2019年1月31日木曜日

聖ドン・ボスコ。サレジオ会。ブリ神父さんの思い出、一杯

朝、ミサの前に、司祭が言った。「聖ヨハネ・ボスコ司祭の記念日です。サレジオ修道会の創立者です」
★サレジオ修道会と聞いて、すぐに思ったのが、愛野教会(下の写真の赤い教会)に居た「ブリ神父さん」だった。去年の春に、県外へ転任した。お元気で、明るく活動しておられるだろう。ポーランド人の神父さんだったから、特に親しくしていた。
★「サレジオ会です。幼稚園の園長です」。愛野教会は、ホームの湯江教会から一番近い教会で、ブリ神父さんとは、度々の交流があった。「お魚の、ブリだよ。タイには、まだ成れません」。ユーモアもある、心温かい仲良し司祭だった。トマに、ポーランド政府・外務省の勲章を授けるよう、大使館に働きかけをしたのも、ブリ神父さんだと思っている。
★ブリ神父さんには、忘れない教訓がある。母親の教えだ。父は、3歳のときに天国へ。1歳から7歳までの子供を抱えて、お母さんの人生は苦労の連続だった。お母さんを安心させたいと、「大工さん」を望んだが、サレジオ会の司祭となり、ニッポンへ。母の教えは身に沁みている。
★幼稚園で、園児たちに、保護者の皆さんに、伝えているのは、ママから受けた教えだよ。母の教えは「常に神さまが見ておられること」。善悪のこと。「いいことも、そうでないことも、神さまが見ておられるよ」。そして「夢を持たせること」。夢とは、守護の天使の見守りです。1人1人に守護の天使が付いている。だから安心して眠りなさい。1人じゃないよ。今日の1日はどうでしたか。守護の天使は神さまに報告する。良いことがあったら、神さまは金のハシゴの棒をくれる。そうでないときは木のハシゴの棒をくれる。金の棒を重ねたら、神さまの所へ登っていける。木の棒では登れない。守護の天使は悲しんで、帰ってくるよ。
★保護者に対しては、「子どもは、授かった大切なイノチです」と強調する。「愛とは、心のドアを開けっぱなしすること。子どもは、汚れても、罪を犯しても、どんな状態になっても、そのドアに戻ることができる。よい母は、倒れ転んだことを数えない。立ち上がるのを数えて喜ぶ。神さまも同じです」
★親愛なるブリ神父さん、ドン・ボスコのサレジオ会で、あなたのことを思い出しました。お世話になった、優しい、ポーランド人の神父さん、忘れない。

2019年1月30日水曜日

昔の医師と、現代の医療。「こころ」のつながり。寂しく思う

今年の始まり、1月は大変な月だった。救急車で運ばれ、肺炎と心不全を患い、2週間入院した。やっと落ち着いた頃、見舞いに来たホームの事務長・岩田さんと、職員の西田さんです。「今度の入院は大変だったよ」と伝えた。
★日々、回復に向かうと、病院体験の中で感じること、考える事が出てくる。
★昔は、子供の頃は、医者は患者と向き合い、先ず診察は、目を診て、口の中を診て、アゴの下を押さえて、胸に聴診器を丁寧に当てた。両手で「トン、トン、トン」と胸を叩いた。背中も「トン、トン」。患者の話をよく聞いて、粉(こな)薬が出た。水薬もあった。注射は殆どしない。X(エックス)線も撮らない。医学はそう発達していなかったが、医者と、患者の間には、温もりがあった。あの頃が懐かしい。
★医学が発達して、今度、入院して感じたことは、患者は1個の固体として運び込まれる。患者から、尿、血液を採取し、エコー、レントゲン、CTなどの撮影を行ない、それらの検査結果を医師はパソコンに集約して、診断し、治療、薬、リハビリ、すべてを総括的に決めて、各部署で治療する。入院2日目から、リハビリを行なったのには、びっくりした。すべてパッケージに収まっている。
★患者と医師が「直接に」向き合う場が僅かしかない。最初、ICUで、顔面マスク(バイ・パック)越しに主治医の先生を見た。それ以後、主治医に話したのは、2週間居て、4,5回だった。何やら、そこに寂しさを感じた。先生も非常に忙しい。治療は指示された通りに、器具をはめ、点滴を打ち、薬を飲む。結果、患者は全体的に看護を受けて、良好に向かい、歩いて、病院を去っていく。今、この状態だが、これが10年後、20年後の、医師と患者の関わる医療は、どのように変化するだろうか。そこには「つながり=こころ」が置き去りにされていないか、を感じた。科学の力でけで癒されるのだろうか。
★泌尿器科にもステントの入れ替えで、お世話になっている。入院の次の夜8時頃、お世話になっている主治医の先生が、見舞いに見えた。声をかけてくれた。退院の前日も、同じ主治医の先生が、夜、見えて声をかけてくれた。「思いやり=こころ」のつながりを強く感じた。何十人と居る大病院の医師の中で、自分の診ている1人の病人を見舞う医師の行為は、早々出来ることではない。感動し、嬉しかった。このような患者と医師の「こころ」のつながりこそ、医療と共に大切であり、忘れてはならないと思う。

