2018年4月30日月曜日

突然、若い夫妻が訪問。先祖のルーツに「神父」あり

何の予告も無い訪問だった。突然、県内の北部の町から、若い夫妻が面会に来た。男性の手に自著の「長崎のコルベ神父」があった。「実は」と、この本の中に出ている中田藤太郎神父(1910-1999)に就いて教えて欲しい、との願いだった。中田藤太郎神父のお姉さんが嫁いで、姓が変わり、その子供の、その孫の、そのひ孫に当たるのが自分だと、男性は言う。メモを取りながら熱心に聞いていた。
★やはり歳の功だね。中田藤太郎神父さま、知っているよ。話した事もある。やはり歴史を背負って生きている老人は物知りだよ。中田藤太郎神父さまの話しは、貴重だ。彼は、大浦神学校で、2年間、コルベ神父から哲学を学んでいる。誇り高き貴重な体験を持っている。コルベ神父の哲学授業には苦労したそうだ。当時は会話、講義は総てラテン語だった。教科書はローマ・グレゴリアン大学の著名な教授が著した本で、中田神学生が頭をひねっていると、コルベ神父は優しく「ディカス、ディカス(言ってごらん)」と質問を誘い出し、少しでも答えると「ベーネ、ベーネ(よろしい)」を連発した。その思い出は中田藤太郎神父から消えることはない。終戦直後は、原爆で崩壊した浦上天主堂の主任司祭を勤めた。その後、フランシスコ会に入会する。コルベ神父の列聖を喜び、神学生時代を誇りに思い、晩年は、長崎の聖母の騎士修道院で2年間を過ごしている。
★崩壊した煉瓦の傍にスータン姿で立っている貴重な写真があるが、同じ原爆を受けた者として、その姿が心に深く刻み込まれている。
★上五島出身の中田家は、同じ上五島の初田家とも繋がりがあり、初田家は上五島の竹内家とも繋がる。中田家には有名な中田藤吉神父(田平天主堂)、初田家には初田徳一神父(本会の司祭でホーム聖フランシスコの園長)、竹内家には竹内昭彦神父(本会の管区長)などの司祭を輩出している。信仰とは、みな「つながり」である。
★ホームに生活している女性が、中田家の詳しい系図を持っている。その女性の部屋に案内して、2枚の系図を見せてもらった。1枚は「初めて見た」と非常に喜び、デジカメで収録した。「長崎のコルベ神父」にサインを求めて、満足してホームを去った。
★ホームに居ても、こうして課題を抱えて訪ねてくれる人がいるのは有り難い。まだ、まだ老人は捨てたモンじゃ、ないね。今日は入江さんと午前中、一緒に入浴した。背中は自分で洗った。

2018年4月29日日曜日

もう1枚、母のいい写真が残っていた。母よ、母よ

もう1枚、母の写真があった。こちらの写真が好きだ。母の表情を良く表している。母は着物を好んで着ていた。自分でも着物を仕立てていた。母には、私の体のことで、本当に心配と苦労をかけたと思う。母に、何の感謝もお礼の業をしなかった。母は、私のことを、「コーちゃん」と呼んで愛した。私は「かあちゃん」と返して甘えた。
★今日は、日曜日で、「昭和の日」でもある。昭和天皇の誕生日をお祝いしていた日であろう。昭和天皇さまほど、ご苦労なさった天皇さまは居ないだろう。私は昭和の時代を60年生きて、平成を30年生きている。合わせて90年になる。
★母の語りに「カエル」の話がある。母カエルの言う事を聞かない子供のカエルがいた。「山へ行け」と言えば「海に行く」「勉強しなさい」と言えば「遊びに行く」。わがままな子供のカエルだった。いつも反対の事ばかり、言う事を聞かない子供のカエルだった。母親カエルは年々歳をとって、間もなく自分が死ぬことを予感する。子供のカエルに言ったのだよ。「かあちゃんが死んだら、川へ埋めておくれ」。そう言っておけば、反対の山へ、安全な所に埋めてくれるだろう。母カエルが死んだ後、わがまま子供カエルは初めて目がさめた。「おかあさん、ごめんよ。オレは、いつも反対ばかり、していた。今度は、母の言う通り、川へ埋めよう」。ところが雨が降ると、川が増水して大変だ。子供のカエルは、「ああ、おかあさんが流される」と泣いた。だからね、雨が降ると、いつもカエルが泣くんだよ。
★わがままな子供カエルのように、「言う事を聞かない子」だった。カエルの母は、水に流され、行方不明になったが、我が母は火に焼かれて行方不明になった。この話は何度思い出しても悲しい。

