2018年9月30日日曜日

出津・文化村へ。遠藤周作先生との出会いの思い

山梨の渡辺幹雄さんのおかげで、久しぶりに外海へ行った。そよ風に吹かれ、気分上々、子供の頃を思いめぐらす。背景の出津集落。今は文化村と呼ばれている。
★少年の頃の思い出。原爆・終戦の1ヵ月後、黒崎の父親の生家に帰り、被爆した身体を休めた。体に得体(えたい)が知れない吹き出物が出て、出津の医者に通った。原爆の影響であろう。心細かった。
★黒崎の生活は1ヵ月で、聖母の騎士に入る。出津まで歩いた思い出もある。当時、出津教会の主任司祭は中島万利神父さま。聖母の騎士のミロハナ神父は戦争中、抑留され、外出禁止だった。戦争が終わって自由になり、初めて訪ねたのが中島万利神父だった。ミロハナ神父から「中島神父さまの所へ連れて行って欲しい」と頼まれる。バスも船もなく、2人は長崎から徒歩で1日中歩いて、出津まで案内した。その後も、中島神父さまが主任の時、長崎から船便で、神学校のため芋や野菜を貰いに行った。
★当時は、ド・ロ神父の偉業も知らなかったが、地元の坂本仙太郎や、田中用次郎さんの説明で、ド・ロさまの素晴らしい足跡を教えられる事になる。騎士誌に記事も書いた。
★外海といえば、遠藤周作先生との出会いも貴重な体験となる。「沈黙の碑」も出津に建った。遠藤先生は作品「女の一生・第二部」で、コルベ神父の事を書いた。大浦周辺を案内し、資料を差し上げ、「大変、役に立った」と喜ばれた。
★「彼は愛の狩人だった。愛を求めて日本へ来た。そして愛のため失敗もした。愛のため傷つきもした。しかし最終的には『友のために死す』愛を完成した。それを若い人たちに教えるべきですよ」
★山梨の渡辺幹雄さんにはお世話になった。車の中で私は言った。「旅の目的は3つある。第1は、ホンモノを見る。本や教科書で見たものを本物で見る。第2は現地の人との出会い。第3は、旅によって自分が好転する、ことですよ」

2018年9月29日土曜日

外海・山崎政行さんのお宅訪問。旅の思い出あり


外海の広い海。海の彼方は五島列島。白い建物は「遠藤周作文学館」。手前は「道の駅」。車運転の渡辺幹雄さん。長崎へは23回目。「小崎さんに会うのは6回目。最初に聖コルベ館で会ったとき、『洗礼を受けて来なさい』」と言われた。8年後、洗礼を受ける。霊名バルトロメオ。五島は1回だけ。「もっと何回も行かなくては」と勧めた。眺めのよい道の駅で、バイキングの昼食を食べた。品数が多くて満足でした。
★黒崎の山崎政行さん(89歳)のお宅へ行く。立派に飾られた家庭祭壇。手前は細長く畳の部屋になっており、ここで「長崎オラショの旅」の際には昼食をとっていた。山崎政行さん、スマ子さんご夫妻がお世話をしてくれた。きょうはスマ子さんは「デーサービス」に出かけて不在、残念でした。
★山崎政行さんは長年、ビデオの制作をされており、第一回からオラショで来た巡礼団の収録も残してある。昭和51年(1976年)6月、52名が最初で、第三十七回までお世話になっている。全部を収録して保存。第一回を見せてもらった。韓国人司祭1名と韓国人達10名程も参加している。笑いや拍手で盛り上がり、スマ子さんは「おてもやん」を踊って妙な顔つき、体ごなしに喝采を受けている。今となっては懐かしい。
★その後、山崎さんは外海の山中に、金鍔次兵衛の隠れ岩を発見して、以来、自ら引率して巡礼者の案内・解説を始めた。29年間に、400回努めた。ミサも現地で43回捧げられる。188名の殉教者列福の際には、金鍔次兵衛も入っているが、列福調査の証人をも務めた。それらは皆、ビデオに収めている。これらの山崎さんの功績を聞かされるとき、彼を親友にもった幸せを感じる。ぜひとも山崎さんには会いたかった。
★山崎さんは、昭和56年(1981年)、ヨハネ・パウロ二世教皇さまが長崎へ来られたとき、歓迎の場で、教皇さまの手と触れ合った。その感触に温かいチカラを感じて、信仰生活の再出発となったという。先日、そのことをNHK・テレビから取材を受け、「今度テレビに出ます」と喜んで居られた。番組はNHK「歴史ヒストリア」で、10月3日、午後10時~11時10分。再放送、10月7日、午後4時45分~5時55分。
★『トマさんのことば』「神よ、あなたは呼び求めるヒトの近くに居られます」。ソバに、神さま。その実感を胸に、心に感じるとき、安らぎの日となる。