2019年1月29日火曜日

明るいシスターの笑顔で、慰められ、励まされる。希望ありだ

朝のミサに、シスターの姿があった。岩田事務長さんの次女、真里亜さんだ。日中、事務室の岩田さんに頼んだ。「シスターに、時間があったら、自室に来るよう、声をかけてよ」
★午後、シスター真里亜さんが、この笑顔でやってきた。愉快で、話好きのシスターなんだな。おもしろい。30代に入ったばかりの若さだよ。信仰も、あるしね。五島の特別養護老人ホームに勤務している。
★シスター志望は、幼稚園の頃から。12歳で志願者になった。ホームの園長、初田徳一神父さんや、濱田増治神父さんに温かい愛を受けた。洗礼名は、コルベ。福祉・介護の専門の大学を出て、最初は養護老人ホーム、特別養護老人ホーム、そして今のホームになる。
★私は言った。「このホームに来て、5年になる。ホームの良さは、設備や環境もあるけど、結局は入居者と介護する職員との家族的な信頼関係にあるね」
★シスターの話によると、特別養護老人ホームは仕事が大変なんだそうだ。介護の仕事は本当に苦労が多い。暴力や、暴言もある。心も、からだも、キツイ。それでも苦労を乗り越える秘訣がある、とシスターは言う。「楽しくする、自分が。冗談を言ったり、チョッとしたこと、何でも笑いに変える。とにかく笑う。声に出して笑う。みた夢でも、いい。一寸した出来事を、笑わせて、皆と分かち合う。子供の頃からの性格で、楽しい事が見つかるんです」。30代のシスターは、しょっちゅう笑っていた。こっちも笑らっちゃうよ。
★濱田増治神父さんの思い出を語った。病気で入院しているとき、見舞いに行くと、ベッドでロザリオを編んでいた。その姿を忘れない。いま自分もロザリオを編んで、配っている。祈りを込めてロザリオを編む。お恵みを皆さんに配りたい、そう言いながらシスターは又、笑うのだった。
★「アン、アン」としか言わない90代の女性入居者がいた。辛抱強く話しかけると、「水、飲みたかよ」「眠むたかよ」「何か、してくれんね」。言葉が出て来る。1年位で、編み物もするようになった。仕事にも希望がある。

2019年1月28日月曜日

カメラは写真機といった。「ジンジ」「バンバ」の写真が残る

これは昭和29年頃の写真です。カメラを持って何かを撮っているボク。何を撮っているんだろう。
★当時、修道士は個人でカメラ(写真機といった)を持つことは出来なかった。病気をしたお陰で、山の修道院で暮らすことになり、そこに少年のための養護施設があった。施設長の濱田増治神父さんが記録のために興味があり、録音機や写真機などを購入して、少年達の成長を見守っていた。その手助けをしていたのが、ボクと、同じく療養中の木下修道士だった。お陰でカメラは手元にあった。
★この山の修道院に11年暮らして養生したが、中でも忘れ得ない夫妻がいる。五島の信徒で、中島優神父さんのお父さん、お母さんである。1人息子の優さんが神父になったので、自分たちもマリアさまに生涯を捧げようと、山の施設に牛をつれてやってきた。当時は「ジンジ」「バンバ」と親しみを込めて呼んでいた。
★中島夫婦は、私が小神(高校生)の時から知っていた。夏休みになると、私には帰る家がない。中島神父(当時は大神学生)の五島の家にお世話になった。五島で暮らした、あの頃が懐かしい。着いた日と帰る日が米の飯で、日々、イモか、カンコロだった。家のすぐ傍に美しい海があり、泳いだ。お父さんと一緒に、舟で魚釣りにも出かけた。中島さん夫妻は、親のような親しみを感じていた。
★五島を引き上げて、山の施設に来ると、牛乳や、農作物を作り、130人程も居た少年達の食料の糧にした。食料が不足の時代である。「ジンジ」と「バンバ」の存在は、皆さんから「ありがたい」と感謝され、慕われた。牛は何頭にも増えた。
★ところが「ジンジ」には、悩みがあった。焼酎と、タバコが、どうしても止められない。バンバは言う。「キセルのガン首は、ひとつも冷めるヒマのなかごと、喫みよったとよ」。山の施設に行くと決心したとき、表向きは焼酎は、何とかやめた。しかしタバコは「気晴らし」の元だ。やめられん。畑で、隠れて、こっそり、すうて居た。
★ある夜、「バンバ」が、こんな話をした。「毎日、お祈りしている聖ヨゼフ様の夢をみた。オレが、こんなにして祈ると、ヨゼフ様がオレが顔のこんなふうに見て、御子様に何かを言い、御子様は1つ1つ、うなずいて、みんな聞いて下さるようにあったとよ」
★その後、「ジンジ」が胸を痛めて、ゼンソクを起こし、熱が出て、道も歩かれないようになった。「バンバ」はお医者さんに頼んで「タバコ、止めるようにお願いします」。「ジンジ」は「バンバ」に頭が上がらない。とうとう煙草はやめた。
★思い出すのも、楽しい夫婦です。「ジンジ」も「バンバ」も昭和50年にホーム「聖フランシスコ園」に入った。ホームでも畑を作って収穫を得ていた。12年後、バンバが88歳で神に召された。3年後、ジンジが88歳で逝去した。26年後、中島優神父さんも、ここのホームに入って、87歳で神に召された。
★人の働きは小さいが、神の恵みで大きく広がり、周りの人に慰めと励ましを与え、懐かしい楽しい思い出となって、いまも残っている。