2018年4月28日土曜日

人の痛みは、3年でも、こらえる。人間は孤独なんよ

北朝鮮での母と、私の写真です。若い母親です。昨日、日記に、北朝鮮で暮らした家の写真を載せたが、戦後、1度は北朝鮮へ帰ってみたかった。恐らく住んでいた、あの家はないでしょう。でも、山や、川や、鉄道は変わっていない。もう1度、見たかった。父親の墓もある。実を言えば、1度だけチャンスがあった。新潟から船が出て、私が住んでいた港町まで行く団体ツアーです。船中に宿泊して、バスで廻る旅でした。それでも、山や、川を見たかった。その機会を逃したのが残念だった。
★母が言った言葉で、名言は私の心に残ってはいない。「わーし(わたし)がテッポ(鉄砲)で、わーし(鷲)を撃ったら、わーし(鷲)も、たまがる(驚く)、わーし(私)も、たまがる」。たまがる、とは長崎弁で、おどろく、ビックリすること。
★もう1つが、「人(他人)の痛みは、3年でも、こらえる(辛抱できる)」。他人からの慰めや、励ましに期待するな、の教訓かも知れない。この、あどけない少年は、生涯、沢山の病気で苦しむことになる。
★母の50回忌を期して、原爆の語り部になり、13年間、原爆資料館で、小・中・高生たちに、原爆体験を聞かせた。原爆当日の朝、母との別れ、「行って、くる、けんね」から、語りは始まった。最後は、平和推進協会が掲げた「平和の原点は、人の痛みを分かること」と締めくくっていた。語り部も、病気になって引退したが、母の言葉は本音にある。
★鷲と鉄砲は、別にして、やっぱり、本当に人の痛みを理解して、心底、分かるのは、なかなか難しいと思う。母は、45歳で、原爆に吹き飛ばされ、行方不明になった。
★(口に出して、言うたら、アカン。心の中で思うんや。人間って、孤独なんや。他人はお前のこと、誰も気にしてヘン。自分の人生や、自分で耐えるしかない)
★母の声が、胸の奥から聞こえる。「祈るんよ、わかっとるね」

2018年4月27日金曜日

北南の歴史的握手。被爆者の我、核のない平和を望む

懐かしい写真を載せます。80年前の北朝鮮、羅津の末広町です。私が育った町です。北朝鮮で生まれ、何回か転居し、南朝鮮にも住みましたが、小学生の頃は、ここ(矢印)の家に定住しました。13歳のとき、この家から、長崎へ引き揚げました。
★北朝鮮は私にとって、生み、育てた場所です。人生に於いても、心的に大きな影響を受けました。現地に住む朝鮮人たちへの差別、軍国的に走る日本の教育の中で、子供であっても心を痛め、それでも伸び伸びと過ごしていました。現地で父を病死させたに後は、母1人子1人の生活に苦労をもたらした。気丈に商売に励む母親が一番大変だったと思います。母は、わが子を愛し、守ったんですね。いま「おかーァさん」と叫びたい気持ちです。
★今日は、テレビで、北朝鮮の金委員長と、韓国の文大統領が、板門店で、歴史的な握手を交わした場面が終日、報じられた。テレビを見ながら、思いました。「北朝鮮のカトリック教会の司祭や信者たちは、どういう状況にあるのか」「北朝鮮の人たちは、自由を奪われ、貧困にあえぎ、病気に苦しんでは、いないか」「今年の冬は厳寒だった。冬の寒波を知っているだけに、庶民は厳しい冬を乗り越えることが出来たか」「自由がないのが、一番恐ろしい。閉じ込められ、抑圧され、強制される悲しい人は居ないのか」「人間の尊厳を生きることは可能なのか」
★人は自分から望んで、この世に生まれた訳ではない。それが「自分」を意識するようになって、家族や周りの人びとの愛に包まれながら、夜空を見上げれば、宇宙の広がりまでも知って、自分の可能性を生きてきた。北朝鮮の家はもう手に届かないが、己の流れは、ここから始まった。あの北朝鮮の町で生まれた少年は、どんな人生が待っていたのか。「生まれたからには、人には、それぞれ役割がある。役割があるから、生きる意味もある」
★80年前の少年は、鉛筆と消しゴムとマンガ本しか知らなかった。今の子供は、素晴らしい器具を操作して生活している。その変貌に唯々驚く。今の子供が、80年後、どういう世界に生きているのだろうか。想像も出来ない。

2018年4月26日木曜日

ホームの玄関先のツツジ。人生の宝は、どこに有る?

長崎の聖母の騎士修道院に居た頃、食堂で、こんな会話をした。普通は10人程が居るのに、その時は、4人だった。周りが寂しくなるのを感じていた。「昔の、この食卓にも、人数は何十人もいて、ポーランド人も居て、食事の前後は、ラテン語の祈りを唱えて、賑やかだったなァ。あの頃が懐かしい」「なぜ現代人は、宗教に、あまり心を開かないのかね」
★すると80代の、耳が遠い、普通は余り語らない老修道士が皆を制するように言った。「世の中に、隠された宝が、ごっそり、ある。大きな包みものが、どこかに、ある。どこに、あるか、分からないが、その考えで、離れ切れない。思いきって、踏み切れない」。確かにと、みんなは含蓄(がんちく)のある言葉だと聞いていた。
★その時、思うのが、やはり模範は、この食卓の場を創立者した聖コルベのことで、神への真実の愛のうちに、まことの宝を発見した。それは本当だと納得する。「信仰すれば、必ず、ふしぎな人生が開ける」。そう心に念じた。
★あれから10年近くが経った。老修道士は、自らホーム「聖フランシスコ園」に入り、お世話になった。私が見舞いに訪ねると、ちょうど食事中で、彼が、女性に混じって食事しているのを見て、直感した。「私は、ここには来ないぞ」。彼は間もなく、ここで神に召された。「彼は、最後に、宝を、見つけただろうか」。今は私も、抵抗はあったのに、ホームでお世話になっている。あの先輩の修道士が懐かしい。ホームでは、4人の修道士が思い思いの印象を残して神の元へ帰って行った。
★私は、彼らの後を継ぐ者だが、まだまだ、今日は朝の9時過ぎから入浴して、さっぱりした気持ちで居ります。これで、いいのかなァ。「宝を、見つけなければ、生きる価値は、ない」。そう思いながら、瀧神父さまと隣同志で食事を楽しんでおります。宝を見つけるまでは頑張ります。