2018年9月28日金曜日

山梨の渡辺さんのおかげで、外海へドライブに出る

昨年5月に、バイクでホームを訪ねた男性、今日はレンタカーを借りて、ホームに来た。山梨県・富士山が見える町に住む渡辺幹雄さん。来た時間が朝の10時です。
★「渡辺さん、きょうは、いい天気です。ここで話をするよりも、私をドライブに誘って、外海まで連れて行ってください」「ああ、いいですよ」。渡辺さんは快く引き受けてくれた。外海・黒崎で、行きたい所があるんです。それは長年、親交が深い山崎政行・スマ子さんのお宅です。思い出がある。私の人生にとって貴重な黒崎・信徒です。
★先ず、山崎さんに電話をして、「きょう、午後1時頃、参ります」と予告しました。突然の電話に山崎さんはビックリ。車は10時過ぎには出かけた。帰ったのは午後3時半でした。予告なしに山崎さんのお宅を訪ねて、充分に望みを果たしました。渡辺さん、1日のドライブはありがとう。
★詳しいことは明日、書きましょう。

2018年9月27日木曜日

せい一杯、咲きました。それだけで、じゅうぶん


月下美人が夜中に咲き、1夜あけた朝の花が、左です。まだ、ふくらみは少しある。右は、1日経った今朝の月下美人の姿です。精魂、使い果たしたという感じです。これで、月下美人は葉から芽が出て、ふくらみを帯びて、夜中に満開の花を開かせて、1日経ったら、しぼんでしまう過程を日記で記録した。もう、月下美人はこれで打ち上げにしましょう。ほんとに、月下美人よ、ご苦労さまでした。
★アシジの聖フランシスコの祭日の前に、9日間の祈りが始まった。湯江教会の祭壇の横に、聖人のご像が飾られて、祈りの時は、灯がともされている。聖フランシスコに憧れたのは「貧しさ」だった。17歳で、爆弾工場に通ってた時、いつも通る道に、2階建ての豪華なお屋敷があった。(自分も先々では、こんな立派なお屋敷に住みたい)と憧れていた。
★ところが原爆の日の昼過ぎ、この道を通ると、哀れ屋敷は崩れ、庭は泥まみれになり、ご主人らしい男性は、破れ、汚れたシャツを着て、石段の上に膝を立てて座り、黙して語らずの姿を見た。数日して又通ると、そのまま死んで腐敗がすすみ、蛆虫に食われていた。その姿に17歳の少年は衝撃を受ける。「いくらお金を貯めても、屋敷を築いても、人間は儚(はかな)い。本当のものは何か。真理は何か」。腕白盛りの少年でも、その印象は新たな価値観へと変えた。
★ポーランド人たち修道者たちの中に飛び込む。コルベ神父が残した修道院には「貧しさ」が有った。それは心地よさを感じる「貧しさ」だった。コルベ神父が本河内に最初に建てた家は、もっと貧しかったらしい。その家はもう無かったが、新聞記事が残っている。取材した記者は書いた。「ニワトリ小屋のような建物に、世は歓楽の春というに、本能として突き上げる欲望の悶えはないのか」
★17歳の少年は、20、30、40と過ぎて、老いぼれになって90になった。振り返って言えることは、人間は、さまざまな誘惑との闘いだった。
★いま早朝、4時半に起きて、6時からのミサで祈るとき、御聖体を拝領して自分の席に戻ったときに、最近は特に、目を閉じてアタマを垂れて、ジーッとしている。何かが、胸を揺るがすのを覚える。
★『トマさんのことば』人間やから、な。どんな事でも、あり得る。せい一杯、生きました、と言えれば、人間には、それだけで、充分です。

