2017年9月30日土曜日

入院4日目。御聖体を拝領する。

入院する朝ミサの前に、浜田神父様にお願いした。「10日程入院します。半ば頃に御聖体を頼みます」
★今日、午後1時頃浜田神父様が見えた。高原修道士が同行する。御聖体を拝領して祈る。力強い「つながり」を感じた。この入院によって他の苦しむ人々にも恵みがありますように。
★土曜日なのか院内は静かです。明子さんとマシコさんがみえた。
★食事は老人向きの料理。食べやすい。周りの患者さんの症状に比べれば、まだ自分は幸せです。

2017年9月29日金曜日

入院3日目。安眠、快適。

腕に朝晩、注射だけの毎日です。
★辛抱しよう。山を越えよう。ホームに帰れば、楽しいことがいっぱいある。誕生会、クリスマス。生きて耐えてこそ、楽しみも来る。
★午前中肌着を、洗濯機乾燥機で仕上げる。
★先生が来た。「レントゲン、お腹、撮らないのですか」「交換した後で撮りましょう」
★昨日も今日も明子さんが来る。また今日は高原修道士と谷村神父様が顔を見せる。
★続いてのお祈りお願いします。

2017年9月28日木曜日

入院2日目。注射、朝晩2回。

昨夜遅く、また今朝早く、お医者さんが声を掛けて来た。注射が始まる。腕に朝晩2回、それだけ。病人とは思えない生活です。
★昼寝の時、天井を見て(いつまで生きるんだろう)そんなこと、ボンやり考える。
★人の流れで感じることは「人柄」と「親身」です。優しい人柄か、親身になって処置してくれるか、受ける側は敏感に心に響く。ホームの書道の時、この2文字を書きたいと思う。

2017年9月27日水曜日

入院1日目。無事に入院。

長崎は朝から雨だった。雨の中、高原修道士の運転でホームを出る。何だか心細い。
★午前中に入院。4人部屋。明るい窓際で、部屋の広さもゆったり。静かな印象。すぐ担当の看護師さんが来る。カトリック信者ですと言った。旦那さんも信者で2人の子供がいる。ミカエルとラファエラ。良いことあるかな。何故か頼もしい。心電図にも付いて来てくれた。
★血液検査、尿検査。ステント入れ替えは10月2日月曜日。気持ちは落ち着いています。
★明子さんが来た。2人でヨハネ村山修道士の病室に握手をしに行った。元気にしていた。(代筆)

2017年9月26日火曜日

秋の野の「かかし」。フランシスコは叫ぶでしょう

先日、山の施設へ行く途中で、珍しく野に「かかし」を見つけた。車を止めてもらって、秋の風情を写した。
★明日、27日から、10月の5日まで、入院します。湯江教会では昨日から、アシジの聖フランシスコの祭日に向けて、9日間のお祈りが始まっています。ミサの後で、お祈りをします。祭壇の脇に、聖フランシスコのご像も安置しました。10月4日が、その祭日です。入院中のベッドで迎えることになります。
★聖フランシスコは、太陽も月も、金持ちも貧者も、オオカミ、小鳥などの動物も、兄弟姉妹と親しく呼びかけて、愛でました。おそらく、この「かかし」を見ると、「おお、兄弟姉妹よ。神さまの愛を皆さんにも」と走って近寄ったでしょう。「兄弟、トマよ。行って、おいで」と声が聞こえる。「何も心配はいりません。神さまが、お守り、導いてくださいます。すべてを委ねましょう。安らかな気持ちで行きなさい。自分の十字架を背負いなさい」
★荷物も整いました。無呼吸の機械一式を持参するので、バッグの数が増えます。高原修道士さんが自室に打ち合わせに来ました。明日は、9時に出発です。
★ブログをお読みの皆さん、力添えのお祈りをお願いします。

2017年9月25日月曜日

集まりで喜びは湧く、入院の準備に悩みも出る

昨夜は、湯江、小長井地区の修道会の皆さんの集まりがあった。山内園長神父さまの修道名を祝いました。写真が、その風景です。何が出てくるか、テーブルの上には、まだ何もない。そのうち、何かの食事と飲み物が出るでしょう。修道士が4人、司祭が5人。私にとってはホームで食事をするよりも、雰囲気が違う。何よりもホットして、肩の力が抜ける。同じ魚の仲間が泳いでいる気持ちです。楽しいひと時を過ごしました。呼ばれて、仲間の集いに戻れるのは、ありがたいことです。
★今朝は、教会で、「教会の祈り」「ミサ」の始まる前の静かな時に、数日後に控えた入院を考えました。やっぱり気になるよ。思ったね。「残る老いの人生、じょじょに、痛みや不便さが増えていく。それを1つ1つ乗り越えて行こう。今の心境、それしかない」
★総合病院に入院するのは、2回目ですから、要領は分かっています。午後からバッグを出して、必要品を揃えた。バッグの、チャックを開け閉めする部分の糸が外れかかっている。久しぶりに裁縫箱を出して、針に、白い糸を通そうとするが、目がかすんで糸が中々通らない。やっと通して、外れた部分を縫い始めた。「なんか、さびしい、気分に、なったよ」。2度、糸を通して縫い上げた。
★さあ、立ち上がろう。負けないぞ。体力、気力。そして信仰。

2017年9月24日日曜日

山内園長神父さまの修道名は「パチフィコ」です

敬老の日の写真です。山内園長神父さまと、勤続20年の2人の職員です。左が看護師さん。右が「はな」ちゃんのお母さん。実は、今日の主題は、山内園長にあります。
★今日は、山内園長さまの修道名のお祝い日です。修道名は「パチフィコ」と言います。アシジの聖フランシスコが修道会を創立した時の最初の仲間12人のうちの「兄弟パチフィコ」です。詩人だったそうです。ミサの時に紹介され、祈りました。また昼食の時には、食堂で全員に紹介されて、大きな花束と何か白いものを貰いました。園長神父さまは嬉しそうで、コメントで、勤めて11年になる、と言ったが、歳は言わなかった。多分、81歳でしょう。
★今日は、日曜日。2番目の9時のミサの後で、続いて「聖体の永久礼拝」が行なわれた。長崎教区には、司祭が定住する教会は、88ある。1年間に、4月から来年の3月末まで、日曜日は、53ある。そこで毎日曜日に、88の教会を振り分けて、当番を決めて、どこかの教会でミサの後、「聖体礼拝」を行なっている。今日の日曜日が、湯江教会の担当でした。主任司祭・山下神父さまが、御聖体を安置して、聖歌、福音、ロザリオ、聖体祝福、賛美を行ないました。ですから長崎教区では、日曜日には、どこかの担当の教会で「聖体礼拝」が行なわれ、1年を通して、長崎では、どこかの教会が祈り、聖歌を捧げています。これを「永久礼拝」といいます。
★深夜に、93歳の男性が亡くなった。お通夜、葬儀はホームでは行なわれず、今朝、9時のお迎えの車が来て、ホームの皆さんは玄関に集って、お祈りをして見送りました。園長神父さまの話では、30年近くホームで過ごした。それを聞いて、その年数に驚きました。私が来た頃は、お元気で、入浴も時折一緒でした。老いの体力の変化は、いつ、どうなるか、わかりません。冥福を祈りました。
★今夜は、楽しみがあります。修道院で、山内園長神父さまのお祝いの夕食の宴が行なわれます。修道者だけの気楽な会食になります。