2018年4月25日水曜日

登明日記(ブログ)書いて、10年目に入る、早や

当時の日記を読み返す。「81歳になった今、声かけられと言えば、まだまだ元気に歩いているのに、背中から『大丈夫か』の声。イヤや、なあ。一番、スカン言葉です。それよりも『明るい顔しているね』が好き。カラ元気でも、いいから、シャンとしていたいです。『明るい顔しているね』。この言葉が嬉しいね。生きている限り、明日へ希望をつなごう」
★この言葉を今、また思い返す。まるまる9年が過ぎて、10年目に入った。人生の晩年だよ。だが、振り返れば、そりゃ病苦が多かった。それを乗り越えて、ここまで、やってきた。「生きているって、すばらしいじゃ、ないか」。ため息と共に、この言葉が出てくる。
★あの頃は聖コルベ館に勤めていた。巡礼者が見学にくる。みなさん、ありら、こちらの教会を回って来ているから、「あなたの後光、輝いているよ」といえば、みな喜んだ。聖コルベ館の玄関外に、ジャスミンの木があって、可憐な花を咲かせていた。命の大切さも少し分かり、「やあ、今年も、また会えたね」と挨拶の声をかければ、花も生きる存在を意識したものです。今年も、今頃、咲いているだろうか。
★生かされているから、今日も、祈るよ。

2018年4月24日火曜日

ゼノさんの命日。聖母の騎士の長崎上陸記念日

天国のゼノさん。有り難う。今日は、ゼノ修道士さんが天国へ帰った日ですね。ゼノさんは言った。「天国に、勲章、いらないよ」「ゼノ、死ぬヒマ、ないよ」「貧しい人、助ける、これヒツヨウです」
★ゼノさんの最高の思い出は、今から37年(1981年)前、教皇ヨハネ・パウロ2世を東京でお迎えしたとき、テレビで見ました。教皇さまに抱かれて、教皇さまは、ゼノさんを慰めて、「苦労されましたね」と言われる雰囲気がありました。あの時、ゼノさんは「オイチェ・シュエンチ」と言って泣いて喜びましたね。その時、コルベ神父は、まだ福者でした。ゼノさんは翌年、昭和57年4月24日の午後、東京で神さまの御元へ帰りました。90歳でした。コルベ神父は、その年の10月に、聖人に挙げられました。
★ゼノさんの思い出の数々、忘れません。写真も沢山撮りました。この写真は東京・東村山の神学院・修道院で撮ったスナップです。近所の子ども達でしょう。36年前になりますからね。
★また今日は、コルベ神父とゼノ修道士が、ポーランドから来日し、長崎に上陸した記念日もあります。この日に、聖母の騎士の芽が長崎に植えられたのです。芽は成長し、大きな樹になりました。昭和5年のこの日でした。
★トマの人生も、17歳で聖母の騎士に入ったのは、神さま、マリアさまの大きな恵みの流れに、導かれて入って行ったように、今は思えます。
★天国のゼノさん、この地球には、まだまだ貧しい人が沢山おります。心の貧しい人もいる。神さま、マリアさまの御元から、助ける手を伸ばしてください。

2018年4月23日月曜日

やっと、教会へ。食堂へ。これが生きる勤めです

食堂から、一面のガラス戸を通して、屋外を見た風景です。白いマリア像が立っており、広い庭がある。遠くの山並みは、多良岳(たら・だけ)です。食事の後、時々、ぼんやりと眺めながら、椿原の小・中の子ども達と「何度か、登ったな」の思いが浮かぶ。「あの子たちは、どうして暮らしているだろうか」。人生って、愛もあれば、苦しみも困難も沢山あるからね。
朝から教会へ。教会の祈り、ミサで祈りました。
朝食、昼食は食堂へ。トマの元気そうな顔を見て、瀧神父さま、入江さんも喜んでくれた。静かで、平和なホームです。先ず自分のカラダの事を考えよう。
山を乗り越えれば、また何か新しいものが見えるかも知れない。希望、捨てたら、アカンよ、と我に。