2019年1月27日日曜日

見なさい、すばらしい朝じゃないですか。希望の1日が明ける

ホームから見る朝あけ。何度も、何度も、同じ場所からの風景を載せている。だが、前の朝あけと、今日の朝あけは違うんですね。見ている人間の気持ちが違う。
★1月の日曜日、午前5時だった。まだ朝はあけていなかった。救急車に乗せられ、「今度は、ヤバイぞ」。ちょうど2週間入院し、治療して、ホームに戻ったのが土曜日だった。
★今日は、日曜日。波乱の1月でしたよ。「イノチを、もらった」1月でしたよ。退院して、ちょうど1週間が経ちました。病院に居たとき、リハビリで、足元は自信がなく、ふら、ふら、でしたが、ホームに帰れば調子が出ますね。
★「今、有る苦しみは、何時までも続くと、錯覚するな。その苦しみは、そんなに長くは、続かない。事態は変わる。何時か、その苦しみは、無くなる」
★「苦しみから強いて逃れようとすると、ますます、がんじ、がらめに、なる。強迫観念に取りつかれる。私には、その経験がある。有りのままに、受け止めよう。有っても、いいのだ。そのままの姿で、生活を続けよう。道は開ける」
★「生きていることが、不思議に思う。自分が生きたとは思わない。誰にでも、その不思議な、実感はある。実際ではなく、想像でも、いい。広い草原に、両手、両足を広げて寝てみよう。自分を最も低い存在として捕らえてみよう。その存在の目で、上を見る。空を、地を、草を、花を、恵みは輝いて見える。それが幸福だ。歳をかさねれば、長い年月をかけて、それがわかる。今朝の、朝あけも、ありがたい」

2019年1月26日土曜日

こんな絵をスケッチした旅もあったんだな。振り返れば楽し

古いスケッチ帳を開いた。2001年8月とある。当時のメモ帳を見ると、夏休みで、甲府から中仙道(なか・せん・どう)の旅に出た。懐かしい。忘れない旅だった。めったに、あの道を通ることはない。江戸時代の裏道を行ったわけだ。裏道は、1本の細い流れに過ぎなかった。
★木曽路の「奈良井宿」で泊まる。ここで「マリア地蔵」なるものを見た。高さ60cm。十字架にカギがあり、幼児の左手に一流れのジュズがあった。手にも蓮華の先が十字状。隠れキリシタンの観音像か。興味深くスケッチした。こんな山奥で、マリア観音に似た像に会うなんて、思ってもみなかった。どこにでも人の思想、信仰は入り込む。
★翌日は、「馬籠宿」に泊まった。少し上に、島崎藤村の生家、館と詩がある。宿の傍に赤いポストがあり、小さな郵便局もあった。なんと言っても、水車が目を惹く。「みはぎのが美しく咲いていた」「山の清流で、無心に水車がまわる」と添え書きしている。「もち焼せんべい」に、ワラジもあった。坂道が、なんとも言えぬ風情がある。「こんな素適な所があるんだな」。東海道ばかり通って、江戸へ行ちゃダメだよ、なんて思った。
★中仙道は「多治見」に出る。多治見の修道院。絵になる建物だった。院長はポーランド人の神父。他の神父さんが案内してくれた。修道院の入口の上を見ると、鐘が上に9つ。下に3つ。面白い並びをしていた。ここは葡萄酒の造りが有名で、修道士がワインの制作を担当している。ブドウ畑にも入った。水墨画でブドウを描いているので、近くでブドウを観察するのは興味深々だった。
★ちょっとしたメモやスケッチがあれば、思い出は過去として記憶に残る。寄る歳なみの人を見れば、言っている。「足腰、しっかり、しているうちに、旅に出て、いい思い出をイッパイつくりなさい。それが幸せです」

2019年1月25日金曜日

初めての朝のミサ。自分に甘えるな。介護の風呂は上等です

退院してから、もう何日になるだろう。朝のミサに行かないから、滝神父さんに御聖体を自室でいただいていた。
★今朝は、5時に起きる。「自分を、甘やかすな」。そんな声が聞こえる。身支度して、押し車に頼って、教会へ行った。修道者が、祭壇の近くの席に座っている。修道服を着て、黙想をしている。「その姿、いいなァ」と思うよ。自分も、その1人だが。
★5時40分から、信徒も交えて、「教会の朝の祈り」が始まる。今日のミサは「聖パウロの回心の祝日」だった。キリスト教徒を迫害し、あるいは殺害していたユダヤ人のパウロは、突然、光に打たれて声を聞く。「パウロ、なぜ、私を迫害するのか」。パウロは、それをきっかけに回心し、熱烈なキリスト教徒となる。「改心、いつも改心、私にも、その恵みを与え、道を示してください」と祈った。
★写真にあるのは、ホームの介護用のお風呂です。初めて今日は、このお風呂に入った。ホームには広い浴場がある。いつも、それを利用していた。退院後の自分の足取りを考えると、あやふやで不安を感じる。1人では湯に入れない。介護の風呂をお願いした。左側のシャワーで身体を洗う。白い椅子に腰掛けると、前方の枠の中に、はまるようになっている。お湯が出てくる。アワも出てくる。湯の温度も設定され、私は41度、時間も出る。私は10分間、お湯に浸かって、温もりました。こんな設備がホームにあったんですね。ありがたいことです。
★午後、長崎の千草さんと蓉子さんが、私の様子を見に来た。ホームでは、インフルエンザに注意している。「10分だけね」と言いながら、マスクをして、近況を語っていた。パソコンを持たないから、日記は見ていないという。時々、見る機会があって、入院も知った。「3月1日、誕生日、お祝いしようね」と希望を持たせてくれた。10何年になるか分からない。毎年、誕生会を祝ってくれる。去年は、ロシア料理店だったかな。
★いま「トン、トン」と戸をたたく者がいる。「開けん、ね」。女性が居て、「イモを、ふかしてきた。食べんね」。沢山の、ふかしたイモ。1つ貰った。これがホームの生活です。