2017年9月23日土曜日

思い出深い、山の養護施設の空気は、今も清純だった

秋分の日。山の養護施設では、園のお祭りがあった。私は、2度にわたって、11年間と、6年間、合わせて17年、この山で生活しているので参加した。
★知らせてくれたのは、藤下先生だった。「一緒に行きましょう」と、ホームに誘いに来てくれた。施設の児童も少なくなって、子供の日など賑わっていたが、今年は見送った。その代わりに、今日、同じような屋台が実施された。山の修道女会のシスターたちも、参加した。施設の子供たちを見ると、彼らは未来に夢を描きながら、元気に育っている。屋台は楽しみでもある。カレー、焼きそば、たこ焼き、焼き鳥、アイスなど、テントが張られ、サービスが行なわれた。私も、おいしく頂いた。
★私の後の6年間は、施設の別棟に、施設の子供たちだけが通う私立の小・中学校があって、そこに勤務していた。施設の児童たちは、それぞれ悩みや寂しさや、親恋しさなど、小さな胸に大きな課題を抱えていた。それに応対し、教育する我々も大変な苦労があった。校長を勤め、藤下先生は教頭だった。当時の児童には一言で言えば「豪傑」が多かった。彼らは、その後、どうなったのか。今日は、園長室で、その話も聞いた。ある男の子は、施設の学校や、施設でも苦労が多かったが、卒業後は、幾多の試練を得て、結婚式に呼ばれた。彼は晴れの舞台で、自分の育ちと社会生活を赤裸々に語り、最後に、新郎の彼は、母親に向かって、「私は、母親から1度も抱かれたことはなかった。それでも、私を、産んでくれて、ありがとう」と花束を渡したという。私もよく知っている子だった。「あの子が、ねぇ」。人間、変わるものだなァ、と感動した。
★山の生活で、私は6年間、1日も学校を欠席しなかった。風邪も引かない。その原因は、清純な空気、山の爽やかな風にあったと、今日は感じた。藤下先生も帰りの車で言う。森林浴で元気が出たんですよ。
★ポーランド人シスターや、ベトナム人のシスターとも語り合った。ベトナムから両親が修道女院へ訪ねてきたが、福岡空港の都会から、山また山を越えて山、この山に連れられて、びっくりしたと笑っていた。
★いろんな人に出会えて、楽しい1日を過ごした。幾分、前もっての、ステント入れ換えの慰めと、気力になったと思っている。

2017年9月22日金曜日

来週は、ステント入れ換え。これなく生きられない

来週は、入院します。腎臓からボウコウに長い管(クダ)=(ステント)が入っている。そのお陰で生きている。6ケ月経つと、新しい管(クダ)と交換しなければいけない。入れ替えないと、尿が出なくなることがある。この交換の入れ換えで、私は生きている。以前は、1泊の入院、日帰りだったが、最近は、からだの事情で、1週間ほど入院して、入れ換えをします。だから辛いのです。私にとっては、1つの十字架です。もう20回ぐらいは行なってきているだろう。耐えるしかない。ジーッと我慢すれば、心は安らぐ。
★最近、日記に取り上げている下関の尚子さんから電話があった。「トマさんのことば」が着きました。読んで、感動しました。成長する5人の子供たちに、1冊づつ持たせたい。送ってもらへませんか、の願いだった。「残念ながら、本は、もう有りません」。お断りするしかなかった。いま息子さんが小学校から修学旅行で、長崎へ来ているそうです。長崎へ修学旅行に来る小学生たちは必ず原爆資料館を見学して、被爆者の語り部の体験を聞いている。私も10年ほど勤めた。尚子さんは家族で、10月のアタマの連休に、ホームへ面会に来てもいいですか、の問い合わせもあった。「ありがたいですが、10月の半ばまでは外してもらえませんか」。尚子さんの家族には、聖コルベ館で出会いたいと思う。小学生たちの子供さんたちには、夢が残るでしょう。

2017年9月21日木曜日

老いても、がんばる。体力と、気力が、大切です

敬老の日の祝賀会。宴も終わりの時、目の前に、大曾神父さまが居た。近くに、女性職員が居たので、「シャシン、撮って、あげるケンね」。声かけると、1人は、サーッと応じた。1人は「イヤよ」と一旦離れようとしたが、思いなおして、「ハイ」と、この写真になった。ちょっと大曾神父さまは威厳に満ちたお顔をしている。
★ホームの良しあしは、介護してくださる人(職員)の愛で決まる。人間が問題ですよ。そして受ける側は、素直に心を開くことですね。3年間の経験から、分かりました。
★大曾神父さまを見ていると、職員さんたちから本当に大事にされて、細かい介護を受けているので、うらやましいです。「ボクも、あんな、親切、受けたいな」と思います。
★大曾神父さまは90歳になられる。「脳減る賞」じゃなくて、よく話し、よく問いかける。この時も、入江さんに、「魚、釣りに、行った?」と聞いていた。「100ピキ、釣った」。大曾神父さまは、天草灘の海底のことを知っている。
★大曾神父さまの優しさが、職員を引きつける。でも自分で努力しないといけない時もある。食事が終わって、自室に戻るときは、自分で車椅子を押していく。介護過剰になると、体力が低下して良くないからです。
★老いても、人間は、素直な性格で居たい。心を開いて、お世話になりたい。最終的には、自分が、がんばる。体力と、気力を失うな、そう思っている。

2017年9月20日水曜日

歳とれば、誰でも、もらえる、脳減る(ノーヘル)賞

敬老の日の祝賀会の終わりは、バンザイでした。みな、はりきって、バンザイしました。「また来年も、敬老の日を迎えることが出来ますように」。心を込めて、手をしっかり上げました。
★今日は、朝から長崎市へ。クリニックの定期の診察日です。朝食は、隣の修道院の食堂で、パン1きれ、牛乳を飲んで、済ませました。高原修道士さんの運転で、出かける。クリニックに着くのに、1時間15分はかかった。待合室は大勢の患者さんで座る席もないほどだった。「こりゃ、時間が、かかるな」。観念して、呼ばれる時を待ちました。お医者さんから「田川ブラザー」と呼ばれるのに、2時間はかかった。辛抱強く、覚悟をして待ちました。別に変わりはない。9月27日から、10月5日まで、諫早総合病院に入院して、ステントの入れ換えをします、と報告した。自分にとっては苦難の日々です。じょじょに覚悟を決めています。 診察が遅くなり、ホームには昼食までは帰れないので、連絡して、途中で、食事をした。ハンバーグを食べた。ホームへ戻ったのは、3時前だった。
★クリニックの待合室で、長く待つので、「シルバー川柳」の本を見つけて読んだ。その中の一句に笑った。「歳とれば、誰も、もらえる、脳減る賞(ノーヘル・ショウ)」

