2020年6月30日火曜日

ツライことが起こっても、いいことも付いてくる。希望を持とう

令和2年の正月を迎えた時、ホームでは、全く「コロナの苦難」を予想しなかった。
★3月1日が誕生日です。早々と、1月には、長崎から電話があり、お祝いの食事処を予約して、10人程の人数を募る話がありました。そこへ急に、コロナの拡大が報じられる。早々と、予約をキャンセルしたのは、幸いでした。誕生日どころでは、なくなった。
★いまや、社会全体が、いや世界が、大きな苦難に巻き込まれている。生活様式も変わった。亡くなった人たちの冥福を祈り、感染症に立ち向かう人たちの勇気ある行動に敬服します。心配です。この苦難を、どう思っていいか、わかりません。
★ホームの生活でも、お客さんも来ない。外出もできない。静かにしている日々がつづいています。しかし人生には「負」もあれば、「福」もあると考えたい。コロナの半年だったが、いい事も付いてくる。そう、思える半年でした。令和2年の後半は、きっと良い事があるようにと、希望を持って、ホームで暮らしたいと思います。じょじょに身体能力は衰えていくが、生きている限り、感謝のなかで過ごしたいです。
★あしたは、早朝から、高原修道士さんの運転・介護で、長崎・ヨゼフ・クリニックへ定期の診察へ出かけます。久しぶりの診察です。帰りは、遅くなるでしょう。

2020年6月29日月曜日

聖ペトロのお祝い。瀧神父さんの修道名の日。みんなで喜び合った

聖ペトロ・聖パウロ使徒の祭日です。ペトロ瀧憲志(たき・けんし)神父さんの修道名のお祝い日です。
★瀧神父さん、今朝は、共同ミサの司式を努めた。福音の後で、短い話しがあった。「初代のキリスト者は、迫害のとき、地下に隠れたが、ミサも『ゆるしの秘跡』もあった。キリシタンは長い間、迫害されたが、司祭は居ない、ミサも『ゆるしの秘跡』もなかった。心痛みながら、痛悔して信仰をつづけた。いまの私たちは、自己を宣伝するのでなく、イエスの福音を伝え、神のみ旨を生きる、それを願いましょう」。大きな声で、チカラ強いお説教でした。
★瀧憲志神父さんは、89歳。ホームに入って、3年が過ぎた。健康は良好、お元気です。ホームの職員や皆さんのため、精神的なチカラになっている。知識が豊富で、何事にも精通しておられる。頼もしい神父さんです。
★タブレット、スマホから、パパさまのお話や、世の中の情報を察知して、食卓で教えてくれる。歳には負けない。「こういう神父さんが、お傍に居られるのは、ほんに、ヨカですバイ」。いつまでも、長生きしてください。
★瀧神父さんのお祝いを、身近な司祭4人と修道士3人で行なった。楽しい夕食でした。お互いに、若い頃から知っているし、充分に活躍した人たちばかりなので、話題も豊富です。ホームから離れて、レストランで食事をするのも、いいですね。食事を通して、こころも結ばれる。奉献生活を再確認する。ホームでは食べられない料理をえらんだよ。ごめんね、たまには、いいでしょう。お酒は、誰も飲まない。ペトロ瀧憲志神父さんの健康を祈ります。

2020年6月28日日曜日

女性教師がシスターになって、60年ぶりに訪ねて来た。懐かしい

日曜日。午前中に、シスターが訪ねてきた。60年ぶりの再会です。お互い、歳をとりましたね。
★山の施設と修道院。施設には、140人の男の子がいた。修道院で、トマは病気の療養にあたっていた。病気が回復すると、じょじょに動き始める。施設の中に、小・中学校があった。トマも、算数や理科を教えるようになる。
★その時、大学を終えたばかりの女性が、教師となって小学校に勤めた。その女性教師こそ、このシスターだった。「当時、信仰の地、長崎に憧れ、2年間ほど、教えた」という。その後、すぐシスターの道に進んだ。あれから60年だよ。お互い、元気で良かったね。長生きすれば、こういう喜びもある。県内の都市に、この春、転任してきたという。これから時々会えるかも知れない。
★むかしの思い出を語り合うのは、楽しいね。あの頃は、貧しかった。食べるのが精いっぱいの時代だった。少年たちも、家や両親から離れて、寂しい思いで生きていた。それは、たくましい生き方だった。
★小さな事件も起こったし、逃亡者も出た。指導員や、先生たちの苦労も多かった。今となっては、懐かしい思い出である。それらの事を語りながら、喜びも感じた。
★人間は、いろんな人の恩を受けながら、育つのだろう。1人、1人が、大切な人生を生きている。あの頃の、古い写真を見る。下駄をはいているトマ。少年たちの背中。太陽の光が、サンサンと包んでいる。時代は変わろうとも、愛情の喜びや、達成感、自分で生きるチカラの尊さは変わらない。
★きょうは、シスターに会えて、こころ温かい気持ちになりました。シスターの優しさ、愛が伝わってくる。