2018年4月22日日曜日

良く眠り、熱は下がる。もう、しばらくの辛抱です

ホームの庭の花壇です。
「世は、花盛りというのに、お前は、どこに居るのか」
★昨夜は、本当に良く眠むりました。おかげで、熱は下がり、平熱となりました。有り難い思いです。
★ホームでの生活の基本は、朝、教会へ行って、ミサで祈ること。三食、食堂へ行って食べること。これが出来ないのが、キツイ。
★今は、朝も、昼も、夕方も、自室で静かにしています。
★女性職員さんが、温かいタオルで、カラダを拭いてくれた。小さな心遣いが、嬉しい。自分は、どれほど、多くの他人から助けられて、これまで、やって来たことか。

2018年4月21日土曜日

熱、7度6分。自室で静養、忍耐しております

ツツジが今、道路一杯、咲き誇っている。高原修道士さんの都合で、朝から長崎の「かかり付けの医師」ヨゼフ・クリニックへ行った。熱は7度3分。4月に入ってから、この3週間、カゼの気分が抜けない、と告げる。クシャミ、鼻水、タン、セキ、声枯れ。点滴と、肩に痛い注射を打った。吸入をする。胸のレントゲンを撮って、以前のと比べてみる。処方箋を出してくれた。昼食は、コンビニで買った「おにぎり」と「ざく盛りヨーグルト」だけ食べる。熱、7度6分。しばらく自室で、静養します。いま、戸をノックして、瀧神父さまが心配して「どう、ね」と声をかけてくれた。

2018年4月20日金曜日

ああ、何とかゲンキが出ないものか。悶々の日々

声枯れが激しい。定刻に起きて、教会の祈りは、本当に声が出なくて気になった。午前中は、「絵手紙」教室があった。花の名前は分からないが、1枚と、あと、タマネギを描いた。昼前に、ホームの医師が週に2度、診える。診察を受けた。午後から、医院に胸のレントゲンを撮りに来なさい、と言われて、看護師さんに車で送ってもらう。声枯れが恥ずかしい。何とか落ち着かないものかと、悶々としている。

2018年4月19日木曜日

カラダが「冷えて」困るんです。慌てることは、ない

昨夜は、セキが出て、気管支が痛み、朝からタンが出る。声が出ない。「神よ、私を、力づけ・・」と祈りの声を試しに出すが、ダメだ。それでも定刻4時35分に起きた。熱を測る。6度5分。「大丈夫、神よ、私を、力づけ」と又、叫ぶ。ダメだ。
★5時15分、教会へ入る。浜田神父さまが居る。車椅子の男性が居る。4番目。いつもの時間です。個人で、教会の祈り「読書」を唱える。5時40分から、共同で、信徒、修道者が一緒に、「朝の祈り」を唱える。声が出ないので、気になる。「トマの声、ヘンだぞ」。思われたくないよ。6時から、ミサ。
★4月になって、なぜか、体が「冷える」。寒い。冬物に未だ頼っている。なぜ今年は、こう、なのか。理由がわからない。何か、体内に異変が起こっているのでないか。もう、この歳だから、慌てない。女性職員さんが自室に来て、具合を聞いた。「フロに入ったの?からだを拭こうか?」「いや、だいじょうぶ」。しばらくして同じ女性職員さんが、紙コップに、熱い甘味な飲み物を持って来た。「こんなに、親身に看てくれるんだ」。朝食も、昼食も食堂へ行く。昼食は、アナゴ飯だった。
★午後から、3時過ぎまで、ベッドに横になって安静にしていた。起きたくない。「なまけ、出すな」。今日は、長崎の修道院で、4地区で働く会の修道者たちの集会がある。参加するのを楽しみにしていたが、今日は遠慮した。湯江修道院の車は、3時に出る。瀧神父さまは出かけた。
★この後、夕食に行って、祈りを唱えて、定刻7時30分にはベッドにつく。今夜は、安らかな眠りを与え給え。

2018年4月18日水曜日

ロムアルド修道士の命日だった。彼の愛情、今も

ポーランド人のロムアルド修道士。コルベ神父の時代に長崎へ来て、コルベ神父が創立した小神学校の舎監を長く勤めていた。昨日が彼の命日だった。平成元年に、78歳で神に召された。
★私が原爆の後、聖母の騎士に辿り着いた時、受付で先ず出迎えたのが、ゼノ修道士だった。しばらくして大きな体格のロムアルド修道士が姿を見せた。母と一緒にルルドへ来たとき、応接間でマリアのメダイと聖絵をくれたポーランド人だった。「神学校に入りたい」と告げると、ロムアルドさんは両手を広げて、西洋式に孤独の少年をしっかりと抱いた。次に、ミロハナ神父が出てきて、また同じように抱擁した。それが入学許可だった。その足で、炊事場へ行き、カシアノ修道士から食事を頂いた。大きな丼に、みそ汁を並々と注いでいた。私は、それを総て飲み干した。次いでロムアルドさんに連れられて、小神学校の旧校舎に落ち着いた。それが私の、この道の始まりだった。
★以来、私は舎監のロムアルド修道士や、炊事場のカシアノ修道士、指導者のミロハナ神父に長年、お世話になる。孤独の少年にとって、父の匂いを与え、母代わりに育て、教えてくれたのは、この人たちだった。特に、ロムアルド修道士から愛されていたように思う。彼の懐かしい筆跡の手紙を、まだ捨てずに持っている。
★「わたしは、みんな生徒を、愛しております。けれども、あなたに対して、いつも母の心をもって、考えております。きょうから、マリアさまの愛に、競争しましょう。寂しさや、ひもじさを、すべておん母にささげてください」。丁寧なローマ字で書かれている。
★体格の大きなロムアルド修道士は、青い目が美しかった。時折、笑いながら指を輪にして、高い鼻をこすった。今でも持っているマリアメダイは、ロムアルド修道士から貰った大切な思い出のメダイです。