2017年9月19日火曜日

夜のお客さんは、珍しい、にこやかなシスターだった

夕食が終わって、くつろいでいると、「トン、トン」と自室をノックして、シスターが現われたので、びっくりした。しかも「ローマから、来た」。ホームの事務長さんの娘さんです。「まあ、よく、ローマから来たのね」が、こちらの挨拶。始終、シスターの、にこやかな顔、安らかな雰囲気に接していると、こちらが何だか非常に嬉しくなる。話は一方的に、興味深く、質問攻めをつづけた。
★次から次に、途切れることなく話しかける。答えが、こちらに飛び込んで来る。「何を専攻しているの?」。返ってきた言葉が、むかし流でいえば「公教要理」「え?そうなの」。それを聞いて本当に嬉しくなった。信者の基本は、今でも公教要理だと思っている。私たちの子供の頃は、時間をかけて、みっちり公教要理を教えられたし、1冊の本をマル暗記した。いまでも、それが生活の枠組みになっている。特に、私の場合、本当に親切に教えてくれたのは、「あねさん部屋」のシスターだった。優しい、こんなに優しい人が居るのかと、子供ながらにも思ったほどです。そのシスターは聖人のように有徳のうちに神に召された。そんな、こんなで、話は尽きなかった。
★事務長さんが「ローマにも送ってやりたいから」と、『トマさんのことば』を3冊送った。手紙は早く着いたが、印刷物の本は2週間遅れで、やっと手にして喜んだという。2冊は他の日本人のシスターに分けて与えたそうです。「ブログも読んで、楽しみに、ホームの話題や写真が懐かしい」と言ってくれた。「フランスのジャムさんにも会いました」。今年の7月末に、ホームに訪ねてきた男性です。日記に載せている。
★珍しいお客さん、ローマからのシスターに会えて、心温かく、穏やかな気持ちになった。もう、しばらくの間、ローマで学ぶという。健康を大切に、沢山、見て、体験して、心豊かで、謙遜なシスターになってくださいと祈っています。

2017年9月18日月曜日

「老人よ大志を抱け」。愛に目をさませ。真実を見よ

敬老の日です。歳をとるのは、ありがたいことです。老いると、痛みや不自由なところも出てきますが、生きるのは嬉しいです。いつ頃、書いた絵か知らないが、目に留まったので載せました。「少年よ、大志を抱け」という言葉に似せて、痩せても枯れても、まだ「大丈夫だ」と言いたかったんですね。少年の大志とは、夢と希望を持って、前に進めということでしょう。老人に「大志」はないのだろうか。いや、「老人よ、大志を抱け。喜びと、感謝と、気力を持って、前を向け」と言いたいです。生きている限り、人生に花は咲くでしょう。今まで、生かされてきた人生を喜びたい。「よくぞ生きて来られたな」が実感です。
★ホームに入っても覚えてくれている人がいる。昨日は、2人の男性が、「トマさん」と言って、自室を訪ねてくれた。2人とも、長崎・中町教会の信徒という。「トマさんの日記(ブログ)、毎日、読んでいますよ」。嬉しいことを言ってくれるじゃないですか。「トマさんのことば、読んだ?」「いや、まだ貰っていない」「じゃあ、差し上げよう」。彼らは、長崎の老舗のカステラを置いて去った。老いても、ホームに入っても、まだ忘れられていない。縁をつづけるのは嬉しいです。
★ホームに入ると、皆さんは、お年寄りばかりです。でも、まだ、まだ、花は開くぞ、と叫びたい。自分で、自分の背中は押せないが、グイと、押してくれる御方がいる。前に進めと愛してくださる御方がいる。老人にとって「大志を抱け」とは何だろう。痩せても枯れても存在自体が、「御方の愛に抱かれている」。愛に目をさませ、ということかも知れない。

2017年9月17日日曜日

敬老の日のお祝い。華々しい式典、祝賀会がある

ホームで、敬老の日の式典と、祝賀会が行なわれた。聖歌から始まって、数々の挨拶、それに88歳(米寿)2人の女性、99歳(白寿)2人の女性にお祝いの花束が贈られる。職員の表彰もあった。勤続20年を迎えた職員2人に、賞状が贈られる。看護師さんと、介護師さんだった。
★介護師さんは、北海道の出身で、長崎まで来て、18歳で、故・中村修道士さんの勧めで、ホームに入った。結婚もして、女の子がいる。「はな」ちゃんのお母さんだった。20年、勤められてご苦労さまです。
★式典の後で、祝賀会があった。入居者の家族も見えている。嬉しかったのは、修道会の仲間(兄弟)が、テーブルを囲んで集ったことです。大曾神父ま。西山神父さま。瀧神父さま。それに隣の修道院の浜田神父さま、橋口修道士さん、高原修道士さん、小長井修道院の山下神父さま、萩原神父さま、などが集って、一緒に食事が出来たことが本当に喜びであり、心が穏やかになりました。長生きできるのは、神さまのお恵みです。イノチは神さまのことです。
★大きな台風が接近で、日曜日の朝のミサには出席できなかった。そのかわりに、午後の4時から、教会で、ミサが行なわれます。そのミサにこれから出かけます。