2020年6月27日土曜日

新聞トップに「遠藤周作」未発表の原稿見つかる。トマにも思い出

今朝の「長崎新聞」に、1面記事で、遠藤周作の未発表の原稿、全文、104枚の原稿が見つかった、と報じている。それも、外海の遠藤文学館で発見された。何度も、行った事がある地元の文学館だ。父親の生家のすぐ近くにある。
★文学館では、トマも、遠藤さんとの出会いを語ったこともある。遠藤さんといえば、有名な作家の先生だが、トマには近い存在のお方に見える。
★もう40年前になるか。遠藤さんを案内して、長崎の大浦天主堂周辺をまわった。また小長井の施設「みさかえの園」や、修道女会にもお連れした。
★その時の写真が、これです。ミロハナ神父さんと、トマ。当時は、身体も、すっきりして、若いなァ。遠藤さんは優しい人だった。トマは、長崎の空港に、遠藤さんをお迎えに行ったが、「作家の先生だから、エライなァ」と思っていたら、トマを見るなり、「よろしくお願いします」と深くアタマを下げられたのには、びっくりした。
★案内が縁で、東京で、遠藤さんと、コルベ神父について対談したことがある。作家の、売れっ子の先生だから、お礼は幾らしたら、いいのか分からない。確か、10万円をふところに準備した。対談後、ふところに手を入れ、差し出そうとすると、「いらない。寄付します」と言われた。対談は、赤坂の「龍村」で、女性主人はカトリックで、騎士誌の読者だった。
★その対談で、忘れられない話が、2つある。1つは、ご自分もアウシュビッツを見学した。残虐な地を踏みしめ、痛む心になる。ホテルに帰ると、はいた靴を捨ててしまった、という話。作家の靴底は、それほど敏感だということです。
★2つめは、肉体と精神の話。私たちは、肉体的条件が、精神を支配するでしょう。不眠になれば、いくら、いい文章を書こうと思っても、アタマが回転しないから、書けませんよ。お祈りだって、心が集中できない時もある。ところが、コルベ神父さまの不思議なところは、肉体的、生理的な条件が、精神を支配しない人だった。
★「コルベ神父が、餓死の地下室で、最後まで生きておられたのは、肉体的条件が如何ような条件になろうとも、精神を支配していた。そこが違う。精神は、しっかりして、影響を与えない、それが聖人だ」と、トマは理解した。
★対談しても、作家は、表現が違うね。「痕跡を残す」という言葉を覚えたのも、遠藤さんの影響だった。「聖人とは、始めから失敗しないのではなく、人間的な失敗を乗り越え、乗り越えて、愛で死ぬことで、最終的に愛を完成させていく」
★そう、そう、もう1つ、忘れていた。「女の一生・第二部」に、餓死室に居たコルベ神父は思う。「長崎の日本人たちは、いま私がここに居ると、知っているだろうか。ああ、日本人たちの下駄(げた)の音が聞こえる」。その情景があまりにも切ない。
★作家の心は、緻密、厚みが有って、敏感である。遠藤さんから、1通の手紙をもらった。手元には、ない。

2020年6月26日金曜日

食事処で、「いっさき」の生き造り。サシミを充分にいただいた

長崎の食事処「むつごろう」で食べた「一先=いっさき」の生き造りです。高原さんと食べた。尾っぽが、プリ、プリっと、微かに動いていた。
★ホームに居ると、サシミが十分に食べられない。思い切って、いっぴき、注文した。
★店内の周囲には、客が一杯です。コロナのこと、忘れました。ここには普通の生活がある。
★ホームに居ると、テレビを見るので、毎日、コロナの情報ばかり。アタマの中は、コロナで詰まっている。食事処では、解放された気持ちになった。でも「いっさき」が出るまでは、時間がかかった。待って、マッテ、やっと、大きなサラに入った「生き造り」がきた。おいしく、いただきました。
★店員さんが「みそ汁に、出来ます」という。出来上がるまでには、また又、時間がかかるでしょう。「もう、いいです」と店を出た。思ったよりも安値でした。
★食事処「むつごろう」は、長崎・聖コルベ館時代は、お客さんを度々案内して、御馳走した、なじみの場所です。「いか」の生き造りが有名です。3人ぐらいで、ゆっくり、時間をかけて会話を楽しみながら食べる場所ですね。「いか」の場合は、足を「てんぷら」にしてくれる。これが、おいしい。
★久しぶりに、食事処の「サシミ」は思い出になりました。長崎人は、こういうサカナしか食べません。