2018年4月17日火曜日

記事を書いて良かったと思う励ましの手紙が届いた

ホームの玄関。鉢に延びた一輪のバラ。「アンネのバラですよ」と教えられたので、デジカメで撮った。
★同じ修道会の司祭から、筆字で達筆の手紙が届いた。「何事だろう?」。好奇の気持ちで開いて見ると、「最近、騎士誌が変わった。そんな感じがして喜んでいるところに、トマさんの記事があって、読ませて頂きました。目に熱いものを感じるすばらしい記事に感動しました。ありがとうございます。また、これからも短い、何かでもトマさんの記事があれば、騎士誌がうるおうのではないかと思います。季節の変わり目にご自愛下さい」と、有り難い文面が記されていた。「励ましになります。これからも精進します」

2018年4月16日月曜日

釣ったサカナは大きかった。釣る楽しみ笑いあり

「大漁だぞ」「大きいぞ」「こんなに、デカイぞ」「これだから、釣りは、やめられん」。思わず掛け声が出てきます。こんな魚を見せられると、愉快だね。
★昼ご飯が終わって、自室に戻ると、慌てて職員さんが戸をノックした。「大きな魚が捕れたので、写真に撮って欲しいそうです」。何処?急いで玄関へ、屋外へ、炊事場の方に居た。ご覧の通りの大漁です。
★ホームの岩田事務長さんと、男性職員さんの3人が、早朝、出発して、天草灘で、午前中に、釣った。今、帰ったところです。「大きな鯛を抱えて、ハイ、パチリ」
★何キロ、ね?「5.3Kg、5.0Kg,3.5Kgなどなど」。見事な、大物のタイ揃いですよ。もちろん小さい魚も多々ある。見ている者でさえ、タノシイよ。

2018年4月15日日曜日

静かな日曜日。何事も起こらないのが幸せです

昼食は、ハヤシライスでした。私は、ハヤシライスが好きです。若い頃、大阪の駅のレストランで食べたハヤシライスの味を未だに忘れない。これが出ると、いつも、あの付近の風景が目に浮かぶのです。チキンサラダと、「これ、イチゴのゼリーかな?」。瀧神父さまが「寒」と書いてあったよ。「寒(かん)? 寒天かな?」。(午後のロザリオが終わってメニューを確認すると、「苺寒」と記してあった)
★食事は、いつも瀧神父さまと隣同志。私たちは、なぜか最後になる。皆さんは早々と食べ終わって、片づけている。私たちは、片隅で、話をしながら食べるので、遅くなる。2人とも、いつも完食です。日曜日。何事も起こらずに無事に夕方になりました。

2018年4月14日土曜日

歌を愛し人生を楽しく、歌謡曲のように生きよう

現われた長身の1人の男性。先ず着物。ピッシャっと、決まっている。頭は、白く薄い毛。アゴ下に、白いヒゲが少しばかり伸ばしている。地元で生まれ、慰問に来たと、それだけ明かした。「オリンピック」の歌から、声量たかく始まった。次は「孫」の歌。ホームの女性たちには、ジーンと、くる。
★体でリズムを取りながら、年期が入った身のこなし方。聞いて、拍手しながら、この人は本当に歌が好きなんだな、の気持ちが伝わってくる。歌い手の、心も伝わってくる。歳をとっている皆さんよ、今更、何を、くよくよ、するのかね。残る人生は、楽しく、歌でも聞いて、歌って、ゆっくり老いて行こうじゃないか。
★ホームの人たちも、歌謡曲が大好きです。テレビの歌番組も楽しみに話題にしている。つづいて「浪花節の子守唄」「王将」。いいねぇ、歌い手の「好きだよ」「歌うのがスキだよ」の心情が、まともに心をしびれさせる。
★もし自分なら、と考えた。カラオケの愛好家。人前に出たい自信、やっぱり体格も必要だな。果たして自分には出来るか。自信がないな。歳を取っても、歌が唄えて、喜びの奉仕が出来れば、幸せだね。最後の歌は「祭り」で終わったが、アンコールの1曲が付いて、ちょうど30分の慰安の歌謡ショーになった。歌手の男性は何歳か?どんな経歴の持ち主か?そんな事は聞かない、明かさない。ヒョウ、ヒョウと現われて、好みの歌を歌って、慰めになれれば、それでいい。
★外は、激しく雨が降っていた。ご苦労さま、ありがとう。歌手の男性も長生きして、いつまでも歌いつづけてください。

