。下着と、上着の着るもので、カラダを慣らすのに、悩む。カゼを引いたら、アウト。医者から、胸が弱いと言われている。
★外出すると、疲れるのか、夜、寝つきが遅くなる。若い時は、(両手を広げて)、こう、外に向かって、計画や、活動や、他人に尽くす思いがあった。老いた今は、(両手を内側に)、こう、中に入ってくる感じ。待っているんですね。
★来客や、会合の予定があると、小さな喜びを感じる。ホームの単調な生活に、ポタリと希望が落ちて来る。でも、終わった後は、疲れるんですね。
★食べ物には気をつける。腎臓を大事にする。塩分は控えめ。カリウムも気にする。お菓子類もいただくが、食べる量は、自制をきかせる。難しい事では、ない。
★トラブルや、イラ、イラは、ありません。静かな日々だが、退屈はしない。いい事ばかり言うようだが、安心して暮らしている。日記を書くのも、考えて、結構、時間がかかる。出来栄えが、いいと、嬉しいね。
★語りながら、自分でも「オー、これは、いいセリフだぞ」と思う事がある。ボランチアさんが、その言葉を繰り返して、戻してくれる。日記を書く段になると、忘れてしまう。書けないよ、ここには。ザンネン。
★自分の生活を吐き出すんですね。こんな内容の話は、傾聴ボタンチアさんにしか語れない。そこに自分への救いがあるような気がします。
★ボランチアさん、いつも来てくれて、聞いてくれて、ありがとう。

2020年1月17日金曜日

寒さの中、長崎へ。診察へ。気が重い。昼食は「にぎり・すし」

お医者さんも、大変な、お仕事です。ホームから高速、飛ばして1時間。午前9時には、クリニックに着いた。待合室には、15,6人の患者さんが待っている。
★杖をついたお年寄りも多くなった。これら1人、1人の、全く違った病気を診察して、良い判断をくだす、人の生き死ににかかわるお医者さんも責任重大です。高木正剛先生も、この顔で、がんばっておられる。
★受付には、聖ヨゼフ、聖母マリアのご像が置かれている。聖像が招くように、A修道女会のシスター2人、B修道女会のシスター1人、目立つ姿が交っている。
★「〇〇神父さまー」と名前を呼ばれた。「いま、トイレです」。親切な人もいるモンだ。トイレから出て、急いで、診察室へ。どこの神父さんだろう。「山内神父さまー」も呼ばれた。ホームの園長です。一緒の車で、ここに着いた。
★そのうち、トマも呼ばれた。「ブラザー」とマイクで呼ぶ。沢山の患者さんが居るので、あまりスキじゃない。「どうですか?」「変わりありません」「筋トレ、やっていますか」「ハイ」「ブラザーの右の肺が良くないね」「前に、病んでいますからね」。分厚いトマのカルテ。高木先生はパソコンは使わない。もう70も半ばになられる。最後に「高原ブラザー」も呼ばれる。
★終わったのは10時30分頃だった。高原修道士の運転で、トマと2人、諫早へ。皮膚科へ寄った。「アタマが、かゆい」。ここには患者は、3人だけ。すぐ終わる。
★昼食は、すし屋へ。小板のメニューで注文する。「にぎり」を2人で、20個は食べただろう。デザートも付けた。料金は2千7円だった。「安ㇲーィ」