2019年1月24日木曜日

長崎へ定期の診察へ。若い人にも出会う。一緒に食事をしました

早朝から、高原修道士の運転で、長崎のヨゼフ・クリニックへ定期の診察に行く。高木先生に、12月末と、1月の入院の報告をした。心電図を調べ、胸のレントゲンを撮ってくれる。早めに診察は終わった。
★浦上の電車通り、「ココオーク」という大きな商業施設がある。食事から、子供の遊び場から、買い物から、だいたい用が足せる。4階の大きな窓から見た長崎の家々です。坂が多いんです。長崎の人は墓も大切にする。家々に混じって、墓地もある。「ながさきには、サカも、ハカも、バカも、多おかと、たい」。そんな笑い話も耳にする。
★「ココオーク」で、野々村哲さんと、塩沢美樹さんに出会った。高原さんを入れて、4人で昼食をとった。3年前になるか、ホームの庭で、偶然に出会った。あれからご縁がつづき、「トマさんのことば」の出版にもなった。何かとお世話になっている。ホームで暮らす私だが、助けてくれると本当に嬉しいし、頼もしいです。何かの、また新しいアイデアも浮かぶでしょう。若い人たちには期待しています。
★[ココオーク」に以前、通った食事処がある。きょうは、そこへ行きました。長崎和牛の重箱です。長崎和牛は結構、有名です。ホームの食事もおいしいが、たまにはゼイタクしても、許されるでしょう。「おいしいもの、なんか食べて」と言わないでください。若者2人は別のメニューを食べた。
★ホームに帰ったのは、午後2時頃でした。車の中では、疲れてか、眠っていました。「きょうの1日、神さまが下さいました。あした、また稔りがありますように」

2019年1月23日水曜日

廊下から見える多良岳。あの山にも思い出がある。過去に元気を

ホームの、自室の前の廊下の窓から、いつも遠望できる「多良岳」です。横長の白い建物は「いこいの村」です。
★退院して、じょじょに元気を取り戻しています。退院する時は、本当に足がふら付いていた。「大丈夫かな」と不安を感じていた。それがホームで生活すると、元に戻ってくる調子です。食堂に行くときは、押し車を頼りに歩いています。
★私のスケッチ帳に、丁度、30年前に、小学生16人(小6-小3)を連れて、先生5人で多良岳・山頂に登った絵がある。頂上には、祠(ほこら)があった。983mとある。あの頃は元気でした。小学生にも対応して生活していた。山も登れば、殺風景ですね。
あの頃は楽しかったなァ。人生、喜びも、汗も、楽しみも、山頂からの素晴らしい眺めも、沢山あったよ。それで希望をつないで生きてきたんだね。
★山頂から少し降ると、「金泉寺」という小さなお寺がある。ここは小学生、小1から小6まで、21人。昼食後、庭で遊ぶ、と記してある。ツゲの立派な木、とメモしてある。
★あの頃の小学生たちは成長して、いま、どうして暮らしているのか、そういう思いも浮かんでくる。
★廊下の窓から見詰める多良の山並み、ここには平凡な老いの生活の連続があるが、「ジーッ」と眺めれば、山はいろんな事を語ってくれる。過去の思いに慰められ、励まされ、今日も楽しく生きよう。
★明日は、長崎・ヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ出かけます。高原修道士が運転、介助をしてくれます。朝のミサには、いま行ってはいない。瀧神父さんがミサ後、自室へ御聖体と共に来て下さる。しばらく、その朝の行事がつづくでしょう。

2019年1月22日火曜日

ジャムさんからの便り。電話で聖コルベ像の予想外の件もある

フランスのジャムさんから、写真が届いた。昨年の暮、ホームで出会った3度目のジャムさんだった。子供たちが2人居ると聞いていたが、写真を見ると、息子と、娘さんだ。1人はパラグアイへ、もう1人はカナダへ居ると小さな日本語で書いてあった。また「山田」という字もある。日本人の奥さん、故人となった「りか」さんの姓であろう。ジャムさんは、たくましい、新たな出発をしているような、ファイトに満ちた顔をしている。
★出会いは、本当に恵みであり、喜びである。人生には、苦しみ、痛み、悲しみもあるが、希望をもって、それを乗り越える。喜び、愛も、いっぱい、ある。次の時代を受け継ぐ若者は、何と、夢と希望に満ちていることか。
★午前中、県外の大学生から電話があった。長崎の聖母の騎士修道院の庭に、聖コルベ神父の立像がある。像の基礎の部分に、「寄進・アメリカ・チェシラ市・聖スタニスラオ教会・第三会」と書いてある。「どういう関わり合いで寄進を受けたのか」と質問があって、思いも寄らない質問に戸惑いを感じた。そのような細かい事は、いま覚えていない。理由も定かでない。
★早速、聖母の騎士の修道士に電話をかけて確認してもらった。「やっぱり、書いてありましたよ。つづいて、次の言葉も記してあります。『私が愛したように、あなた達が愛し合うこと、これが掟である。友人のために命を与える以上の大きな愛はない』(ヨハネ・15・12-13)」。庭の聖コルベは語らず、あの場所に立っているだろう。かつて教皇ヨハネ・パウロ二世が、白と赤の花束を捧げたご像だった。