2018年4月13日金曜日

騎士誌に原稿を載せる。活字になる喜び。日記が助け

日記から、一文になる記事を、聖母の騎士誌の5月号に載せた。久しぶりに「小崎」の名前が紙面を飾った。出来上がってみれば、やはり嬉しかった。
★原稿は、聖コルベ館のときは「ワープロ」で書いていた。いま、ワープロは自室にあるが、部屋が狭いため、使用が出来ない。そのうちに、使い方も忘れてしまった。パソコンは使っているが、電源がWiFiのため、検索や原稿は書かない。ただ「日記のためだけ」に使っている。画面が乱れるのです。混乱したとき、修正してくれる人が居ない。
★この騎士誌の記事を書く為に、藤下先生の車を頼んで、長崎・騎士社の編集室に出向いた。日記から記事を選んで、口述を加えながら、1時間半ほどを要して仕上げた。かなりの労力を要したのは事実です。日記には、記事になる内容が幾つもあります。ただ、このような方式で続いて原稿が書けるか、困難を感じています。

2018年4月12日木曜日

「共に、祈る」も必要だが、「一人でも、祈る」心

きのう、おじゃましたシスターのチャペル。玄関を入ると、「先ず、聖体訪問を」と声をかけると「では、こちらへ」と、左側の扉を開けた。長い廊下があり、数歩、足を交わすと、静かな空間があった。
★皆さんに会う前に、ここで、しばらく黙して祈る。一瞬、多くの女性たちが、社会生活の総てを置き去りに残して、この場に入った召命に、心が動いた。
★シスターたちの祈りのパワーが、どよめいているのを感じる。ここに居たい、そんな気持ちも胸に湧いてきた。
★「共に、祈る」も必要だが、「一人で、祈る」。これも神との対話になる。祈ると、何んだか、不思議と心が「しーずかに」沈んでいく。祈りは呼吸かも知れない。コルベ神父は常に「マリア」「マリア」と呼吸していたという。質素な祭壇には、無原罪のマリア像があり、均等の聖ヨセフ像がある。「イエスの聖心」。忘れてはならない。そして十字架が有る。
★神は何を私に望み給うであろうか。生活苦の忍耐か。隣人に温かい声かけか。死者のための想いか。

2018年4月11日水曜日

昭和のヒト・ケタです。苦労は今は恵み。喜びの集い

ホームから12Km離れた山の中に、養護施設や、教会、その他の大きな施設がある。お世話をするシスターの修道女院もある。「トマさん、昼食に招きます。昭和ヒト・ケタのシスターたちと、古い時代の会話を楽しんでください」と声がかかった。瀧神父さまと出かけた。戦争が終わって10年程した頃に、養護施設を中心に、顔なじみになったシスターたちです。昔の、若い頃の話に花が咲いた。食料不足の時代だから、苦労は多かったが、今は笑いになっている。ゼノ修道士の話しも出た。話の折々に、多くの話題の持ち主の瀧神父さまも面白い話を提供して、楽しいひと時でした。ポーランド勲章も見せました。シスターたちもポーランドへ行った思い出もあるからね。ポーランド人のシスターが料理してくれたスープです。少し甘さのある味でした。シスターたちは「トマの病気のこと」もよく知っているので、この歳まで生きたことを喜んでくれた。お互いに奉献生活、頑張りましょう、お祈り、頼みます、と願いながら山を下った。

2018年4月10日火曜日

待っていた傾聴ボランチア女性、来る。語り1時間

「きょう来ます」と事務所に連絡があった。午前10時頃、にこやかな表情で、久しぶりに姿を見せた。「待っていましたよ」。昨年の3月から、ちょうど1年。殆ど毎月、姿を見せる。
★「あなたの話を聴きます」「時々、言葉を繰り返します」。こちらは、シャベルだけ、です。だから気持ちが楽です。何でも語ってよい。当方は、語る間に、アタマの中の整理が出来てくる。
★女性ではなくて、自分が自分に問いかけるんですね。自分を吐き出すんです。気持ちが楽になる。有り難い事です。でも、女性にとっては無料奉仕でしょう。自宅からバスに乗って、長崎駅まで、列車に乗って湯江駅まで、徒歩でホームまで、時間もかかります。来るのは便利だが、帰りが列車は無く、バス、列車の乗り継ぎになる。それだけ考えても、犠牲が必要です。誰が、ここまで、してくれるンですか。アタマが下がります。傾聴の奉仕団体もあるんですね。
★「カゼを引いたこと」「ね汗を、かくこと」「外出が多かったのか、しわ寄せがきたこと」「5月末に、ステントの入れ替えがあること」「生活は単調だが、最初は寂しかったが、4年目を迎えて、90にもなって、気持ち的にも落ち着いたこと」「ホームの生活は恵まれていること」「病気を多々したが、良い医師、看護師に恵まれていたこと」「腎臓病では死にたくないこと」「歳には勝てないこと」など。前にも話した繰り返しだが、女性は根気良く傾聴して、折々に我が言葉を返してくれた。早くも時計は、11時。「潮時」と思いつつも、一方、「まだ帰らないで」の心境だった。