2020年1月16日木曜日

イッパイの肉うどん。調理も介護もお疲れさま。感謝しかない

肉うどん。おいしかったな。汁の味がよい。肉汁が気に入った。最後の一滴までも飲み干した。こんなことって、あまりない。
★肉うどん、と言えば、飯盛山のところに、山のうどん屋があって、ホントに、メシを盛った形をしている山なんだよ。トンネルがあってね。そのソバに、うどん屋があった。今も、あるかな。
★ホームに入る以前は、毎月、療養に、海の温泉へ行っていた。その途中で、飯盛山のうどん屋に寄った。そこのウドンが、またウマかった。肉汁が出ているからね。汁の色が違う。ホームのウドンを食べながら、それを思い出したよ。イッ・パイのウドンの幸せ。もう最近は、何事にも、ありがとう、だね。感謝しかない。生かしてもらっている感じが全身にフツ、フツと、わいているからね。おおげさかな。
★昨日は、夕食に、女性職員さんの退職の挨拶があった。寂しいよね。女性職員さんは涙ながらに「22年、お世話になりました」と深々とアタマをさげた。大きな拍手がわいた。22年の歳月へのハクシュだった。介護で、22年。そりゃ大変だ。介護される人には、体重の重い男性もいる。腰が痛くなる。肩にもヒビいてくる。それでも機敏にがんばった。お務めを果たした。ご苦労さまでした。ホームを忘れないでね。
★あしたは、朝、早くから高原修道士さんの運転で、長崎市のヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ行きます。帰りが遅くなります。まあ、ボチ、ボチ、進みましょう。

2020年1月15日水曜日

日ごとの糧を有り難う。外を見れば、スズメも共存してるよ

昨日の写真と比べてください。ジィーさんに、なったね。
★昼食時です。歳をとると、日にちが経つのが早やーィね。1月は、もう半分過ぎたよ。正月だから楽しかった。2月は、修道名の聖人、日本二十六聖人、聖トマス小崎の祝日がある。楽しみだね。3月は、誕生日だよ。これも楽しみだね。92だよ。この顔で、ね。
★長崎市の千草さんから電話があった。「誕生会、お祝い、しますからね」「楽しみにしているよ」。やあ、愉快だな。生きて、幸せ。
★食卓から屋外に目を向ければ、この風景です。眺めがいいので、場所に満足しています。心の中は、どうですか?清く、生きよ、と願います。キレイな呼吸は、キレイな生活から出るからね。「負けるな」「逃げるな」「ガンバレ」、いい言葉は沢山ある。だが繁華街の看板みたようなもので、心の中は、あんまり燃えていないです。「良いモノ」を、いかに自分のものとしてキャッチするか、うまくタイミングが合った時に、スンナリ心に入って、実感となる。自分のモノになり、行動を起こした時に、成功する。
★あれ、あれ、窓をよく見ると、スズメが居るぞ。昼めし食べている。まだ、オレの目、よく見えるな。あのスズメのように、くヨ、くヨせずに生きたいよ。4羽も居るじゃないか。仲良くやっているじゃないか。「共存する」だね。共に、いっしょに生きましょう。ストレス貯めずに生きましょう。「共存」「キョウ・ゾン」。ベリーグット。

2020年1月14日火曜日

ハタチ(20)のボクは何していた?高校生だった。忘れぬ思い

昨日は「成人の日」だった。
★自分の20歳は、どうだったのか。
★今とは、全く時代が違うね。写真が、その頃。幼稚な顔をしている。高校2年生だった。ハタチ(20)で、高校生?ずい分、遅れているじゃないか。これも戦争のトバッチリを受けての事。肝心な時期に、勉強どころでは、ない。16歳で、爆弾を造る工員になって働いた。
★終戦が、17歳。中学校をやり直して、18歳で中学3年。高校に入って、ハタチになった時も、まだ高校生だった。戦争の被害で、しわ寄せが、こんな小さな個人の身にも降りかかっていた。軍国主義で鍛えられ、戦後は希望を失って、どん底の精神状態になる。戦争って、やっぱりイヤだね。
★ハタチの時は、昭和23年。「町内の公民館で、成人式が、あったのか、なかったのか、覚えては、いない」
★ハタチの時、忘れられぬ思い出が1つある。夏休みに、初めて上五島へ渡った。昭和23年8月9日、長崎・原爆の3周年の日だった。鯛之浦港で、盛大な「海の聖体行列」が行なわれた。感動ものだったね。この朝、上五島の桐教会の海域を出港したカトリック船団が、ご聖体の船を先頭に、美しい大漁旗をなびかせながら、鯛之浦湾へと向かった。私たちは鯛之浦の海岸で待ち受ける。
★やがて船の汽笛が聞こえて、島影から第1船が現われた。その後で、続々と波しぶきを立てて、快走する「神の船団」。初めて見る光景だった。何と、20数隻の船団が並んで大きく近付いてくる。その様子は、華麗というか、豪華そのものだった。
★鯛之浦の海岸に着くと、山口司教さまがご聖体を奉持して上陸し、幾千の信徒の讃美歌が天にこだました。私は、原爆で死んだ母を思い、冥福を祈った。
★十字架を先頭に、ベールと祈りの波が、祭壇がある小学校の運動場へとつづく。戦争は終わった。迫害されていた宗教が、自由になった。その喜びは、かつて先祖たちが体験し、解放された喜びの追体験だった。大声をあげて、神を、キリストを、聖母マリアを讃えて、行列は尽きなかった。
★あれが、ハタチの貴重な思い出だった。70年が経過して、信徒の思いも、信仰も、変化をみせた。なんとなく、さびしい。