2020年6月25日木曜日

アジサイ花咲く「めがね橋」。ハート形の幸せ石。誰もが望むよ

長崎の「めがね橋」。長崎に住む時は、あまり気にならなかったが、ホームに長年、暮らすと、やはり、めずらしくなる。長崎で用件を済ませた後で、「高原さん、行ってみようか」と車内で声をかけた。高原さんが撮った写真です。川の両脇は、石垣だが、その中に、「ハートの形」をした石が、1つだけある。それを見つけると、幸せになるとか。修学旅行生の女の子たちが、探して、見つけて喜ぶ。
★誰だって、幸せになりたいよね。幸せは、どうやったら、つかみ取ることができるかだね。みんなが願っている望みだが、難しいよね。何を持って、満足するか。自己の欲望まかせでは、他者を傷つける。辛抱すれば、耐えがたい。いろいろ世の中、ありまする。
★長崎・五島の老司祭の言葉を思い出した。「苦しみ、悲しみは、あちらから、やってくる。喜びは、自分で見つけるもの。苦しみ、痛みのなかに、喜びを見位い出さないと、息切れする」。小さな喜びの呼吸が、幸せであろう。
★めがね橋の周辺に咲く「あじさい」は、長崎の花です。雨にぬれるアジサイ。いいね。梅雨は、まだ明けないが、アジサイは、もう終わりだね。
★午前中は、1人で入浴した。倒れないように、気をつけて入っている。まだ生きるのに、未練がある。人間って、そんなモンよと、思います。昼食は、冷やしソーメンでした。きょうも、幸せだったよ。

2020年6月24日水曜日

高原修道士さんの修道士名のお祝いの日。お世話になっています

人は、誰かのチカラで支えられながら、前へ進んでいく。助けがなければ、生きられない。弱い存在だ。ご縁が出来るのが、幸いです。
今日は、高原修道士さんのお祝い日です。トマがいつもお世話になっている高原さん。ご縁を切り離さない援助者です。ホームで暮らすようになったのも、高原さんのおかげかな。そう言える。
★教会では、「洗礼者聖ヨハネの誕生の祭日」を祝います。教会の祈りや、ミサで祈りました。「洗礼者聖ヨハネ」が、高原修道士さんの修道士名なのです。高原さん、おめでとう。いつも、がんばってくれて、ありがとう。感謝しています。
★高原さんのキゲンを損なったら大変だよ。どれほど、お世話、足になっているか。トマは、ホームに入って6年になる。その間、毎月、長崎のクリニックへ診察に行く。行きたくない日もあるでしょう。それでも、連れて行く。
★また、年に何度か、諫早総合病院の診察と、入院がある。その際も、車の運転や、介護で助けてもらっている。高原さんのおかげですよ。高原さんが居なければ、誰が連れて行きますか。外出に際しては、いつもトマの足になって、助けてくれるのは、彼です。彼が頼りです。
★トマは、感謝の気持ちで、イッパイです。高原さんのため祈りました。高原さんにも悩みはある。いつも車の中で聞いております。人には、誰だって、悩みは、あるさ。
★今朝、朝食前に、ホームに高原さんが姿を見せた。ニコ、ニコしていた。食堂が開くのを待つ女性たちに、「おめでとう」と言われて、高原さんは嬉しそう。女性たちに、笑顔で握手していた。
★老い行くトマです。これからも「助けて、ね」「頼みまーァす」

2020年6月23日火曜日

ラジオ体操、まじめに、やれ。発言の腰を折るな。快かい日々楽し

毎朝、ラジオ体操、やっとります。カラダを揺らすのは、いい運動です。チョットしたことで、骨が、ガクンとなる。歳を取るのは、危険が多い。
★動けるだけ、ありがたいと思いますよ。朝、9時と、午後2時半と、2回の体操がある。
★朝の体操は、まじめに、やっとります。午後は、サボリます。ごめんね。ちょうど、日記を書いている時間なので、パソコンを、ほっとけない。ウマク考えが、まとまらない時は、悩みます。午後の体操の、イチ、二ィ、サンは、自室に居て、ムシするから、耳が痛む。
★老いても、その場で、咲きなさい、との言葉があった。ダラ、ダラ、生きるのではなく、何か、熱中、できるものを見つける。自分が、それに向かって、進めるなら、それで、よし。人生には、第二の人生も、あるんです。いまの自分に、未来は、あるか、考えるなら、クビ、ひねるね。まあ、ムリしないことよ。
★自分の反省です。人には、いろんな人の意見がある。それを最後まで聞いてやって、それから自分の考えを述べるようにしよう。いきなり、否定は、しない。時には、すぐ横から口出す人がいる。「そうじゃ、ないよ」と、反対の話を持ち出す。自分にも時々ある。イヤな感じだろうね。意見を言う人は、ついつい困(こま)ちゃう。もう、言いたくない、となるだろう。まあ、一応、聞いてあげるのが、尊敬の念だろう。大らかな気持ちでね。聞いた後で、「こんな事も、言えるよ」と知識を披露すれば、いい。周りの雰囲気が、穏やかくなる。日常会話の潤滑油です。
★今日は、ラジオ体操の前に、ホームを出発して、長崎・聖母の騎士へ向かいます。これで2度目だね。高原修道士さんの運転、介護です。帰りは、遅くなるでしょう。ミサ後に、日記を書きました。空は、雲一つない好天気です。