2017年9月16日土曜日

長年にわたって人生に「つながる」不思議に感動

「愛の花びらは、いつまでも枯れない」。自著、コルベ神父の「身代わりの愛」のサインは、いつも、この言葉を使っている。尚子(ひさこ)さんは、この言葉を書いた色紙を私からもらった。その言葉が好きで、結婚して、女の子が生まれたら、この言葉から名前を付けよう、そう思っていた。願った通りに実現した出来事を、お便りから、2日前の日記に書いた。すると、尚子さんからのコメントが入っていて、「ありがとう。嬉しかったです。いつまでもお元気で」と記されていた。
★突然、ホームに届いた1通の尚子さんの便りは、私に大きな感動を与えた。こんな出来事が、長年にわたって、人生に「つながっている」ことの不思議さ、このような一連のドラマは、めったにない出来事と強く感じている。
★そもそも実話は、この赤ちゃんの写真から始まる。35年前、尚子(ひさこ)さん、7月12日に誕生。10月10日、コルベ神父の列聖式の日に、洗礼を受けた。霊名は「マリア・コルベ」。当時、騎士誌では、コルベ神父の列聖を記念して、コルベの洗礼名を頂いた赤ちゃんの写真を募っていた。騎士誌宛に送られてきたのが、この写真だった。写真には「ママから、ひと言」が付いていた。「結婚6年目に、やっと子供を授けて頂きました。主人がコルベ神父さまを尊敬しており、子供が生まれたら絶対に名前を頂くのだと張り切っていました。女ながらに、コルベ神父さまの列聖日(10月10日)に、めでたく『マリア・コルベ』の霊名を頂きました。写真は1歳の誕生日の時です」
★赤ちゃんの写真は「わが家のコルベちゃん」で、騎士誌に紹介された。(1984年1月号)。掲載した後、写真と、手紙は、ある部分を切り抜いて、聖コルベ館の「アルバム」に保存した。これが良かったんですね。そして誕生から、14年が経過する。
★尚子さんは中学生になっていた。下関市内の3つの教会の中学生たちが10数人、聖コルベ館を訪れた。その中に、初めて長崎へ来た尚子さんが居た。私は大層喜び、尚子さんにアルバムを見せた。「自分の洗礼名の聖人の記念館って、どんな所だろうかと思って来ました。赤ちゃんの写真が残されているのを見て、びっくりしました」。それが記念に撮った、この時の写真です。
★それから、また、何十年経ったであろうか。今の度、ホームに突然に手紙が来て、愛するご主人が居り、愛する5人の子どもたちに恵まれ、女の子には、「愛の花びらは、枯れることはない」の名前を実現しました、と書かれていた。「愛花」「結花」「聖花」です。それには、全くびっくりした次第です。男の子には、父の名前を頂いた。父の名前は、赤ちゃんの写真に添えて、父の文章があり、最後に、「照雄」と書いてあった。男の子は名前を分けて、「照悟」「雄悟」と付けた。
★その後、あの中学生は、どうなったであろうか。電話で尚子さんに聞いた。高校は看護学科を卒業し、長崎の女子大学で保育科を専攻した。「父が病気になって、度々聖母の騎士のルルド参りをしました」。長崎に縁があったわけだ。保育所で働いているとき、会社員のご主人、アシジのフランシスコ俊雄さんと結婚した。
★電話で尚子さんが言う。「6年間も生まれなかったのに、私は6年間に5人を生みました」。上が小6の男の子で、「コルベ」を名付けた。下は、年中組みの女の子だそうです。
★子どもの成長と共に、これからが大変な苦労があろう。苦労があれば、喜びも大きい。母の手で、大家族を温かく包んでください。必ず聖コルベが、マリアの愛で守ってくださる。聖コルベは家族の保護者です。家族が居る父親のために、餓死刑を引き受け、愛の殉教者となった。必ず、あなたの家族をも導いてくださる、と伝えた。
★私にとっては、昨日も、今日も、この家族の実話で、心は嬉しくて、楽しくて、こんな事は2度と起こらないだろう、と心に強い弾みを感じている。

2017年9月15日金曜日

朝からのニュースで、北朝鮮が核弾頭を打ち上げた

母と、私の小学生の頃の写真です。
★今朝のテレビは全局、北朝鮮が核弾頭を打ち上げた、2度目、北海道上空を通過して、太平洋に距離を伸ばして落下した。「逃げてください」「アタマを隠してください」と、そればかりの報道だった。午後から、テレビは見ていない。
★北朝鮮の日本海に面した最も北の町に、雄基(ゆうき)がある。昭和の初め、この町には2千3百人の日本人、9千人の中国人、そして1万1千人の朝鮮人が住んでいた。両親と、伯父、叔父夫妻は出稼ぎで、私はこの町で生まれた。忘れもしない、オンドル部屋の、ツルツルした紙の感触と独特の匂いを、今でも覚えている。ひょっとすると、オンドルで私は生まれたのかも知れない。
★両親は、伯父、叔父たちと、精肉店を商売にしていた。牛や鶏を飼育するのは朝鮮人で、彼らとは深い付き合いがあり、幼児の頃の私は、白い朝鮮服を着た男たちの膝の上に抱かれて、長いヒゲが生えた男たちの愛撫で育った感触が、今は懐かしい。朝鮮の人たちは、私たち庶民にとっては、みな、良い人たちばかりで、親しみを感じた。だから朝からの報道で、北朝鮮が核弾頭を打ち上げたのを見て、悲しくてならない。「少年の頃の良い思い出があるのに」。確かに、育つに従って、日本人が、よい場所に住み、朝鮮の人たちは裏手に追いやられている現実も知った。
★私が、4歳のとき、「満州国」が誕生した。雄基から、ひと山越えた港に、人口僅かに、千3百人、うち日本人は百3十人の小さな村があった。満州国が成立すると、一気に、この村が日本人の手によって開拓され、5、6万人の日本人が住む都市になった。私と母は、伯父、叔父たちと別居して、その都市に移り住んで、商売をつづけた。小1から、中1まで、この町、羅津(らしん)で過ごすようになる。13歳のときに、長崎へ帰ってきた。
★北朝鮮が爆弾を打ち上げる報道を見るたびに、複雑な気持ちになる。私にとっては故郷であり、子ども時代の思い出も沢山ある。冬のスケート、春のスズラン畑、川遊び、土曜、日曜は、伯父・叔父さんたちの町に毎週出かけた乗り合いバスの楽しみ、など、また、朝鮮人のカトリック信徒や司祭も居り、教会も通って祈った。釘や鉄類を集めておくと、朝鮮アメを背負って来て、交換してくれる老人も居て、懐かしい。
★それらを考えて、今日を過ごした。日本の上空を核弾頭が飛んで行く。一体、これから、どうなるのだろう。長崎で原爆を経験しているから、なおさら恐ろしい。日本の安全は守られるのか。私には、まだ、まだ、日本人は核爆弾に無関心な気がしてならない。

2017年9月14日木曜日

1通の手紙に感動、愛の花びら名に残り、枯れない

山口県下関市の尚子さんから、お手紙と、贈り物の「明太子」が届いた。尚子さんのご家族の写真も同封されていた。両親に、子どもが5人居る。
★手紙によると、「35年前に、聖母の騎士の『わが家のコルベちゃん』に載せていただき、20年前には、騎士誌に、家族のことを『ドキュメント・キリスト信者』で取り上げて頂きました。ふとしたことから、20年前の記事を読み返すうちに小崎さんのことを思い出し、ネットで検索してお便りを書きました」
★「小崎さんから頂いた色紙の言葉に、『愛の花びらは、いつまでも枯れない』があり、気に入っていて、結婚して女の子が生まれたら、言葉から名前を付けようと決めていました。長女は、「愛花(あいか)」、次女は、「結花(ゆいか)」、愛で結ばれた花たちだったのですが、神さまから、もう、ひとり女の子のプレゼントをいただいたので、三女は、「聖花(せいか)」と名付け、『愛で結ばれた聖なる花』になりました」「男の子は父の名前を1字づつもらい「照悟(しょうご)」「雄悟(ゆうご)と名付けました」
★この手紙を読んだとき、私は長い年月があるのに、秘めた、深い「つながり」があるのを感じた。ある時期、私は騎士誌の編集長を努めていた。コルベ神父が聖人になった年、尚子さんは生まれた。洗礼が10月10日で、コルベ神父の列聖式の日であった。尚子さんは「マリア・コルベ」の洗礼名を戴いた。騎士誌では、聖コルベの列聖にちなんで、「わが家のコルベちゃん」の題で、写真とコメントを広く募集していた。70通ほどが集ったが、その中に、尚子さんの赤ちゃん姿とコメントもあった。写真は騎士誌にも載せて、写真と手紙は、分厚いアルバムに納めて残している。尚子さんが中学生のとき、聖コルベ館を訪ねて、私に出会い、自分の赤ちゃんの写真を見せてもらって、ひじょうに喜んだ日もあった。その後、下関の自宅にもお世話になって、ご家族に会って、記事に書いている。
★その尚子さんから突然にも連絡があったので、私はびっくりし、頭の中は少々混乱した。電話で聖母の騎士に連絡し、ドキュメントの記事や、アルバムの写真、コメントをファックスで送ってもらった。そうした今日、一日の行動のなかで、人生って、年月が経っても、「つながるもの」があるのを、つくづく実感し、本当に、感動と恵みの日だったと、感謝し、尚子さんの家族のために祈った。