2020年1月13日月曜日

ショックを受けた、テレビで見た「認知症」のお医者さんに

ある日の夕方、廊下の窓から見えた。すばらしい光じゃないか。自然は美しい。朝が明け、夜は沈む。音もなく、天空も変わらない。変わるのは人間だけだ。
★「認知症」の知能テストがある。いつも春になると、看護師から呼ばれて、問われて、答える。これが一番スカン。「今日は何曜日?」「野菜の名前を10言いなさい」「5つの物を見せますから、覚えとって、ね。後で聞きます」「100から7引きなさい、また7を引きなさい」
★この有名な「知能テスト」を始めた精神科のお医者さんが誰であるか、テレビで知った。「痴ほう」と呼ばれていたのを「認知症」の言葉に変えた、優秀なお医者さんだった。何千、何万の患者さんを診てきたであろう。戦後、最初に「認知症」に取り組んだ、著名な権威あるお医者さんだった。そのお医者さんが「認知症」に罹って、病んでいるとテレビに姿が映った。「人間って、なんと、ふしぎな存在だ」「人間って、まったく、わからない」と、テレビを見ながら大きなショックを受けた。おそらく、このテレビは大きな反響を呼んだことだろう。「人間って存在は、最後まで、分からぬものだ」
★そのお医者さんは、デイケア・サービスに通っている。皆さんに交じって、「アップップ」「アップップ」と言って、口を閉じて、ふくらませる。これは、そのお医者さんが考案したリハビリだそうだ。それを本人が「アップップ」とやっている。見ていて胸が痛くなった。「なぜ人間は、こんなに成るんだよ」「こんなに、思いもかけない境遇に落ちるのだよ」。お医者さんの歳は、90歳。杖を突いて、しっかり歩いていた。だが「今日は、何曜日?」。正解が出ない状態になっている。悲しさしか、ない。
★これから「知能テスト」を受ける度に、このお医者さんのテレビの姿を思い出すだろう。「認知症」に、なる人、ならない人、なぜ、そう、なるのか、全く分からない。
★お医者さんの取材は、長期間にわたった。番組を終わるに当たって、テレビが聞いた。「認知症になっての景色って、どんな景色ですか」。お医者さんは先ず一言つぶやいた。「変わらない」。そして、つづけた。「普通だ。前と同じ景色だよ。夕日が沈んでいくとき、普通だ」
★ああ、自然は、雲の上から、サンサンと、光を注いでいる。美しいヒカリを。認知症になっても、あの雲からの光は美しく変わらないのだろう。