2019年1月21日月曜日

女性からコメント。祖父が「オラショ巡礼」。形見のネクタイピン

人生の中で、どうしても消えない痕跡がある。彼に出会った表情も、周りの風景も、彼の息遣いも、忘れない。
★昭和の終わり頃、何十回となく「長崎オラショ巡礼の旅」を行なった。その巡礼に、同じコースを5年余り、毎回、参加する老人が居た。丸いメガネをかけて、痩せ型で、少し背が曲がって、本も出版した事もある文学者の男性だった。
★その頃の巡礼で最も印象に残ったのが「神の島」だった。当時は船で神の島に渡った。信徒が長崎港・大波止までわざわざ出迎えに来る。船が神の島の岸壁に着くと、主任司祭はじめ、大勢の信徒が出迎えて、大挙して行列して、教会と「ドンク岩のマリア像」へ巡礼し、時には信徒会館で、交流の踊りなど披露するのだった。その時、私の傍で寄り添っていた、あの巡礼者の男性「山本吉見さん」が浮かび上がってくる。
★吉見さんは、歩きながら私に、こう言った。「お遍路さんを大切にする。あの心に似ていますな」。そして続いて、こうも言った。「天主堂で神父さまの話を聞きながら、昔読んだ浦川和三郎師の『切支丹の復活』を思い出したんです。神の島に中ノ瀬弥市という人がいて、とても信仰熱心だった。天草のキリシタンと長崎の神父さまとの橋渡しをした事もある人です。あの子孫はどうなったのか。ふと、そんな事を考えました。それで案内のご婦人に声をかけてみたんです。『中ノ瀬の子孫は、まだ居ますか』。すると『わたしが、その中ノ瀬の子孫です』と言うじゃありませんか。血縁につながれた信仰の歩がみが、明治、大正、昭和と生きつづけているのを感じますね。その人たちとの出会いを神に感謝しました」。吉見さんの言葉が印象に残った。
★吉見さんは、最後に参加されたとき、「小崎さん、もう疲れたよ」と言って、私に、金のネクタイピンを贈ってくれた。真ん中に「イエスの聖心」がついている珍しく美しいネクタイピンだった。私は、このネクタイピンを大事にした。特別な時と、何か重要な出来事の出席には必ずこのネクタイピンを付けた。
★そして思いもかけず、去年の年末の日記のコメントに、福井の「あつこ」さんから「十七歳の夏を読んでいます。私の祖父は、山本吉見といいます」と記してあった。このコメントを読んだとき、私の胸には強烈な思いが湧き起こり、「吉見さんの思い出」が一挙に押し寄せてきた。忘れない、あの山本吉見さんを。「あつこ」さんによると、吉見さんの家にもおじゃましたという。吉見さんは、昭和59年、79歳で神に召された。
★形見に戴いた、あの大切なネクタイピンは、今も、私の手元に大切にしてありますよ。イエスの聖心が中心にある、珍しい、美しいネクタイピンです。「あつこさん、お祖父さんの跡を慕って、長崎巡礼に来て下さい」。コメントの返事に「自著『長崎オラショの旅』(聖母文庫)を読んでください」と勧めた。山本吉見さんの安息を祈ります。

2019年1月20日日曜日

久しぶりに教会で祈る。呼吸が出来る感謝。福音で黙想する

トマが入院している間に、ホームの改築も始まりました。完成すれば、よい環境が出来るでしょう。
★昨夜は、ホームに帰って、自室で、ホントに、安らかに、静かに、ゆっくり、初めての体験のように、眠ることが出来ました。気持ちが、こんなにも違うんですね。足元も、気持ちも、日々、元に戻る感じです。「コケないように、しないとね」。今は、歩くときは「押し車」を使っています。
★日曜日。久しぶりに、教会で、9時のミサで祈りました。新鮮な雰囲気がした。今日の福音は、カナの婚宴の、イエスが水をブドウ酒に変えた最初の奇跡の場面でした。以前に、カナに巡礼したこともある。あのとき、ブドウ酒も飲んだ。聖書を聞きながら、「水をブドウ酒に変えた『意味』は何だろう?」と考えました。
★イエスの生涯を思うとき、最後の晩餐で、イエスは、ブドウ酒の入った盃をとり、感謝の祈りを捧げてから、「これは我が血なり。汝らも飲みなさい」。ブドウ酒が血に変わっている。そして最後の場面、兵士が十字架上のイエスの胸を突き刺すと、「水」と「血」が流れた、と記されている。一連の出来事をつないで、意味は何だろう、そんな事を考えました。
★水は普通、自然であり、それがブドウ酒に変わる、これは福音に変わるという事でしょう。超・自然に変わる、です。イエスの「水」と「血」が流れている。私たちも、イエスの如く生きなければならない、というお知らせと受け取りました。
★ホームの人からは会うごとに、「よかったね、よかったね」と言われている。救急車で運ばれたから、有名になった。トマが救急車。誰もが不安に思ったでしょう。
★生かされたイノチを感じます。病院では沢山の血液を取られたが、これからは主イエスの御血にかえて、意義ある人生を生き伸ばさせてください。

2019年1月19日土曜日

無事に退院。イノチを頂いた。すべてをお任せ、生きよう

今朝の病院の朝です。「ああ、これで見納めだな」。明るい朝が明ける。右手に、諫早カトリック教会。お世話になりました。イノチをもらいました。お医者さん、看護師さん、ありがとう。看護師さんの中には、諫早教会の信徒も居た。
★高原修道士が迎えに来る。「さあ、いよいよ帰れるぞ」。荷物が多いんだな。前もって片づけるのに苦労した。心臓がパク、パクした。「ああ、やっぱり心臓が正常でなかったんだ」。手続きを終えて、車に乗る。2週間ぶりの風。空気。空。「生きているって、ホントに、いいね」。約30分でホームに着いた。「やっぱり、ホームが、いいよ」
★車から見たホーム。午前5時に、救急車で運ばれたんだったな。「よくぞ、戻って来たよ」。出会う人ごとに喜んでくれた。「ホントに心配、かけました」
★昼食は、久しぶりに食堂で食べた。用心して、食堂までは、押し車で歩いた。トマの顔を見て、皆さんが喜んでくれる。病院からホームには、報告書が届いている。食事は減塩の特別食を栄養士さんが献立を作ってくれた。「大事にされて、いるよ」。食堂の席は、瀧神父さんの隣。大野神父さんも居た。自室に戻って、安心しました。「こりゃ、ヤバイ」。イノチを貰って、又、立ち直れた。皆さんのお陰です。見守ってくれて、沢山のコメントも寄せてくれて、ありがとう。「やっぱり、ここが、いちばん、よかバイ」