2017年9月13日水曜日

念仏唱えて、ダンナの名を呼んで、守ってください

「たまには牛丼も、いいね」。今日の昼食が牛丼でした。サジも付いているから食べやすい。庶民の味だよ。喜んで食べた。
★メニューは、牛丼に、レタスのレモン・サラダ、味噌汁、つけもの、抹茶寒入り・あんみつ、でした。あんみつも、サジで食べた。おいしかった。
★食事前に、食堂近くの長いソファーに何人も座っている間に、こんな話を聞いた。何年か前に、夫婦で連れ添って、ホームに入ってきた。部屋は、2つもらえる。真ん中の戸板の壁を外すようになっている。やがて年月が経ち、段々と、歳老いて、ご主人が亡くなった。98歳だった。名前は、テルオ(輝夫)さんと言った。残された奥さんは、耳が遠かった。「何んて、や?」と、いつも確かめる。少々の声では理解できない。耳元で大きな声を出さないと、通じなかった。
★ご主人が亡くなって、戸板がはめられ、部屋が2つに分けられた。そこへ隣に、同じテルオ(照男)という男性が入居してきた。
★奥さんは、毎朝、大きな声で、「テルオ(輝夫)、今日も、よろしく、守って、な。頼むバイ」と、大きな声で祈っている。その声が、厚味のある戸板ではあるが、隣に聞こえてくるそうだ。そこで、隣の男性・照男さんは、いつも、その都度、「ハァーイ」と返事をしてやる。毎回のことだそうだ。すると、耳の遠い奥さんは安心したのか、いつも、鳴らしている。「チィーン」

2017年9月12日火曜日

マリアの御名の記念日。コルベ師との不思議なご縁

今日は、教会で、マリアの御(み)名の記念日を祈りました。洗礼名に、「マリア」を頂いている女性も多いでしょう。この日は、16世紀の初頭にスペインで信心が広まりました。
★「マリア」は、コルベ神父が、とても好きだった御名です。ポーランドに、ニエポカラヌフ修道院を創立したとき、200人ほどの修道士が居たが、全体の会議で、「これからは出会う毎に、お互いにマリアの御名を挨拶に使おう」と決めました。その後、長崎の大浦に仮の修道院を開いた時も、続けて、修道士たちは、お互いに出会う毎に、「マリア」「マリア」と御名を呼び合いました。「マ~リア」と、言い方にリズムがあった。優しく、本当に、心が温まる挨拶でした。最近は呼び合わなくなったのは残念です。
★大浦時代の仮の修道院時代は、苦労の連続でしたが、日本人との交友関係も出来ました。それでも挨拶は「マリア」です。ある時、メソジストの牧師で、教師でもあった八巻先生が、コルベ神父を訪ねてきた。八巻先生は、アシジの聖フランシスコの研究者です。それでフランシスコ会のコルベ神父に興味を持って、度々訪ねては、議論を交わした。八巻先生はイタリア語を話したので、コルベ神父との会話は出来たようです。現在の聖母の騎士の土地を購入する際も、八巻先生は通訳として現場で交渉に当たっています。後日、先生と家族は、カトリックの洗礼を受けました。
★長々と大浦時代の出来事を書きましたが、それには訳があります。「トマさんのことば」の申し込みのハガキは8月10日が最後で、140人のハガキが届きました。それ以来、もう終わったかに思えた。ところが今日、マリアの御名の日に、大浦時代にお世話になった、あの八巻先生のお孫さんから、ハガキが届いたのです。141枚目です。「トマさんのことば、まだ送っていただけるようでしたら、お願いします」。ハガキを頂いて、大変嬉しく感じました。
★八巻先生については沢山の思い出があります。姫路の自宅へ療養中の先生を訪ねました。85歳の先生は、ベッドに横になって居られたが、テレビは一切見ないで、フランス語とドイツ語の本を読み、スペイン語を習得中だといわれた。最後まで研究者でした。
★八巻先生は言われた。「コルベ神父さまは、よく『ベリタス・ウーナ』(真理は、一つ)だよ、と言っておられた。コルベ神父に出会わなかったら、聖フランシスコは単なる研究に終わっていたね」
★八巻先生のお孫さんには、早速、「トマさんのことば」をお送りしました。コルベ神父の写真もあるので、きっと喜ばれてくださるでしょう。

2017年9月11日月曜日

朝、教会で、静かな時に、何やら思いが湧いてくる

ホームに隣接する湯江教会の祭壇の生け花です。ひまわりは、チカラある花です。「リン」とした姿で咲いている。このパワーに、惚れるなァ、と思いデジカメを向けた。
★今朝も、5時15分、予定通りに教会に入る。もう2人の車椅子の男性が席についている。「早いなァ」。感心しますよ。彼らに挨拶して、祭壇の近くの席に着く。今日のミサのページを一見し、教会の祈り本から「読書」の詩篇を黙読する。終わると共同で唱える「朝の祈り」が始まるまで、しばらくの時がある。その時が私にとって、こころが静まり、思いが湧いてくるというか、何か思いが浮かんで気そうな気持ちになるのです。神に向かう時かも知れない。
★今朝、思ったのは、「今日の言葉は、何だろう?」です。今日を生きるために、何かの言葉を見つければ幸いだ。例えば「朝、起きられること」を考えた。普通に、起きるのではなく、起き「られる」恵みです。そこに普通でない、喜びと恵みを感じる。起き「られる」自分は幸せです。そう思います。元気な時は、起きて当然だった。今は違う。
★他に、「今日の言葉は、有るだろうか」。考えてみるが、思いつかない。「ありがとう」もあり、「おはよう」もある。一日の内で、言ったり、思ったり、「今日のことば」を、意識して、覚えて、注目して生きるのは意義のあることです。大切な感じがした。でも残念ながら、思いついても、それを膨(ふく)らませる能力がない。だから知り切れトンボになってしまいます。こうして今日も始まった。
★午後からのロザリオを終わって、今、パソコンに向かっているが、今日は何事も起こらず、入浴しただけです。一日、一日、生きて、同じことを繰り返す毎日です。共同で「朝の祈り」の時、「一日の仕事を神にささげます」「今日の出来事のうちに神の業をみる」「隣人を裁かないように」「思い、言葉、行いを通して、神の慈しみを現わす」など祈りを唱えました。このホームがキリスト教の倫理観で運営されるのを望みます。家族的な、愛のある、争いのない、老いても幸せなホームであるのを祈ります。
★「ブログ、読んでいますよ」と声をかける職員さんも、1人、2人と増えてきた。最近は瀧神父さまが入所して、スマホが読めるようになられた。食卓は隣同士だから、会話がはずむ。「ブログ、読んでいるよ。いつの時間に書いているの?」と、ブログは遠い人ばかりでなく、隣の人も読んでくれるようになった。嬉しいです。ブログを書くのは、苦労もあるが、自分のために書き続けようと思います。ボケの防止にもなるでしょう。これから、トマは、どうなるのかなァ、それが問題だよ。