2020年1月12日日曜日

フランスから「週刊誌」が届いた。トマの記事は痕跡を与えるか

昨年の6月、フランスからホームへ女性記者が取材に来た。11月になって、教皇さまの来日に合わせて、フランスの週刊誌に記事が載った。送られてきたのは、トマの記事だけ、2ページの見開きの部分だけだった。「週刊誌」を見てみたい、そう思うじゃないですか。
★そこで、フランスのジャムさんに頼んで、「週刊誌」を送ってもらった。それが左の写真です。大きさはA4版か、28cm、21cmある。ページは67。
★フランス語だから、内容は分からない。しかし日本の週刊誌と比べると、体裁はモダン。日本の週刊誌は、見てはいないが、新聞の広告によると、私生活を暴いたり、芸能界の話題など、編集の内容が違う。このフランスの週刊誌は、先ず、ある夫妻のインタビユーか、8ページにわたって書かれていた。
★その次、2番目に、2ページに、ポンと見開きで出ていたのが、トマの取材記事だった。通訳の、大学の先生が訳してくれた内容を、もう1度読み返してみた。原爆の日の出来事を、丹念に書いている。コルベ神父の餓死室で、光を見つけた、と結んでいる。
★この週刊誌を手にしたフランス人たちは、突然、活字で出てきた「原爆体験」をどのように受け止めただろうか。そう思った。だが、今の世の中、何かキナ臭い匂いがしている。国と国は騒然、亀裂があり、核戦争の危機さえある。真剣に「世界の平和」を考え直さなければならない時にきている。かつての戦争前の感じがする。
★大きな自分の顔の表情を見て、いい雰囲気で撮っていると満足した。
★ジャムさんの家族の写真も入っていた。「2020年に、又、トマさんと再会出来るのは、楽しみにしております」
★夏、汗まみれのジャムさんに、修道士は1コップの冷水を差し上げた。それがご縁で、10年近く経っても、交流がつづいている。その縁は、更なる広がりを見せている。
★フランスに、日本を愛する家族が居る。人と、人の、よい「つながり」こそが平和をもたらす。沢山の人が居るが、「この人に出会って、幸せだった」。そういう温かさに出会うのが、大きな価値がある。

2020年1月11日土曜日

誕生会と新年会。獅子舞の踊り。歌の出番でトマ歌う、受けたよ





1月の「誕生会」「新年会」共に、昼食で行なわれる。獅子舞が出ましたよ。2人の女性職員の、ひょっとこ面もあった。獅子舞の尾っぽに入ったのは、事務室の職員さんでした。腰をまげて、ごくろうさん。
★1月の生まれは、8人が居た。1月1日生まれ、西山達也神父さん。「ハッピバスデイ」。園長神父さんから、お花と小さな灯と、おみやげをもらった。他の人たちも同様です。

★獅子舞の登場。皆さん、喜ぶわね。ハゲ・アタマも、女性のアタマも、大きな口でカンで差し上げた。祝福だよ。長生きするよ。めでたいことよ。ヒョットコお面も、花を添える。 食堂は、ハクシュと、笑いと、唖然と、アッと言う間のひと時でした。誕生会は楽しみだよ。

★毎回、出し物が違うからね。職員さんに、役者務めが割り当てられている。役者がかった職員も居て、おもしろい。
★お祝いの食事は、すき焼きだった。牛肉、野菜は、たっぷりあった。長崎和牛だよ。たっぷり食べた。瀧神父さんと、普通は食卓は離れているが、今日は一緒の食卓、隣だった。
★食事の後は、歌の出番だね。「今年、最初の誕生会でもあるし、ここで、イッ曲、うたって、やるか」と、トマが「ハイ」と手をあげて、マイクを持った。「誕生会、新年会、おめでとう。今年は災難がない、よい年になるよう」と言って、「月の砂漠」を、声を張り上げて、歌った。「金と銀のクラおいて、先のクラには王子さま。後のクラにはお姫さま。おぼろに、けぶる月の夜を、トボ、トボと」。結構、受けたよ。瀧神父さんの評。「最初は、ウマク行ったが、後では、ヨロケた。最後まで歌って、感心したよ。3月、トマの誕生会には歌うからな」