2018年4月9日月曜日

神のお告げの祭日。気持ちも普通の日に戻りました

今年は、なぜ、こんなに朝夕は、体に冷えを感じるのでしょうか。異常気象の波なのでしょうか。その中で、ようやく気持ち的にも普通に戻ったように思います。
★午前中は「コーラス」といって、タオルを持って、童謡を歌いながら、体を動かします。参加しました。身体の為になるからです。ヤクルト1本の飲み物も出ます。
★人間は「身心」から出来ている。身体は目に見えるが、心の部分は、中々気がつかない。しかし「心」の問題は、大きな影響があります。「修道士」だから、重症の老人や、病者の傍に寄り添って、優しく手を「さすって」あげる。それだけでも癒されるでしょうが、何と言葉をかけたら良いのか、難しい。「みつめる」のは易しいが、「癒し」は、ちゅうちょ、する。苦しむ人、痛む人を、いかに慰め、いたわってあげるのか、自分でも分からない。難しさを感じています。パワーが無いのだろうか。平凡なのか。心の癒しは難しい。

2018年4月8日日曜日

神のいつくしみの主日。今朝の思い。幻の小さな本

午前4時35分に起こされて、身支度をする。その間「今日も、一日、生きるぞ」。その心が、自然と湧いてくる。この気持ちが、健康の印し。カゼ気味のとき、その心情には、ならない。
★22歳のとき、結核で、右の腎臓を切り取った。残る腎臓も病みながら、90歳まで生きのびた。これ、奇跡じゃないでしょうか。
★原爆で、家は燃え、母は行方不明、遺体も捜せなかった。自分だけが、助かった。これも奇跡じゃ、ないでしょうか。
★そんな思いを今朝は持ちました。
★復活祭の次の日曜日。神のいつくしみの主日です。ポーランドの古都クラクフの南に、修道女院があります。3度、この修道女院で祈りました。1人のシスターに、イエスが御出現して、神の愛、いつくしみの聖心を伝えました。「私たちは、神から愛され、イノチを戴き、守られ導かれている」。その実感を受ける御出現は長い期間、行なわれましたが、シスターは隠されていました。教皇ヨハネ・パウロ2世は、この出現と奇跡を承認して、神のいつくしみの主日が制定されました。シスターは聖人に挙げられました。イエスの胸から、3つのヒカリが放出されているお姿です。
★昨年の復活祭の思い出に「トマさんのことば」の出版があります。1年が経ったんですね。500冊の限定出版は、すべて無料で配布されました。今では、もう幻の「お恵みの本」になりました。

2018年4月7日土曜日

4月の誕生会。13人がお祝い。出し物は、何だね?

誰にとっても、いくら歳を重ねても、誕生日は嬉しいし、楽しい。4月生まれは多かった。13人が、まとめて「ハッピバスデイ」。おご馳走もありました。待っているのは、職員による出し物ですよ。「何ですか?これ」。お多福に、ヒョットコに、わけ、わからん顔。「題は、何んね?」。音楽に合わせて踊る「男の流儀だよ」
★食堂に全員が集まって、昼食は楽しい集いでした。3人はウチワ、センスを振りかざしながら、格好良く踊りまくりました。意味は分からんけど、気分は愉快だよ。やっぱり踊り上手は、身振り、手振り、腰ふり、コツがありますね。要領が入るんだよ。「ジンセイ、かき分けて、踊りゃにゃ、ソン、ソン」。そんな気持ちにさせてくれました。
★食事も終わりに近づくと、音楽ナシの「のど自慢」。人生の荒波を乗り越えてきた女性たちの歌は、そりゃ迫力があるね。「花も、嵐も、踏み分けて」。昭和の歌唱も出るわいな。大きな声で、3番まで歌い通す女性、これで95歳だよ。毎度、誕生会は敬服の至りです。こうして皆さんが長生きすれば、ご馳走も戴いて、幸福だよね。人生には、福もあれば、鬼もある。喜びあれば、苦もある。ここに居る人たちは、それらを乗り越えてきた。老いても、前向きに生きている。老人ホームには人間の生きる執念がイッパイある。

2018年4月6日金曜日

教会へ行くと、幸せの風(カゼ)が胸までとどく

2週間ほど前、愛野教会・幼稚園での写真です。あの頃の元気が、やっと戻りました。まだ、まだ希望があります。
★ゆっくり休みました。今朝、4時40分に起床。身支度して、教会へ。共同の教会の祈り、朝の祈りを唱えました。声がかすれて出ない。気にしながらも唱えました。高原修道士が、祭壇のローソクに、火を灯します。その姿を見て、一瞬、「ああ、教会だな」。何か胸にひびいて来る風を感じました。幸せの「風(カゼ)」か、な。教会の鐘アンゼラスがなり、「アレルヤ」の祈りを唱え、ミサが始まりました。元気の恵みを感謝しました。
★朝食のとき、瀧神父さまが、「昨日は、5の日だから、トマのため、ミサで祈ったからね」と言った。毎月、5は、トマのため、9の日は、トマの両親のため、瀧神父さまがミサの意向で祈ってくださるのです。有り難いことです。
★更に朝食のとき、瀧神父さまが「日記のコメントに、Ponnyと、あるのは誰ね?瑚々菜はお母さん?」「娘です。聖母の騎士幼稚園の園児でした。Ponnyは園児のお母さん。瑚々菜ちゃんは、4月から小学1年生になりました」
★日記を読んで、感想を聞かせてくれるフアンは、瀧神父さまです。食堂から帰りは、エレベーターでは、2人一緒に乗って、1階に先ず下りて、瀧神父さまを見送って、3階へ直行します。