2017年9月10日日曜日

悩みを語ってください。傾聴します。そうだ、ね

傾聴ボランチアの女性が、午前中に来る。ただ、こちらの話を聴いてくれる。何を語れば良いのか、迷う。こちらが、えんえんと、シャベルだけ。話すだけ。約40分ぐらい。覚悟の上で女性が来るのを待っていた。前に撮った写真だが、表情は全く変わらない。3月とあるから、7ケ月になる。
★女性は免許を持たないので、バスで、島原半島の小浜から、諫早で又バスに乗り換えて、わざわざ来てくださる。聴いてくださる。ありがたいことです。そういう奉仕に徹する気持ちがあるのを尊敬する。バス道の途中に、千々石(ちじわ)の海沿いの町がある。今日の新聞に載っていた、千々石(ちじわ)ミゲルの墓を掘りこした話題を先に語った。聴くだけの奉仕だから、話題は盛り上らなかった。
★さて、悩み事って、何があるのか。何を語ればいいのか。「困るなァ」とも思う。でも、定期的に傍に来てくれるのは、嬉しい。2人で語り合えば、必ず文句が出たり、批判したり、自分を良い者にする。だが傾聴は、聴くだけだから、こちらの舞台となる。自分の悩み事を述べるのだ。語っているうちに、なぜか、心の整理が出来て、何やら、すっきりする。だから傾聴とは、意味がある。
★訴えたいのは、足の痛みであろう。歩くのが、億劫(おくうう)になった。これから先、どうなるのか、それが心配です。昨日も病院を2つ回って、お見舞いをしたが、病院の長い廊下を歩くのが精一杯、重荷だった。これは、どうしようも、ない。ホームに居ると、この先どうなるのか。先達たちが身をもって教えてくれる。小耳に挟んだ言葉に、「75歳のときにホームに入った。20年になります。入った頃は、ホームにも畑があって、今は駐車場になっている。その畑で収穫作業を楽しんだものです」。元気だった女性も、今は押し車で、やっと歩いている。
★老いゆれば、イノチのことも考える。長く生きたい。誰でも、気持ちは一緒。それなのに、若くして、中学生で、イジメが原因で自殺するなんて、本当に悲しい。心が痛む。これから素晴らしい人生が開けるのに、もったいない。狭い世界を見ないで、大きな世界に目を向けて欲しいと思う。そういう教育をして欲しいと思う。
★わが悩み事を本心から語れたか、どうか。時折、良いセリフも出るが、思いつくまま語るので、つながらない。それでも、傾聴ボランチアさん、また来てください。

2017年9月9日土曜日

救急車で運ばれた修道士を見舞う。回復の兆しあり

道路を走っていて、農家で見つけた無人の野菜販売所です。高原修道士が、イチジクとナスビを買いました。
実は、諫早の病院へ入院中のヨハネ村山修道士さんを見舞いに行った帰りです。
★高原修道士が運転で、修道院の浜田神父さまも同行して、3人で午後から出かけた。ヨハネ村山修道士さんは、肺炎をおこして、救急車で運ばれたのです。もう1週間は過ぎたでしょうか。最初は鼻にマスクをして、病状が危ぶまれました。ヨハネ村山修道士さんは目が不自由なので、ベッドに居ても大変のようです。しかし静かに落ち着いて、耐えておられました。
★鼻マスクは既に取れていて、見舞った者たちも安心しました。写真も撮りましたが、ここには載せません。早く癒されるようにお祈りください。ヨハネ村山修道士さんと握手をして、「がんばって、ね」と言ったとき、彼が応えた。「賛美と、感謝」。ヨハネ村山修道士さんの、温かい、その言葉のヒビキは、今も心に残っています。

2017年9月8日金曜日

聖マリアの誕生の祝日。マリアさまと共に生きる祈り

朝、ミサのとき、「今日は、聖マリアの誕生日です。教会で、誕生日をお祝いするのは、マリアさまと、洗礼者聖ヨハネだけです。マリアさまによって、救い主イエスさまがお生まれになった。愛と感謝をもって祈りましょう」という意味の言葉を述べられた。
★マリアさまには親しみがある。愛のお母さま。コルベ神父は、マリアさまで生きていた。長崎でも、修道士たちの話しを聞くと、「マリアさま」を如何に大事に信仰生活の中心にしていたか、何度も何度も、そんな話を聞いて過ごしてきた。
★コルベ神父は、朝、修道士たちに、短い、マリアさまの話をしていた。「マリアさまを愛しなさい。マリアさまに心も体も、全てを捧げなさい。マリアさまのために全てを奉献しなさい。マリアさまが、イエスさまのことを一番よく知っておられます。近いところに居られます。マリアさまを通して、イエスさまへ行くのが最も近道です」
★北朝鮮が、いま核弾頭を発射させて、毎日、話題になっている。その北朝鮮で生まれて、育って、カトリックの教えを守っていた少年の頃の私の心情は複雑だった。学友の皆んなは「仏さま」「何、何宗」なのに、自分だけがカトリック「教」だった。宗と、教にこだわった。しかしマリアさまの美しい聖絵があった。マリアさまを配ると、なぜか、学友たちは、おとなしく、好んで、聖絵マリアさまを受け取ってくれた。
★長崎へ帰って、聖母の騎士へ入って、心を清めるルルドもあったし、特にマリアさまに就いては信仰をもって教えられた。「イエズス、マリア、ヨゼフ」と、よく唱えた時期もあった。修道院では、出会うごとに、「マリア」と挨拶をした。こちらが「マリア」と優しく言えば、「マリア」と温かく呼び返した。身体に、そういう「マリア」「マリア」が一杯ついているのを感じる。
★マリアさまは、これからの私の人生をも、愛と優しさとお恵みで見守ってくださるだろうか。夕食も普通に食べて、数時間後、ベッドの上で、「イエズス、マリア、ヨゼフ」と呼んで、倒れて死去した修道士がいた。「さすが、長崎出身だ」と、誰かが言ったと聞いた。

2017年9月7日木曜日

鳥取のみどりさんからナシの贈り物。ラクダの思い出

鳥取のみどりさんから、ナシが届いた。二十世紀のナシです。ホームに入って3年を過ぎるのに、忘れないで送ってくださることに感謝する。夜に、お礼の電話をかけた。
★私も、色々の場所を旅行したが、鳥取の旅が最後になった。みどりさんは、私がいつ鳥取に来て、何日に帰ったか、その日を携帯に入力していると言った。愛情が伝わってきて、うれしい限りです。
★3年が経って人生がこんなに変わるとは、想像もできない。3年を数えれば、もう生活は落ち着いた。からだの痛みがあっても、あわてない。血液検査の数値も気にならない。今日を生かしてもらっている気持ちです。それだけで、よい。自分が生まれ、生きてきた道は、この道であった。振り返っても、悔いはない。ただ、いつまで自分の足で歩けるか。足の不安は限界まできている。
★人のために尽くすことがない。人を助けること、奉仕することがない。そのことが最も、さびしい。野々村哲さん(トマさんのことば・編集者)が、時々、聖コルベ館の資料室へ行って、私が修道士のときに写したフイルム帳(56冊)をメモリーカードに入力してくれている。修道士たちの生活の数々、良い写真もあるという。また、何かが生まれるか、楽しみにしている。夢がなければ、一日の生活がわびしい。
★鳥取では、みどりさんにお世話になりました。鳥取といえば、鳥取の砂丘でしょう。砂丘にも行きました。砂丘のラクダにも乗った。人生、最後に乗った乗り物は、ラクダと言える。実際は、ラクダの揺れは、そう楽なものではなかった。外から見るより、しんどかった。世の中は、そういうものです。見た目のように、行かないのが、ジンセイです。