2020年1月10日金曜日

お正月のモチ。「田舎ぜんざい」食べた。2杯目が良かったな

鏡もち開き。「モチは出るだろうか」「出ますよ」。世間では、モチの入った「ぜんざい」を、意識して食べる家庭は、そうないだろう。1人住まいの家では、なおさら、そうだ。しかしホームでは、ちゃんと出ました。昼食時です。
★写真は、1食目。え?ちょっと、汁が少ないな、思いました。モチはデカかった。準備されたワンだから、汁が、アズキが、ぬるめだった。でも喜んで食べた。
★年に1度は、お屠蘇を飲む。年に1度は、「ぜんざい」を食べる。
★「おかわりが、ありますよ」の声。「ハイ、ハイ、ハイ」。2食目が右の写真です。「熱か、ばい。アズキの、イッパイ、入っている」。鍋の底の部分らしい。2食目で満足しました。メニューに、「田舎ぜんざい」と書いてあった。この他に、焼きウドンもあった。老人は、食にこだわる。イカンね。でも食べて、ゲンキになる。
★調理の栄養士さんが私に言った。「トマさんの日記、読んでいて、ホームの宣伝になるよ。『老人ホームに入るなら聖フランシスコ園に』と年賀状に書いてあった、と読んだ時、ホント、うれしくなった。胸が熱くなった」。私は、答えた。「そうよ、ホームで、どんな生活をしているのだろう。皆さん、楽しみに読んでくれている」
★あしたは土曜日。1月生まれの誕生会と新年会がある。職員の出し物は何だろう?楽しみだな。

2020年1月9日木曜日

正月気分が抜けて、平凡なホームの生活が始まる。気力は有るか

午前中に、自室の窓から見えた。ホームの庭。マリア像をかこんで、松の木がある。正月早々、剪定が始まった。もう数日間も、トラックが移動している。きれいな庭が仕上がるだろう。期待が持てた。
★ホームの正月、何事も起こらなかった。静かな平日がつづいた。「ホームで暮らす」「晩年を生きる」「日々、感謝と、祈る生活」「ヒソ、ヒソ話には、加わらない」「食事の文句は、言わない」「気合いが入っていない人を、テレビで見ると、イラ、イラする。オッス、ゲンキよく」「黙っていて、言葉を言わない、自分の気持ちを表現しない、これも、イラ、イラだよ」「まあ、そう、そう、イラ、イラ、するなよ。人には、生き方もある」
★ホームで暮らして、何か、不安は、ありませんか。そう、ね。イラ、イラはしないが、楽しい夢も浮かばない。今は、まだ大丈夫です。日々を、シッカリ暮らすだけです。これから先、どうなるか、神さまの導きにお任せしよう。老いるとは、ホームで生活する人たちの姿を見れば、当然、自分にも、その姿は、やってくる。
★車椅子を押して、加勢するのも、親切と見えるが、考えものです。その人の筋力を失わせる。漕ぐ(こぐ)チカラが必要だね。気力だよ。気力を失ってはダメ。一方、ヨチ、ヨチと歩く人には、職員が寄り添って見守る。倒れたら、骨折の危険があるからね。ホームでは、狭い廊下で、食堂で、さまざまな光景を見ながら、自分も歳をとっていく。
★午後から、窓の外を見ると、植木屋さんは、最後の作業か、マリア像の足元で手入れをしていた。令和2年も良い年でありますように、ホームも平穏無事でありますように、願いは一緒です。マリアさまが見守っておられる。
★あれ、あれ、高原修道士さんと、事務長の岩田さんじゃないか。「ホームの近所の人が逝かれた。葬儀で祈って、帰ったところです」
★ある哲学者は言った。「死とは、宇宙の大きな命の流れ、生まれる前の、自分にかえること」