2019年1月18日金曜日

入院13日目 いよいよ明日退院します

ゆっくり過ごしています。歩く練習もしたり、ホームに帰ってからも、不自由のないように努めています。また新しい気持ちで再出発しますので、続いてご支援お願いします。

2019年1月17日木曜日

入院12日目

指にはめる酸素・モニターが外れて、体に付いていた全ての線が外れた。
★昼頃、お医者さんが病室に来て告げた。「良くなりました。リハビリを続けて下さい。明日にも退院良いですよ」(あんまり、突飛だったので)「明日までは居らせて下さい」と答えた。
★退院は、土曜日、午前中になります。
★ホームに帰れるんだなぁ、嬉しい。丁度2週間掛かりました。皆さんの見守りとお祈りで助けられました。ありがとう。また、頑張ります。

2019年1月16日水曜日

苦難の入院。終末の思い。乗り越えて、また命をつなぐ

昨年の12月、ステントの入れ替えで入院したときから、風邪気味で、年を明けても、まだ治っていなかった。ホームの楽しみは、誕生会と新年会。私は自室にこもって、一人で「すき焼き鍋」を食べた。
★その深夜、突然、呼吸困難となり、早朝午前5時、救急車で総合病院へ運ばれた。その時、今度は「ヤバイぞ」と正直思った。ホームに帰れるだろうか。救急車の中で目をしっかりと閉じていた。すると脳裏に、原爆の廃墟の丘に残る黒コゲの機関車が浮かんだ。前方から大きな車輪の機関車が助けにやってくる。もし、あの機関車が黒い機関車に正確に連結すれば、助かる。そんな思いがよぎった。
★病院救急部の処置は、短時間に的確だった。病名は肺炎、慢性うっ血性心不全。(胸に水が溜まっていた)。医者は言った。「水を抜こうね」。戦争中、少年の頃、肋膜炎を病み、太い注射器で胸から水を抜かれたのを思い出した。




★3階のICUに運ばれる。顔面に分厚いマスク=BIPAP(バイパップ)を、アゴから額までかぶせられ、60時間連続してその苦しみに耐えた。本当にツライ過酷な治療だった。3日目の夜、マスクが外れたとき、両方の手をかかげると、水分が全く抜けていて、シワシワの変形になっていた。
★なぜ自分は、病気なのか、原爆なのか、自分だけに災難が来るのか、若い頃考えたことはあった。今は次のように考える。お前にいのちが与えられた。このお前のいのちは、世界中探しても二人とはいない。お前のためだけのいのちだ。その人生のいのちの中で、思いも掛けない病気が起こっても、それはお前だけの人生であり、受けて、生きるに価値がある。




★ICUに3日間おり、次は6階、ナース室の前の観察室に入った。窓から諫早カトリック教会が見えた。祈りやミサや聖歌も捧げられているだろう。「神はいまの私を愛し、いつくしまれておられるのか」「神は私に御目を留めてくださっておられるのか」「神は私のこの苦しみのそばにいて、イエスはともに苦しんでおられるのか」。弱者には、さまざまな迷いがわいてくる。
★体のほかに、信仰の問題が迫ってくる。母乳とともにカトリックの信仰を受けた。神父がいなくても250年間、信仰を守り通した先祖キリシタンの信仰を受け継いだ。我が道はあの教会のカトリック信仰の道のほかにない。
★子供の頃、母からよく教えられた。「『イエズス、マリア、ヨゼフ』と唱えるのよ」。いま、ベッドの上でそれを唱えている。最後の祈りとは、これに尽きる。


★夢か、まぼろしか、こんな情景を見た。広い、暗い、泥沼を背を曲げて小さな男が素足で踏みしめて歩いていく。その時、ひとつの声が聞こえた。「お前の歳はいくつか」「90歳です」「誰のおかげでそのいのちを生き延びてきたと思うのか」。沢山の人たちのおかげがある。しかし、その奥に、何かの、意味が、組み合わせが、私の人生にあったのだろう。今ははっきりとは分からない。
★男は「生きろ」「生きろ」と叫び続けて、泥沼を歩いていると、泥沼は、やがて土に変わり、美しい海岸の砂粒に変わっていった。小さな男は、裸足の感触に、この上ない砂の繊細な優しさと愛を感じるのだった。


★入院12日目になった。毎日お世話になっているのが高原修道士である。聖母の騎士のルルドの水を持ってくる。いま、ルルドの水を飲んでいます。水は心不全のために制限されて一日1500ccと決められている。ルルドの水は私にとって恵みである。病状は徐々に快方に向かっているようです。

2019年1月15日火曜日

入院10日目

昼間は"ハナ・酸素"は使いません。昨夜、夜中に看護師さんが"ハナ・酸素"を付けに来た。眠っていると、酸素が低下するそうです。
リハビリ師さんの指導で、6階の廊下を2回巡りました。病室は自由に歩いて下さいと言われた。足取りも軽くなって、ホームに帰りたい。
今度の入院は、本当に厳しい過酷な"ムチ"を受けました。入院していても、小さな幸せは見付けたい。昼下がり、浜田神父様が、御聖体と共に来られた。