2020年6月22日月曜日

一輪のヒマワリのお花もらって、ゲンキ、モリ、モリ、この顔だ

父の日にもらった「ひまわり」。一輪の花だが、うれしいね。明るい顔になるよ。まだ、まだ、生きてこその人生だ。生きるって、ふしぎだからね。なぜ、生かされる。わからねェーよ。感謝しか、ないわけさ。手や腕を見ると、青い血管が、グニャ、グニャ、浮き出てみえる。両足の肉付きも、やや、たるんできたよ。アタマだけは、なんとか、サヱて、いるんだな。やっぱり、会話だね。おシャベリの人は、普通に生活できる。話のない人は、ボケてくる。怖いよ。成りたくないよ。いつまでも、シャキッとして、いたい。介護を受ける人が増えているからね。世話、やけるよ。
★一輪の花にも、イノチがあるからね。自室の聖母マリア像の近くに飾った。
★きょうは、理髪屋さん夫妻が来る日だった。順番が、2番になる。「ハヤーさ」。こんなに早くなるのは、めずらしい。瀧神父さんは、5番。大野神父さんは、その後。9時の体操はサボって、「雲仙の間」の冷房を入れて待った。散髪の後で、入浴する。昼食のとき、食卓に来た栄養士さんに言われた。「あら、皆さん、ヨカ男になったのね」。ありがたいことだよ。
★人には、それぞれ、役割が、ある。役割が、あるから、生きる意味も、ある」

2020年6月21日日曜日

父の日のお祝い。女性職員さんによる劇「放とう娘」に喜び拍手

「出ーたッ」「待って、ました」。女子・職員さん達による「おもしろ劇・放とうムスメ」
★父の日。ホームの男性「お父さん」は、30人。食堂で、女性も皆さん交えて、全員でお祝いした。まず解説者が挨拶。「練習なしの、ぶっつけ本番。これが女性職員の底チカラ。楽しんで下さい」。出演者は、ごらんの面々。この他に、2人が欠けているので、合わせて10人でした。
★お父さん、お母さん、両親が居て、長女、次女、三女、四女と、娘がいる。そこへ現れるのが、男性役のスカウト・マン。イケメン男性。セールス・レディ。これだけ並べれば、内容は、ほぼ分かるでしょう。どうせ、ムスメ達が、惑わされるという流れです。
★準備に当たって、衣装は各自が準備。シナリオはあるが、アドリブOK。だから予想外の展開となる。
★似合っていたのが、このスカウト・マンです。ムスメを見ては「オーマイガーッ。あなた、オーラ―がある。うちの事務所に来ませんか」。いま、テレビに出たい女の子が多いからね。不審な誘いもある。気をつけないとね。言葉に乗ってはダメよ。
★ムスメ達の前には、イケメン男性も誘惑に来る。世間は、ごまかしが多いからね。ダマされちゃ、ダメだよ。
★加えて、セールス・レディも「ちょっと、ちょっと、そこのお嬢さん」と寄ってくる。どの役者も言葉巧みだモンね。これで、ホントに、まじめに介護やっているなかな。
★汗を流さずに、モウケ話は、危険だね。魔の手は、どこから伸びてくるかわからん。「今回も、おさわがせなムスメ達、両親の心配は付きなようですね。皆さんも、ウマイ話には、くれぐれもダマされないように、お願いしますね」と解説者の言葉で終わった。
★ホームの皆さんの反応は、笑いと、喜びと、「あれ、だれ?」などの会話で盛り上がりました。
★この後、男性各人に、ヒマワリのお花が配られた。ヒマワリは元気の花です。楽しい「父の日」になりました。女性の職員さん達の、寸劇に対する情熱も大したものです。その熱意に圧倒されますよ。この熱意、このパワーで、介護に、事務に、洗濯に、業務に励んで下さい。それはホームに暮らす私たちの幸せにつながります。寸劇とシュークリㇺと紅茶で、楽しいひと時を過ごしました。

2020年6月20日土曜日

平凡な日々だが、日記は書く。ムリなく楽な気持ちで書きまする

ホームをくだった農家の地区に、田植えが終わった「たんぼ」がある。ここ、2、3日、まとまった雨がふったので、稲にとっては、良好の育ちのようだ。
★毎日、日記を綴る。「よく、まあ、書くよね」と言われる。ホームに居て、そんな、特別な出会いや、変化はない。むしろ変わらないのが、幸いでもある。ムリしないで、書きたいと思う。何にも無くても、書きつづけたいと思う。
★きょうは、午前中に、「懇談会」があった。食堂に集まって、来月の予定や、看護師さん、栄養士さんからの言い伝えを聞く。来月は、七夕がある。恒例のように「願い事」を書いて、飾りつけをするだろう。誕生会、書道、絵手紙、手芸、ビデオの日、カラオケの日、グランド・ゴルフ、ショッピング、野外活動、並べてみると、色々とある。「何か、意見や、質問はないですか」と問われるが、手を挙げる者は、いない。
★午後からは、父の日の集いがある。男性の入居者が「お父さん」になる。入居者は、全員で、72人。うち男性入居者は、30人。トマも入っているわけだ。男性入居者は、人数が少ない。
★5月の、母の日には、女性1人1人に花束をもらって、余興に、男性職員・総出演による「出し物=水戸黄門」が出た。さあ、今度は、女性職員の総出演の「出し物」となる。これが午後からの楽しみだね。どのような展開になるか、期待している。
★日記を書くのは、身辺記事が、多いね。「自分の事ばかり、書くなよ」と評する者もいる。冗談、きついぞ。そう、ワルイ事ばかりじゃ、ないよ。自分が何をしたいか、よくわかる。この世に生きるなら、よい思い出を、沢山つくろう。それが幸せさ。