2017年9月6日水曜日

ポーランド御みやげ。ピクルスか?あの少女の成長


去年の5月に、ポーランドから1家族がホームの私の所に訪ねて来た。主人は日本人。奥さんはポーランド人。5歳の女の子の名前は、百合香ちゃんだった。彼は、写真映像作家。ポーランドに在住。奥さんはイヴォナさんといった。
★先日、ポーランドから映画班の一行が私を取材に来たが、その案内役というか、お世話役と言うか、それが彼、山平茂美さんだった。1年前に出会ったことが懐かしい。あのとき、「ポーランドの赤カブのスープがおいしい」と奥さんに語ると、手軽な紙袋に入った赤カブのスープや、その他のスープ、お菓子などを8月頃に送ってくれた。
★今度は、取材班に同行した山平さんから、重たい、紙袋に入ったお土産をもらった。大事に包まれており、大瓶に入った一見、「ピクルス」らしきものが入っていた。フタが空かない。必死の思いで開けると、キュウリに似た、細長、緑のものが、灰色の液に浮いている。ポーランドから、わざわざ持参されたものだった。「ピクルス、かな?」と、一口食べてみると、酸っぱい味がしない。
★ピクルスといえば、ポーランド人修道士たちが居た修道院では、好評の食品だった。キュウリを酢づけにしたもので、サッパリして、変わった味の「つけもの」だった。日本の修道士たちも好んで食べていた。
★修道院では、ポーランド人たちは、このピクルスと、牛乳を腐食させたヨーグルトを好んで食べた。通常、食事のときは、沈黙で食べる。ヨーグルトが出ると、院長の機嫌が良くなり、沈黙が解かれて、賑やかになるのだった。思い出もある。日本の修道士もピクルスを好んで、日本人の炊事係りも時折、作って食べさせた。
★いただいたお土産の瓶入りの「もの」は、キュウリではなく、似てはいるが、味が違っていた。酸っぱくない。ポーランドで、何と呼ばれる食品かは分からない。
★娘の「百合香」ちゃんの写真を山平さんが下さった。可愛い、少し成長したポーランド少女のほほえましい姿があり、裏には、絵があり、DLA OJCA OZAKI YURINKAと書いてあった。

2017年9月5日火曜日

目は不自由でも、神社の階段、上り下り挑戦。負けぬ

「人生に、何が必要か。それは希望と、勇気でしょう」
★トマちゃんが、修道士たちの所へ戻ってきた。修道院の一角、家を借りて、改築して、住むようになって、もう、かなり経っている。両目が不自由なのに、高級なカメラを使って、美しい自然界の風景を撮る。最近、ハマッテいると聞こえたのが、神社の階段を上り下りする健康づくりである。足を鍛えるために、頑張る。「このヘンの神社は階段が短いので、週に1回は長崎の諏訪神社の階段にいどみ、10回、上り下りしている」と聞いた。
★ホームの人は自分も含めて、歩いたり、階段の上り下りに苦労しているのに、足を鍛えるために、階段だけを求めて、体力づくりの者が近くに居るとは、黙ってはおれない。1度詳しく尋ねてみようと彼に聞いた。トマちゃんの自慢に迫る。
★戦争が終わって10年程経った頃、トマちゃんは養護施設に居た。私もその頃、施設の修道院で療養していた。「トマちゃん、トマちゃん」と可愛がられた小1の頃の彼を良く知っている。他の少年たちからイジメられ、「ハロー、ハロー」と、ひやかされる。トマちゃんは「ハローじゃ、ないよ」と、抵抗しながら、ビョン、ピヨンと飛び跳ねて逃げた。目が不自由なのに、ちゅうちょしない軽快な足裁きを不思議に思った。
★27歳のとき、施設を出て、盲学校の寮に住み込み、マッサージ術を覚え、免許を取得した。群馬県の温泉町で長年働いた。いつの頃からか、足を鍛えるために、神社の階段の上り下りを始めた。近くに365段の神社がある。朝、夕方、2回づつ挑戦をつづけた。高崎観音山には、518段がある。8分で往復したよ。しかも2回も実施した。
★もちろん仕事は熱心で、同業者の何倍も、マジメに稼いだ。結婚もした。奥さんは早く亡くなった。10年ほど前に、仕事を切り上げて、趣味に生きていたが、幼い頃、育てられた修道士さんが懐かしく、湯江の修道士さんを頼って戻ってきた。湯江の神社は100段しかない。それでは、つまらないと週に、2、3回は長崎の諏訪神社へ行って、200段を、10回挑戦している。
★それを聞いて、感心するやら、驚くやら、もう何も言えません。「何のために、そんなに、こだわるの?」。目的は自分の健康を保つためで、人は足からダメになると彼は言う。それは本当です。私の近くに、こんな、こだわり人間が居たとは、もう何も言えません。脱帽です。彼は食事は、2度しか食べない。1度の時もある。「それでも病気にならない」。座右の銘も、何も無い。ただ神社の階段に挑戦する。
★ホームの墓地に、奥さんと自分の墓を作った。「永遠の絆」と大きく書いてください、と頼まれる。トマちゃん、まだ、まだ大丈夫だよ、と思いながらも、希望の字を書いてあげた。
★幼児から、目の不自由さという苦境にもめげず、人生を明るく希望とマジメさを基本に、70年生き抜いたトマちゃんは、また、元の修道士たちの処へ戻ってきた。そのトマちゃんの生き方に感心する他はない。日曜日には、湯江教会のミサで、祈る姿を見る。