2019年1月14日月曜日

入院9日目

朝7時、心電図の線が外される。昼間は、"ハナ・酸素"を抜いていた。昼食前に明子さんが、院内で1時間掛けて洗濯。高原修道士が、水のいらないシャンプーで、髪の毛をかき混ぜてくれる。ヒトの人生、スーッと、真っすぐ横に行って、ポキンと折れない。今度も、くね、くね、あっちに当たり、こっちに当たり、うまい時に、折に、くねくね曲がって、何とか、うまーく、ここまで来た。
ふたりは、トマの顔色を見て「昨日より、良くなった」と笑った。今後まだ油断は許さない。胸に活気が戻るように続いてお祈りください。

2019年1月13日日曜日

入院8日目

救急車で運ばれたのが日曜日の早朝、今日で1週間が過ぎた。まだ室内を自由に歩けない。座って食事をするのがやっと。膨らんだ風船がスゥーとぬけた感じ。8時間おきに3回、点滴で治療している。早くホームに帰りたい。ホームの日々は平和だった。老いの快方は遅い。続いてお祈りください。

2019年1月12日土曜日

入院7日目

高原修道士が来て「症状が随分、昨日と違ったよ」と言った。
膀胱から、ベッドの横の袋を繋ぐ尿の管が取れた。
鼻酸素を外して、昼食をしていると、ナース室から看護師が来て「はめて下さい」。やっぱり分かるんだ。
浜田神父様が来た。酸素の話をすると「亡くなった修道士で"酸素牛乳"と言っていた者がいたよ」二人はその修道士を思い小さく笑った。浜田神父様に、御聖体をお願いした。


2019年1月11日金曜日

入院6日目

しばらく療養は続くでしょう。現在の行動範囲は、ベッドの上とベッドに腰を掛けるだけ。まだ自由に動けない。鼻の酸素が外せない。まだ病状が残っているのでしょう。一日2回の点滴で病気を攻めています。
自分の人生にあって、何故病気が来るのか、災難があるのか、それは問題ではない。ただ、人生のその中で、どんな逆風になっても、神の愛と慈しみを信じられるか、小さな存在の私に御目を留めて下さるのか、それを思う時(はい、信じられます)と祈るなら、きっと光を見つける事が出来るだろう(それはお前だけの命の人生であり、生きる価値がある)。

2019年1月10日木曜日

入院5日目 一般病室に変わりました

今は静かに呼吸し、安堵して、感謝しています。ホームの廊下を歩きたい。今、午前と午後2回リハビリに励んでいます。沢山のご支援をありがとう。(死に損なっても、又、生きる。何度繰り返して来た事か)

2019年1月9日水曜日

入院4日目 ICUから観察室へ

ICUで、顔全体を被うような巨大なパックを付けられた。連続60時間苦しみに耐えた。昨夜パックが外され苦しみから抜け出せる。
今日、ICU(3階)を出て観察室(6階)に移る。リハビリに努める。危機を脱して喜びが近づいて来た。大きな力が導いて下さる。皆さんの続いてのお祈りをお願いします。

2019年1月8日火曜日

入院3日目

まだICUで治療中です。連続の点滴と水だけで生きています。食事は一切なし。生きる不思議さを感じます。肺に溜まった水を抜く連続作業に苦しむ。苦悩の暗闇の中に、ひとつの灯りが見える。みなさんの支えか、祈りか。新しい物語がまた出来る。

2019年1月7日月曜日

入院2日目

まだICUにおります。「イノチ」は神様の事です。お祈りください。

2019年1月6日日曜日

午前5時、救急車で緊急入院する。

総合病院のICUで治療中です。

2019年1月5日土曜日

初期の肺炎。病名が分かったので静かに自室にこもる

昨夜の診察で、お医者さんが言った。「初期の肺炎です」。左肺に10円だまほどの影が三角に見える。「放射線科の医師も、肺炎の兆しあり」とコメントがきている、と聞いた。病名が分かったので、今日は、終日、休んでおります。呼吸がキツイ。起きて、動くと、息切れがする。看護師さんが2度、朝と、夕方に来た。サンソが低い。88%しかない。ただ休んでいます。
★高原修道士が居なければ、トマは生きてはいけない。昨夜の高原修道士の活躍には驚いた。車を玄関に止めるや、急いで、車椅子を運んでくる。トマを乗せて、車はそのままにして、トマを2階の泌尿器科・受付へ。直ぐ、玄関へ走る。駐車場に車を入れる。受付へ走って戻った。次はトマを車椅子に乗せて、3階、中央検査部へ。血液を採ると、結果は待たないで、1階の放射線科へ。この道筋が又遠い。CTを撮って、泌尿器科・受付へ。
★1人残った看護師さんが、病院前の薬局へ連絡。院内には、人影は、まばら。お医者さんも最初から最後まで、診察室で待っていてくださった。診察が終わると、1階の玄関は閉まっている。横の細い廊下を、わかりにくい場所に「夜間支払い口」があった。丁度、壁の時計は6時だった。高原さんは紙を支払い口に置くと、直ぐ、駐車場から車を玄関に寄せた。又「支払い口」へ。診療費は、原爆手帳のため無料だった。車椅子のトマを玄関の車へ押し込んだ。急いで車椅子を返しに走った。病院を出た直ぐの薬局で、薬をもらって、車は夜の街を走った。高原なくして、トマは生きられない。実感した夜だった。