2020年6月19日金曜日

イエスの聖心の祭日。長崎へ出かけます。遅くなるでしょう

長崎・聖コルベ記念館の、聖コルベの部屋の壁にかかっている、「けがれなき聖母マリアと通して、イエスへ」です。
★今日は、教会で、イエスの聖心の祭日を祈りました。イエスが、ご自分の聖心を指さしている聖絵。北朝鮮の家にも、家庭の祭壇に、この聖絵を、母が飾っていた。幼少の頃、子供ながら、胸にある聖心を、ふしぎに思いました。イエスの髪の毛も、黒色じゃないし、なじめない絵でした。
★長崎へ帰って、浦上の、どこの家庭にも、このイエスの聖心の聖絵の額がかかっていた。徐々に、納得がいくようになった。
★コルベ神父は、マリア像と、イエスの聖心の額を大事にしました。コルベ神父の信念、理想ともいっていいでしょう。写真は野々村哲さんが写した。「トマさんのことば」に載せました。
★今日は、朝、9時から、高原修道士さんの運転で、長崎・聖母の騎士を訪ねます。帰りが遅くなるでしょう。早めに、日記を書きました。

2020年6月18日木曜日

雲仙の思い出。70年前の修学旅行。いま、生存者は3人となった

昭和24年7月(終戦4年後)の写真です。聖母の騎士小神学校、高校3年、9人の修学旅行は、近場の島原・雲仙だった。今のように交通の便利はよくない。乗合バスで、長い時間をかけて、雲仙温泉に着いた。旅館へ2泊する。
★写真の中央は、舎監のロムアルド修道士さん。雲仙・仁田峠から普賢岳まで登って、大変な豪雨に会う。
★普賢岳や仁田峠(写真)の雨は大粒だ。ほうほうの体で、旅館に帰る。ロムアルドさんには着替えの修道服がなく、ダルマに浴衣を着せた姿が奇妙に見えた。
★讃美歌を歌って、いよいよ寝る。枕を汚さないために、紙を巻いて、その紙に「みこころ安らかにお眠り下さい」と書いてあった。目の細い同級生が、みんなの紙を集めて、鼻紙にした。炊事係のカシアノ修道士が持たせたポーランドの手製お菓子「フルスチィ」が残った。
★「もったいない。残り物だが、珍しいから旅館のお手伝いさんにあげよう」となり、クジを引くと、目の細い彼に当たった。「恥ずかしいなァ」と言いつつ、フスマの所へ持っていく練習を始めた。その時、さっとフスマが開いて、お手伝いさんが入って来た。細い目を開いて、おどろく彼。みんなは、その姿に笑いこけた。写真は、戦後まもなくの旅館街です。湯けむりが上がっている。硫黄温泉だった。
★高校3年の卒業試験が始まった。第1日目の、第1時間目は、国語・漢文の試験で、お年寄りの先生(写真)が担当だった。私たちは「じんじ先生」と呼んで親しんでいたが、老年のせいか、自慢話や昔ばなしが多かった。静かに、答案を書いていると、「ポン」と1発、屁を放った者がいる。目の細い彼の仕業だった。皆は「クス、クス」お互いが顔を見合わせ、ニヤッとする。先生、いわく、「祝砲だ」。みんなは、ドッと笑った。
★いま、ホームから眺める雲仙岳です。70年前の旅行を思い出す。同級生9人の内、生存者は、3人。トマ修道士。沖縄の稲国神父、兵庫の1人となった。目の細い彼は、ローマ留学して、神父になったが、運転事故で逝った。トマの親友だった。

2020年6月17日水曜日

ホームの礼拝の日。あの森さんが、ミサ奉仕で、正確にがんばる

左は、もう何十年も前かな。森くんの写真です。トマが、山の施設・修道院で撮ったスナップです。
★写真を見ても、わかるでしょう。心の優しい子でしたよ。熱心に、お祈りするしね。先生や、シスター、神父さんの言う事も「ウン、ウン」と返事して、行動した。少し、にぶいけど、ね。言われたことは、きちんと果たした。働き者の森くんでした。
★あれから年月が流れる。人生に、歳月は、耐えられない。森くんも、老いて、ホームに入居した。その姿が、下の写真です。やっぱり老いているね。人間、心は変わらない。社会の汚れも知らず、純粋に、山で、真っ直ぐに、成長し、老いました。
★今日は、月に1度のホームの「礼拝の日」でした。普通、教会に来れない人も、園長神父さんのミサで祈ります。すると、森さんが、自分から、祭壇の方に向かって行き、香部屋へ入った。園長神父さんと一緒に祭壇へ出てきて、ミサの奉仕をしました。初めての事です。皆さん、びっくりしました。
★よく見ていると、森さんは、最初から最後まで、手はキレイに合掌して、背を伸ばして立ち、ミサの進行に従って、神父さんに、ブドウ酒、お水、手洗い、終わりのお水渡しなど、正確に勤めていたのには、「おお、よく、やるな」と感心した次第でした。
★ホームに、純な森さんが来たことで、明るくなった。老いに負けるな。純粋さを失うな。先輩として、見守るぞ。食事の後、トマに、「おお」と、手をあげて、通り過ぎる。トマ、忘れるな。山の生活、よく知っているからな。愛する森さん、がんばれよ。