2020年1月8日水曜日

コルベ神父の誕生日。生家へ巡礼。愛の花びらは枯れることがない

1月8日、コルベ神父の誕生日。この家で生まれた。
★1894年(明治27年)、ここで産声をあげた。この写真は、1971年、昭和46年10月に写した。巡礼団の一員として同行する。コルベの住まいは2階だったと住居人はいう。幅広いベッドをキレイに片づけ、毛布の真ん中に、青い目の男の子の人形がポツンと足を投げ出して座っていた。「この部屋で、コルベ神父さまは生まれました」。はるばる訪ねて来た日本人の巡礼者たちは、その場にひざまずいて、合掌して祈った。コルベ神父が福者になった時で、ようやく、この家にも注目がそそがれていた。ポーランド国のほぼ中央、ズドンスカ・ヴォラという都市にある。人口は4万6千人と聞いた。
★ライモンド・コルベ。男の子ばかり3人兄弟で、次男だった。父のユリウス・コルベは織物職人。自宅に織物機械を持ち、僅かな収益で生計をたてた。母は信仰熱心なマリアンナ・ドンブロフスカ。ライモンドは母親から信仰を受け継ぎ、聡明な子として育った。
★兄と共に、コンベンツアル聖フランシスコ修道会の小神学校に学ぶ。修道者になった時、戴いた修道名が、マキシミリアンだった。後に、これに「マリア」を付けた。「ライモンド」の名前は余り使われない。マキシミリアン・マリア・コルベの名で知られている。ライモンドを使ったのは、強制収容所アウシュヴィッツに於いてであった。
★コルベ神父生誕110年に、生家のすぐ近くの教会で、祝賀会が行なわれた。長崎から巡礼団を組んで、お祝いに参加した。生家は解体され、立派な家屋が資料館・記念館として建てられた。これが10回目の訪問となる。記念式典だから広い会場に招かれたが、挨拶も乾杯もなく、思い思いに会食して、司祭たちは散って行った。巡礼団は、特別なお客さんとして歓迎されたから、お返しを考慮して、日本の踊りや歌を披露するはずだったが、舞台に上がった時には観客はまばらだった。これがポーランド式なのか、いまでも強く印象に残ってる。しかし親睦を深めたのは確かだった。
★コルベ神父の生涯は47年。「証聖者」と「殉教者」の2つの冠を受けた。強制収容所のナチの兵隊は言った。「お前は、チューリップのように枯れてしまえ」。だが、神の愛を全身で遂行した真実の「愛の花びらは、枯れることが、ない」

2020年1月7日火曜日

かつて聖母の騎士に「ライモンド君」の名のネコがいた。懐かし

聖母の騎士に、「ライモンド」というオス・ネコがいた。ルルド祭のとき、ルルドで拾った。高校生(神学生)の勇太郎が連れて来た。5歳ぐらいだったかな。名前を付けたのは神学生。「ライモンド」。いい名前だね。ライモンドは皆から可愛がられた。名前を呼ばれ、「ニィーャン」
★ライモンドは室内では飼わない。修道院の炊事場の外に居た。朝のお勤めが終わると、ライモンドは扉の外で待っている。夕べのお勤めが終わると、同じ場所で待っている。修道院では、よく魚を食べるので、ライモンドも満足していた。市販のネコのエサなんか食べない。カマボコも好物。匂いをかいで、3、4秒確認して、食べた。
★昼間は、ルルドの参詣者が来ると、一緒に登る。ライモンドが案内するように、ルルドへ招く。登明日記にも書くようになった。「ルルドのベンチで、祈っていると、ライモンド君がヒザの上にのって、ジーッとしているのです」などの話も聞いた。
★ライモンドは、オスなのに、優しいネコ君だった。魚のエサも、他のネコから奪われるこもある。ライモンドは、ゆずってやった。ライモンドは、神学生や、修道士たちから、愛され、見守られた。修道院の食事になると、「ニャーォ、ニャー」と声で呼ぶ。「ライモンド、御かしら付きのサカナだよ。横取りされるなよ。いい顔、している。幸せか、これ食べて、安心して暮らせよ」。ねぐらが、どこに有るのか分からない。
★そのライモンドが、エサをもらいに来なくなった。姿が見えない。「国道の、下の場所まで、行っていた」とウワサも聞いた。心配になる。日記にも書いた。コメントが幾つも入った。日記の読者も心配しているんだな。
★「ライモンドよ、出て来いよ。おまえの姿、顔が見たいよ」。ライモンドが居なくなって、さびしくなった。情がうつれば忘れない。あれから、もう5、6年が経っている。ライモンドは生きているだろうか。お前には、結構、フアンが多かったんだよ。
★今日、1月7日は、教会では聖ライモンドの任意日です。それでライモンドを思い出した。なぜ「ライモンド」と付けたかって?ライモンドはコルベ神父の名前です。明日、1月8日は、ライモンド・コルベ神父の誕生日です。聖ライモンドは13世紀に活躍した聖人です。コルベ神父は、その聖人の名前をもらったのでしょう。ネコもその名前をもらった。