2019年1月4日金曜日

大変な、1日だった。緊急、総合病院へ

午後3時、高原修道士の運転で、総合病院へ。大きな病院なので、診療は終わっていたが、ホームからの連絡で、お医者さんは親切にも、待っていて、対応してくださった。尿の量が少なめなのが心配のきっかけだった。尿検査、血液検査、胸部と腹部のCTを撮った。結果を待つ間、高原修道士が、寒くないよう、自分の毛糸やマフラーをまいてくれる。レントゲンから泌尿器科外来へ戻ったとき、尿が、普通に、スーッと、出た。「ああ、これで、よかった」と安心する。
★お医者さんから、呼ばれた。患者は誰も居ない。血液検査の腎機能に変化はない。CTの写真を説明してくれる。腎臓に変化はない。ただ胸部、左肺に、肺炎がみられた。「クスリを飲んで、来週、また診察しましょう」
★もう夜は遅い。ホームに迷惑をかけるので、コンビニで、オニギリを買おう。「いや、待てよ。オニギリじゃなくて、アンパンがいいね」。2人は暗い車の中で、大笑いした。ホームに携帯をかけると、「夕食に、親子ドン、温かくして取っているよ」の返事。コンビニに寄らずにホームへ戻った。看護師さんは心配して待っていた。
★ホームに着いたのは、7時過ぎだった。入院か、と内心、思っていた。無事に帰れて安心し、感謝の祈りを捧げて、ゆっくり休みます。

2019年1月3日木曜日

熱が上がったり、下がったり、苦しいです。静かにしている

元日の、湯江教会の祭壇の生け花です。元日に、新年のミサで祈りましたが、2日、3日とお休みしています。今朝は、自室のベッドに寝たまま、瀧神父さんから御聖体を拝領しました。
★気持ちが乗らないのは、苦しいですね。昨日は、日記を書いた後から、背中に寒さが来て、夕食を食べる気がしなかった。大きなアズキ色のマメの煮物でした。好物だから一気に食べた。キュウリの酢の物も、リンゴも食べる。メインのサケ魚は残した。
★夜になって、熱が7度7分に上がる。夜勤の職員が心配して、7時半と、9時と、11時に検温に来る。ツイに、8度に上がった。発熱の状態がつづいているので、気力が出ない。今朝、来た瀧神父さんにも言った。「イノチは、神さまのことです」
★今朝は、午前中は、気分的にも回復の兆しがみえて、熱も、6度6分、8分になっている。午後、夕方、夜にどうなるか。とにかく自室で静かにしています。ステント入れ換えの後のダメージが酷(ひど)かった。

2019年1月2日水曜日

正月2日目は、休養しています。調子が出ない。静かに休みます

山口雅稔(まさとし)院長神父さん(右・長崎聖母の騎士)が見舞いに来られる。真ん中の自分が小さく見える。隣は金子修練者。励ましてくださった。ありがとう。
★昨夜の夕食後から、からだが不具合になった。早めに休んだ。夜勤の女子職員さんが見回りにきたとき、熱が7度7分あった。夜中はよく眠ったが、2度、寝汗が出て、肌着を取り替えた。大量な洗濯物がたまった。正月2日目なのに、洗濯の担当職員さんは出勤していて、特別に、大量の洗濯物を昼頃までには仕上げて、自室まで持ってきてくれた。
★今朝も、瀧神父さんが御聖体と共に来てくださる。熱は6度代に下がったが、用心して、朝食も、昼食も、職員さんから自室へ運んでもらった。
★今年は、年賀状を1枚も書かない、出さなかった。初めてでした。戴いた人には申し訳ない。今は静かに、自室で休養しております。

2019年1月1日火曜日

新年おめでとう。この日、ホームで、いかに過ごしたか。恵み一杯

新年おめでとうございます。「賀正」に、絵手紙で描いた絵を使いました。
★今朝、ホームからは初日の出は撮れなかった。有明海、雲仙岳に厚い雲層がかかり、残念でした。
★朝食に、お赤飯と、数の子が出た。数の子が好物です。北朝鮮に居た子供の頃、現地には、大きな数の子があった。良く食べた物です。数の子は味付けが難しい。ホームの味はイマイチでした。やっぱり母の味が懐かしい。
★10時から、ホームの礼拝の日です。湯江教会の信徒も一緒です。大勢の信徒が、湯江教会に集り、新年に感謝の祈りを捧げました。「神の母聖マリア」の祭日でもある。教会に入る前に、ホームの戸の所で、写真を撮ってもらった。これは私の恒例です。何とか、元気で正月を迎える恵みを得ました。「いのち」は、神さまのことです。
★絵のイノシシも、「フッ」と、一息、ついているじゃありませんか。一息、十歩。前に進もう。これまでマリアさまから守って戴いた。これからもお守り下さるでしょう。信頼して、希望を持っての十歩です。
★11時30分に、ホームの全員、利用者、職員、皆さんが一緒に集って、恒例の「新年会」があた。壁に国旗を張り付け、国歌斉唱、小学唱歌「としの初めの」を全員で歌った。今年は「平成」が変わり、「別の元号」になる。「昭和は、遠くに、なりにけり」ですよ。そうなると、ホームに利用者、職員が100人ほど居る。「大正、生まれは、何人か?」と興味が湧いた。こっそり栄養師さんに聞くと、「14人、だよ」。まだ、まだ、ホームは大正も遠くはない。ちなみに最高齢は大正8年生まれの女性、100歳になる。
★一応、歌が終わると、お屠蘇(とそ)になる。園長神父さんと職員が手分けして回って、1人1人に盃からお屠蘇を飲ませた。その後、食事が配られる。もちろん「お雑煮」だね。園長神父さんが「食前の祈り・アヴェ・マリア」を唱えて、カンパイし、食べ始めた。先ずお刺身を食べ、黒豆、かに爪、栗きんとん、そしてお雑煮を食べた。お雑煮はお替り。後で「カステラ」も配った。カマボコ半分と、お煮しめを残した。
★新年を迎えて、皆さん、喜んでいます。歳を重ねると、老人の顔は美しくなる。瀧神父さんもお屠蘇を戴いた。瀧神父さんは、88歳、米寿を迎えます。皆さん、お祝いしてあげてください。瀧神父さんはお元気です。