2020年6月16日火曜日

台湾人の許さん、台湾雑誌に、トマの幼少・戦争平和体験を載せる

台湾人の許書寧さん。年に1度は、ホームに訪ねてくる。台湾からのカトリック巡礼団を、長崎・外海・雲仙など、ガイドを務めた後、姿を現わす。許さんの「温かい眼差し」に癒される。許さんは、イラストや文章も書く。台湾では何冊の本も出している。台湾の雑誌「宇宙光」(21センチ、27センチ)3月号に、「トマさんのこと」を書いたと、雑誌が届いた。
★題は「母親的遺産」とある。許さんが、3年前に、自室でスケッチした絵が載っていた。トマの背後に見たフランシスコの修道服と、マリアさまを結びつけて「しっかり生きる」と書かれている。そのとき訪ねた、山の女子修道院・聖ヨゼフ小聖堂での写真もある。台湾語だから、漢字ばかり。それでも漢字を追っていくと、何が書かれているか大体分かる。
★北韓で生まれて、時は「戦時軍国主義盛行」の時代。
★天皇の軍隊か、キリストの軍隊か「踏絵的考験」を受けた。我は基督教軍隊に付く。「十三歳時結核性骨髄炎」。「母親的祈祷」で、病気が癒され、「聖母泉謝恩」。大きく聖母の騎士ルルドの写真が載っている。まさに、このルルドこそが、人生の出発点となった。ありがたい場所。
★そこへ原爆が落ちる。原爆の写真も載っている。家は爆心地から「五百公尺」。トンネル工場で被爆。
★写真は、小さく長崎原爆資料館と、大きく平和の像です。11時2分で止まった時計の写真もある。原爆の後、ポーランド人の修道院に入る。「我得知聖國柏神父」。コルベ神父のことである。修道名「小崎登明」。九十二歳・住在長崎。そう、そう、これがトマの人生だったのか。文章の最後の言葉。「母親的微笑他信仰生活的原動力」
★台湾の雑誌の表紙です。皆さんには、この記事は、どのように読まれるか。戦争の無い事、平和の事、自由の尊さ、人間の愚かさなど知ってもらえれば嬉しいです。台湾は新型コロナの対応も立派でした。つづく平和を祈るばかりです。
★トマは、2,3度、台湾を旅した。新竹で、楠(くす)の木で作ったイエス、マリア、ヨゼフ、最後の晩餐などの木彫を購入へ行った。新高山の登山列車にも乗った。車中で、弁当も買いました。
★許書寧さん、ホームを忘れず、見守って下さい。許さんの活躍に期待しています。また会いましょう。
★パソコンの写真入いは、出来るようになった。もう1つお知らせ。子スズメたちは残念、その夜に冷たくたそうです。かわいそうに。

2020年6月15日月曜日

パソコンの調子が、ウマク、はこばない。老人の手には困ります

突然、パソコンに、写真が入らないようになって、困っています。今までは、調子よく、入っていたのに、急に、画面が変化するのです。それで、困惑し、文章が書けません。
どうして、こんなに、突然に、変わるのでしょうか。老いた身には、付いて行けない。男子の職員さんが来て、教えてくれたが、複雑な仕方で、飲み込めない。写真が、スムーズに入らないと、気持ちが進まない。困ったモンです。
きょうは、職員さんは多忙な日でした。一番、よく知っている職員さんが居ない。方法が分かりません。
★10年余り、ホームで生活した女性が逝きました。昼食に、おまんじゅう、2個。逝った人の思い出です。これに、ご飯があったが、食べない。ソバを追加で食べた。充分です。逝った人を見送ると、寂しいです。ホームに来た頃は、スクーターにも乗ったそうですが、車椅子になり、その頃の様子を知っています。ホームは人生を終わる所ですね。身に染みて感じます。安息を祈ります。まんじゅうを食べながら。