2017年9月4日月曜日

ポーランド映画の取材。ゼノ修道士の「限りなき愛」

ポーランドで、ゼノ修道士の映画を作るという。取材班の一行がやってきた。題は「限りなき愛」。ドキュメント映画で、30分。ポーランド外務省宣伝の映画になる。午後から、2時間ほど、ゼノさんとの出会いや、思い出を語った。ゼノさんのような奇才は、もう出ないだろう。無欲で、貧しい人に対する兄弟愛で生涯を貫いた。
★15歳、母に連れられて、聖母の騎士のルルドに参詣する。度々、ルルドに来ていた。ルルドを掃除することもあった。ゼノさんは受付に居たので、当然、会っている。ゼノさんは、コルベ神父の時代に、騎士誌を配布するために、長崎市内を修道服姿で周っていた。長崎の人によく知られていた。日本語がヘタなところが愛嬌があった。ブラザーゼノは、ポーランドでも名の通った人物だそうだ。
★17歳。原爆の後、雨にぬれて、聖母の騎士の扉の捕り手を引いた。修道院の奥で、「チャラン、チャラン」と鐘がなる。ヒゲが美しいゼノ修道士が顔を見せる。中に入れてもらった所で、ゼノさんが聞いた。「お姉さん、どうしました?」。母が若かったので、お姉さんと間違えた。「原爆で、死にました」。ゼノさんの青い目から涙がこぼれた。
★ゼノさんを知っているとはいえ、ポーランドから私の処にも取材に来るなんて、光栄な出来事だ。修道服に着替えて、応じた。思い出してみると、テレビには、もう何度も映っている。原爆の体験もあったし、日本26聖人の映画もあった。「修道士の半生・生かされて」(48分)もあった。生き方が、一本道だったからであろう。
★お世話をしてくれたのは、ポーランド在住の写真家、山平茂美さんだった。一緒に同行している。明日は長崎の聖コルベ館を取材する。ゼノさんの遺品は沢山残っている。

2017年9月3日日曜日

あなたの人生、すばらしい。喜びも、涙も、心の宝

女性職員さんが、大きな横長の紙を持ってきて、「両脇に、何か、字を書いてください」と頼んだ。ホームの皆さんが見える場所に張りたいという。何を書いたらいいのか、ちょっと考えました。暗い言葉は望まない。やっぱり前向きで、明るい言葉が欲しい。
★ホームのいえば、入居を、なぜか好まれない。人は老いには勝てないのは事実です。ホームで生活する車椅子の人や、押し車の人を見ると、本当に、痛みや不自由に耐えて、懸命に生きておられる。その皆さんにも、かつては元気で愉快で、大きく笑った時代もあった。その大切な思い出は、その人の宝箱だと思います。
★自分がホームに入った時、過去との間に、断層が出来たのを感じた。自分の人生、これで良かったのか。過去は遠くに去ってしまったのか。いや、ホームの生活も自分の人生なのだ。頼って来てくれる人が居るではないか。そう思い直した。先日のテレビだって取材に来てくれた。どう生きて来たのか、考えるときに、否定はしたくない。だから次のように書いた。「あなたの人生、すばらしい。喜びも、涙も、こころの宝」。それに、もう1つ。「仏さまも、神さまも、見守って、くださる」
★先日のテレビが帰って、放送日を暦に書き込もうとして、気がついた。10月19日は、25歳の頃、結核を病み苦しんでいた時、看護師をして世話をしてくれて、命を助けてくれたシスターの命日に当たっていた。しかも50週年忌の日です。私には、これは不思議な取り合わせと思った。まだ、まだ、シスターの思いが通じているから、こんな一致が起こるのでしょう。だから生きる者も、苦しみがあっても、見守られている。それを感じることが出来れば、嬉しいじゃないですか。不思議な縁だと思いませんか。

2017年9月2日土曜日

誕生会。1つ歳を重ねて、おめでとう。長生きしてね


毎月、最初の土曜日。昼食は誕生会。9月に生まれた人を一緒にして、お祝いします。9人が居りました。これが、また楽しんだな。
★毎月、同じことなんだが、職員たちの出し物も期待している。今月は、サラ踊りでした。食事が終われば、歌が出る。音楽なしで、何人かが自慢の歌を披露して、お祝いして、喜ばれる。「さあ、歌へ」とマイクを差し出されても、ね。ちゅうちょして、遠慮しますよ。老人になれば、声も出ないし、歌詞も忘れて出て来ない。それなりの理由があるわけです。ボクなんか、青年、壮年の愉快な時代に、覚えたといえば、ラテン語の賛美歌だった。演歌や、流行歌に、縁がなかった。歌っていたら、叱られた。歌え、と言われてもムリだよ。
★ところが今月は目立つ出来事が起こった。西山神父さまが、「九段の母」を歌う。それに負けじと、瀧神父さまが、「岸壁の母」を歌う。トマは、もう、びっくりした。九段の母は、戦中の歌。岸壁の母は、戦後、帰国する息子の兵隊を待ちわびる歌。妙な取り合わせで、皆さんは喜んだ。山内園長神父さまと、瀧神父さま。お世話になっています。メニューは、お赤飯、お刺身、ポークソテー、さっぱり煮、アボカド・サラダ、白饅頭、リンゴ・ジュースでした。職員の皆さん、お世話様でした。ありがとう。誕生会をお祝いした人びとも、これからも元気で、明るく、長生きしてください。

2017年9月1日金曜日

NHK長崎テレビが集材。「岳踊り」。放送が楽しみ

約束の時間は、10時だった。修道服に着替えて、受付・玄関で待っていた。定刻より早く、カメラ・マンが、庭から園を撮影している。彼ら3人は、定刻に玄関に入ってきた。NHK長崎テレビの女性デェレクターは1度ホームの自室に来たことがあるから、既に顔見知りになっている。
★早速、インタヴューが始まった。話題は「岳踊り」。この記事を、よくぞ聖母の騎士のネットから見つけだしたものだ。昨日のブログ(日記)で、内容は、まとめていたので話しやすい。先ずは、45年ぶりに自分が撮った写真を見た感動を語る。棒に紅白の布が巻いてあるので、これは喜びであり、希望の踊りである、と感じを伝えた。太鼓を叩き、2人の女性が歌っているが、内容は分からない。するとデェレクターが。歌はテープに録音されており、信徒たちは踊りも覚えていると教えてくれた。再開に希望がある。あの時、私に説明してくださった男性信徒は59歳と記事に歳が書いてある。45年を足すと、相当の数字になるから、もう、ご健在ではないだろう。
★その男性信徒から受け継いだ信徒は、踊りの由来を聞いていないと、女性デェレクターが言う。そこで、「記事の、この場所を、読んで下さい」と、取材の核心を頼まれる。「岳にも牢屋があり、36人衆が、刀とムチ」の責め苦を受けた。それらを払い退けるために始まった踊りです」
★インタヴィユーを受けながら、メガネの奥の目から涙は出る、鼻水は出る、困ったものだ。左手をズボンのポケットへ入れて、落ちる鼻水を拭こうと思い、ポケットに手を突っ込んだが、カメラに写ると、ヤバイと、やめて、そのまま最後まで通した。89にもなると、言葉も旨く出ない。恥ずかしいよ。それでも、わざわざ取材に来てくれるのだから、ありがたい。40分ほどで取材は終わった。「小崎さんに、他にもヒントをいただきたい」と言い残して、取材班は帰った。
★10月19日、木曜日、午後6時15分からの長崎版で、放送される。コメント程度の出番だと思う。
★今日は、9月1日。昼食の時から、食堂の席替えがあった。車椅子の人、押し車の人が優先的に先に席を与えられて、残りの部分に自由に皆さんが入る。トマの右は、入江さん。左は、瀧神父さまになった。
★ご高齢のヨハネ村山修道士が体調を崩して、救急車で、運ばれた。栄養士さんが教えてくれたので、救急車に乗せられる村山修道士を祈りながら見送った。