2018年4月5日木曜日

みかん、食べたいが、もう時期はずれ。残るはカゼ

昨日の夕食から、食堂へ姿を現した。恥ずかしい気持ちに、声をかけてくれる。「よかったね」「何日ぶり?」「おだいじに、ね」。有り難い励ましです。看護師さんからは「水分の補給が大切ですよ」と言われる。
★今朝のミサは休みました。瀧神父さまが心配して自室を覗いて、「トマ、どうか?」「だいじょうぶ」
★朝食も、昼食も、食堂で食べる。完食です。声枯れがあるので、発言は控え目にしている。年々歳が深まる毎に、不具合の状況も変化してくるのを感じる。
★明日の朝ミサには、祈りを共にする予定です。

2018年4月4日水曜日

自室に、こもる。ニンゲンって、弱い。根をあげる

これまでの元気は、どこへ飛んで行った?
★何を書いていいのか、正直、アイデアが浮かばない。
★生きていても、苦しみは沢山ある。どうなるか、見守るしかない。
★気力が湧かないのです。

2018年4月3日火曜日

風邪気味で、1日中、自室で休む。疲れのセイか?

3月の最後の日でした。高原修道士が、京都からの女性さんを自室に連れて来ました。女性さんは、以前から、毎日、日記を見ているそうで、楽しいひと時を過ごしました。嬉しいでした。自室のテレビで、NHK長崎で放送された「日本26聖人」の無声映画(10分間)を見てもらった。お名前や住所をメモせずに残念でした。
★4月に入り、セキが出て、鼻水が出て、クシャミが出て、声変わりがして、風邪気味になり、3日(火)は朝ミサを休み、1日中、自室にこもって、食事も運んでもらっています。疲れの波が押し寄せたのでしょう。1月に「勲章」、3月に、「卆寿のお祝い」、愛野教会での話など、外出の機会が多くて、抵抗力が落ちたのだと思います。瀧神父さまが心配して、顔をみせる。看護師さんが、午前と午後、検温にくる。熱は、6度6分です。

2018年4月2日月曜日

テレビで一瞬、見た絵。「ああ、これ、よく....」

民家の壁に描かれた絵。右側、壁に男の子が立っている。他の男の子が、3人、4人と、背中を曲げて連なる。右側、男の子が、ポンと飛んで、馬乗りになる。次に又、男の子がポンと飛んで、連なって馬乗りになる。見た瞬間、「おお、これ、よく、やったぞ」と思わず声をあげた。
★韓国の北部、北朝鮮の国境に接した島、ここに住む住民は、殆ど朝鮮戦争のとき、逃れてきた人たちだそうだ。北朝鮮の生活を名残惜しみ、壁に描いて思い出しているのだろう。私が、北朝鮮に居た小学生の頃、本当に、この遊びを毎日のように楽しんでいた。テレビを見ていて、この壁の絵がでたとき、瞬時に、懐かしい少年の頃が脳裏に走った。チカラ一杯、飛び乗ると、連なる馬が崩れる。「なーんだ、ダメじゃ、ないか」。結局、走ってきて飛び乗るのは、ガキ少年だった。子供は、子供なりに、こうしてチカラを蓄えたものだ。オトコの子の遊びの、栄誉もあった。日本人同士で遊んでいた。本当に懐かしい行動の絵だ。テレビで見ても心にビビっと、くるので、もし実際に現場に行って、この絵を見たら、相当、シビレルだろう。少年の頃の思いは、脳裏の何処かに渦巻いている。

2018年4月1日日曜日

「ルーメン・クリスチィ」「アレルヤ」。復活祭祝い


ホームの復活祭は、どうでしたか?昨夜は典礼の通り、教会の玄関で、新しい火の清めがあり、教会内は真っ暗で、「ルーメン・クリスチィ(キリストの光)」と歌いながら、各自がロウソクを灯して教会内に入りました。ラテン語の歌が唄えられて、「創世記」や「出エジプト記」が読まれて、荘厳にミサが始まりました。喜びの「アレルヤ」が響き渡りました。復活・徹夜祭です。司式は、湯江教会主任の山下神父さまです。復活の主日ミサも山下神父さまです。
★復活の主日。10時から、ホームの全員が集って、お祝いのミサが行なわれ、湯江教会信徒の1人の少女が初聖体を戴きました。少女の顔は清く、喜びに輝いていました。ミサの後の昼食は、祝宴となりました。修道者は1つの食卓に集りました。散らし寿司、お刺身、焼き肉、天ぷら、などご馳走があり、歌も出て、楽しい雰囲気でした。もちろん復活のタマゴも食べました。下の右の写真、左から湯江修道院の院長・浜田神父さま、次が瀧神父さま、それからトマ修道士、山内園長神父さま、大曾神父さま、西山神父さまになっています。一緒に食事を取りました。こうして一緒に食卓を囲むのは、楽しい食事です。ホームの係りの配慮によることです。皆が元気なのが、お恵みです。