2020年6月14日日曜日

スズメのひな。3羽。かわいそう。ゴメンね。生きよ、明日がある

「トマさん、スズメのひな」と、職員さんが、自室に持って来た。日頃、自室の戸から、スズメの鳴き声を気にしているのに、「え?なんで?」。ちょっと、びっくり。「1階の、屋外機(室内の冷暖房機につながる)に、巣を作って困るんです。巣は、別の職員が取り除いた。残ったのが、このヒナたちです」「えーぇ、かわいそう、かわいいね」「育てます。毛がないから、寒さにふるえている」
★自室に、ヒナを見せにきたのは、ネコ好きの、この職員さんです。5匹のネコを「バナナ」「イチゴ」など、果物の名前をつけて可愛がっている。
★「どう、やって、スズメのヒナ、育てるの?」「エサ、やっている」「どんな、エサ?」「メジロのエサです」「食べるの?」「ええ、食べますよ。ひもじくなったら、ピィ、ピィ、鳴くんです」
★エサを、やるところを見せてくれた。自分の環境、状態を何も知らずに、けんめいに、生きようとしているヒナたち。「えらいモンだね」。段ボール箱に、新聞紙の切りくずを入れて、そこに寝かせている。「からだが冷えているから、家に持って帰ってヒーターで温めます」
★イノチは、自然のチカラで生きている。自分じゃない。スズメのイノチだって、大きなチカラで呼吸している。
★これまで、戸から眺めていたスズメ達を思い出した。「かわいい」と観察する者も居れば、じゃまになる、困ったものだと、排除する者も居る。厳しい環境に、それでもスズメは生きている。親スズメよ、屋外機に巣を作るのは、ヤメときな。残された子のスズメの運命、如何になる?
★もともと、人生は孤独です。孤独で生まれ、死ぬときも孤独。孤独を救うものは何か。それは出会いでしょう。だが、出会いにも、いい出会いもあれば、困った出会いもある。子スズメが出会ったのは、排除の出会いもあったが、優しい愛のある出会いもあった。だから助けられた。人生だって、同じさ。「愛のある出会い」が宝となる。幸せの基本では、ないのかな、と思っている。

2020年6月13日土曜日

室内運動会。車椅子も押し車も歩く人も、皆さん楽しく頑張る

ホームで、室内運動会。午前中、食堂に、皆さんが集まって、楽しみの運動会が行なわれた。皆さんも、職員さんも、全員、赤組、黄組に分かれる。合わせて、100人は居た。
★天井には、万国旗が飾られ、行事は、国旗の掲揚から始まった。3人の職員さんが、聖火をリレーして、長い柱の上の覆いを取ると、火の形が現われた。次は大野神父さんの選手宣誓。受けるのは山内園長神父さん。
★競技のお決まりは、パン食い競争だね。パン食いなら、真っ先に出るさ。マスクは、イラン。うまくパンの袋がつかめない。ちょっと、手を加えて、ごまかした。何とか取れて、ホットしたよ。笑いが起こる。拍手が起こる。次は、細いフーセンを輪にしたのを、赤組、黄組に分かれての団体競技。順々に回していく。3回もつづけた。結局、赤組が早かった。みんな、ニコニコ。いいモンだね。
★その次は、サカナ釣りだね。これもリレー。アジを釣ったら10点、ヒラメは20点、タイは5点。トマにも出ろ、出なさい、と声がかかったが、目がかすんで、口のカギにひっからないと遠慮した。結局、職員も参加して、赤組のカチだった。まあ、勝っても、負けても、喜ぶわね。国旗掲揚、降ろすのも、森さん、昭一さんの担当だった。最後は、お菓子とポカリとチッシュのお土産を貰った。ありがとう。

2020年6月12日金曜日

満員列車で、2度出会った老人。ふしぎなご縁を、今朝は思った

ホーム・湯江教会の祭壇の生け花です。ユリの季節になりました。今朝は、起きた時に、むかしの、ある「出会い」がアタマに、よぎり、残りました。
★以前、長崎から東京へ旅した時、特急寝台車を利用した。ちょうど、朝の6時頃、広島に着くのです。その頃、「小出哲夫神父さん」が、中江藤樹の研究をしておられた。江戸初期の儒学者です。小出神父さんは「藤樹学会」を熱心に主宰しておられた。私は広島で下車して、小出神父さんを訪問する予定だった。
★ところが、誤って乗り過ごし、次の駅で下車することになる。広島へ戻るために、普通列車を1時間ほど待っていた。列車に乗ると、車内は満席で、座れない。幸い、1つの席を見つけて、そこへ落ち着いた。すると前に座っていた老人の手元に、「聖パウロ物語」の本があった。そこで老人との会話が始まった。これが「出会い」でした。
★老人は「最近、洗礼を受けました」と言った。「聖母の騎士を知っていますか」と聞くと、「知らない」と答えた。がっかりした。「小出神父さんを知っていますか」と更に問うと、「会ったことは、ないが、ハガキをもらった」と言った。
★広島駅で下車した私は、小出神父さんを訪ねた。初対面だったが、みやげの「カステラ」のお陰か、親切な応対を受け、中江藤樹の話も聞き、昼食まで頂いて、午後2時頃の急行列車で、東の方向へ向かった。
★急行列車は混雑し、満席だった。1つの席をみつけて、座ると、目の前に、あの午前の老人が居るではないか。いま考えても、ふしぎな出会いだった。人生に於ける、こんな出会いは、2度と無かった。全くの恵みの再会。人生には、こういう出会いも、あるんですね。2度の、列車での出会いで、その後も、老人のお宅にも度々おじゃまし、娘さんにも会った。老人が逝かれた後も、娘さんのと交流は長くつづいた。ホームにも訪ねて来られたこともある。
★写真は、朝の祈りの前の、高原修道士さん(右)と瀧神父さんの後ろ姿です。
★ミサの後、朝の食事のとき、瀧神父さんに「中江藤樹、知っている?」と聞いた。「知っているよ」「小出神父さんは?」「知っているよ、イエズス会の司祭だろう」「えェ、そうなの」。瀧神父さんも「藤樹学会」を覚えていた。「薄い雑誌(小出神父さん発行)だったから、負担にならず、読み易かったよ」と、指で、薄さを、示した。「ああ、その雑誌ね、トマも覚えているよ」。ネットで調べてみると、「小出哲夫神父(1913-1985)中江藤樹学会・名誉会長」と明記されていた。
★列車で出会った、あの時の老人の言葉を忘れない。「私は、救われるでしょうか?」。難しい問題だ。それに対して、当時の私は、こう返事した。「救いは、神の恵みです。私たちに、その資格が有るから救われるのではなく、神さまからの恵みとして、よい生き方をすれば誰にでも与えられる。素直に心を開き、そのお恵みを受けましょう」
★「偶然の出会いによって、1つの記事が書けた。あるんだな、そんなことが。だから人生は、毎日が、おもしろい。楽しい日々が、過ごせる」

2020年6月11日木曜日

登明・人生、身辺記事に始まり、晩年、パソコンで身辺記事つづく

長崎も梅雨に入った。コロナ時代の梅雨に入った。気持ちが、すっきりしない。午前中に、入浴し、昼寝の後、パソコンに向かう。何を書けば、いいのだろう。わからない時もある。戸の外には、しきりに激しい雨が降っている。
★登明が「騎士誌」に記事を書き始めたのは、昭和28年、25歳の時だった。病気・結核を病み、そこからの思い、「孤独と不安」や「病者の宿題」、「孤独なる若者の祈り」は、7回もつづけた。つまり、自分の体験、思い、不安など、身辺記事から始まった。当時の読者の中には、病者や結核を病む人も多く、「若者」の記事の反響は、良好だった。
★雨の日に、退屈しているのか、凹の形のソファーでは、女性たちが折り紙を折っている。トマは、仲間には入らん。
★登明が、パソコンを求めたのは、2004年、76歳の時だった。日記を書き始めたのが、5年後の2009年、81歳になる。やはり身辺記事だった。今度は「がん」を病み、苦しみの年がつづいた。
★登明日記も、11年つづいている。振り返れば、25歳で身辺記事を書き、晩年、81歳で、パソコンで身辺記事を書いている。11年の6年間は、聖コルベ館での「出会い」であり、その後の5年は、ホームでの生活になる。
★「登明さんは、日記で、今、何を書いているんですか」。ホームに入って、老いを見詰めて、多くの人を見送って、「自分も、そう、なるんだ」と、日々、枯れて行く自分を見詰める。何を感じるのか。何が不安なのか。それを書きたい、なのに、正直、言って、「やっぱり、難いんだよな」。でも、同調してくれる人もいる。チカラになるね。
★せっかく生まれたからには、人生、ソンしないように、生きている。病気がち、カラダは弱い。ひとり身、孤独です。だけど不幸じゃない。神父になる、望んだが、召命は、なかった。今になって思う。神父でなくて、よかったよ。気まま、わがまま、修道士、92歳。

2020年6月10日水曜日

自著「長崎のコルベ神父」の英語訳が終わった。出版を待つのみ

トマが著わした「長崎のコルベ神父」(単行本・1983年5月発行・319ページ・聖母の騎士社)が、英語訳される。こんな嬉しいことはない。
★英語訳を申し出て下さったのが、写真の先生です。去年の2月4日とある。ホームに訪ねて下さった。荒木慎一郎先生。長崎純心大学・人文学部教授、キリスト教文化研究所長でもある。きっかけは、先生に出会ったとき、「コルベ神父の学問的研究をしてくれませんか」とお頼みしたことにある。そこから、ご縁で、「FATHER  KOLBE  IN  NAGASAKI 」の英語訳に取り組んで下さった。出版は、アメリカで発行される。
★あれから1年5ケ月が経過する。英語訳を終わった。(164ページ)。アメリカの出版社と常に連絡をとっている。昨日、先生が報告に見えられた。ただ、今は「コロナ」で大変な時になっている。発行は、いつになるか、心配です。ご多忙のなか、荒木先生には本当にご苦労さまでした。完訳して、嬉しいです。荒木先生は、マスクをして、写真に収まった。ホームの特別面会室での応対となった。
★コルベ神父の本は、何冊も出ている。しかし日本での生活は、どうだったのか。コルベ神父自身の手紙で、知る事が出来る。しかし生活の底辺までは分からない。「長崎のコルベ神父」は、コルベ神父と一緒に生活し、祈り、苦労したポーランド人の修道士たちからジカに聞いた挿話を中心に、底辺の部分に迫っている。それが自負になっています。これを読めば、コルベ神父のナマの宣教の苦労、叫び、祈り、マリアに徹底して生きる、などの事情が理解できるでしょう。
★これまで「長崎のコルベ神父」は、韓国語には訳されてきた。今度、英語訳が出版されれば、こんな嬉しい事はない。
★また、今年は、コルベ神父が東洋の宣教にあたり、長崎に上陸して、90年を迎えます。この切りのイイ年に、英語訳が発行されれば、こんなに喜ばしい出来事はないでしょう。今年は、いい年になりそうです。期待で、夢はふくらむ。