2018年9月26日水曜日

月下美人が咲いた。午後から来客。昼食から席替え


昨夜(25日)は中秋の名月、十五夜だった。真ん丸い月が、光々と照らしていた。「月下美人、今夜は、きっと咲くぞ」。夕方、5時半、2つの花がふくらんでいた。夜8時過ぎが、左の写真です。風が強い夜で、花は揺れていた。手で掴んで合わせて撮った。10時過ぎ、右が、見事に咲いた期待の月下美人です。ホームの辺りは静寂。詰所に夜勤の2人職員が居るだけ。誰も知らない、見ていない夜に、美しい純白の大きな花が、見事に咲いた。
★普通は7時半過ぎにはベッドに付くのだが、昨夜ばかりは気になって10時過ぎまで起きていた。これまで9月の9日から観察してきた月光美人だったが、素晴らしい満開の姿を見ることが出来た。満足して、この夜だけ、10時過ぎに眠りについた。
★昨日は午後から長崎の千草さん(写真・左)、蓉子さん(運転)が姿を見せた。「トマさんから『パワー』を貰いたい」「パワーなんて、無いよ」「イヤ、すごい人生でしょ、尊敬しますわ」「恐縮だよ。でも、ね。この間、テレビで原爆のドラマがあったが、あれ見て、本当に、よくぞ生きてきたな、と思いました」「そーですよ」「それに結核で、右の腎臓、取つちゃって、左も、侵されて死に目にあった」「看護師のシスターに助けられたモンね」「そのシスターが亡くなって、今年10月19日、50周年を迎える。ミサと、墓参りと、会食をしたいね」「決まったら案内してね。お祈りに来るから」
★ホームでは昼食のとき、半年ぶりに食卓の席替えが行なわれた。みんなは、ソワ、ソワ。どの席に行くか。トマの思いは、明るい場所で、皆さんが一望できる所で、牛乳を温めるのに、レンジの近くが好みです。結局、同じ場所で、入江さんが抜けて、同じく瀧神父さんと、他に同じ女性が一緒の4人の席になった。
★湯江教会では、昨日から「修道会の創立者・アシジの聖フランシスコの祭日(10月4日)」に向けて、9日間の祈りが、ミサ後に始まった。
★今日は午後から火災の避難訓練が予定されている。ホームでの火災は恐ろしい。訓練には進んで参加します。
★『トマさんのことば』月光美人を見て思う。幼い頃に洗礼の恵みを受けた。一時期、教会を遠ざかっても、いつか、また教会に呼び戻される。幼い頃に植えられた芽は、必ず又伸びて花をひらかせる。そこが信仰生活の大切なところです。信仰があれば、自分の人生も、他者の人生も、大切にする。

2018年9月25日火曜日

母親に苦労をかけた。若い頃から病気で苦しんだ

今朝は、なぜか、母親のことを思い出した。(絵は、しおうら・しんたろう作『焼けたロザリオ』より)
★13歳だった。不運にも、腰や背骨が腐れるカリエスを病んで、長崎・大学病院外科病棟に入院していた。父は居ない。母が付き添って看病してくれた。母に、本当に心配を掛けたと思っている。おカネは持っていたのだろうか。入院は1年と数ヶ月に及んだ。途中で、治療費が払えなくなって、「学用患者」となり、入院費は無料となった。その代わり、人体研究材料になったり、死ぬと解剖される。この手続きを勧めてくれたのは、病院事務長の深堀さん(カトリック信徒)だった。それを聞かされたとき、13歳の病人は泣いた。母親も泣いた。いま思えば母は生活費にも苦労していたのだろう。当時は福祉の助成金もなかった。
★ベッドで病む少年は、母が買い物に出て、帰って来ると、手提げの中が常に気になった。「本が読みたい」。しかし買うおカネは無かった。それでも少年は頼んだ。今でも覚えているが、買ってきてくれた本があった。「リビングストン」の本だった。スコットランドの探検家、医者であり、牧師でもあった。ヨーロッパ人で初めて、未開のアフリカ大陸を探検・横断して、現状を世界に知らせた。彼は地元に住んで、アフリカの貧しい人たちの治療や奉仕に生涯を捧げる実話だった。戦争の真っ只中、本屋にこの本があったのは、日本の「海外へ進出」の夢が秘められていたのかも知れない。病気の少年は熱心にこの本を読んだ。頁の所々に、挿絵もあった。
★病気の少年は15歳の春に快癒して、退院する。母は、収入を得る為に、介護の経験を生かして、入院患者の付き添い婦として、病棟に寝泊りして働き、金銭を稼いだ。家はなく、15歳の少年は、事務長・深堀さんの世話で、病院見回り職員の部屋にお世話になって、分厚いマットの上に、夜、一人で眠った。寂しい夜を覚えている。食事は、母が介護する病人のベッドの傍で、母と一緒に食べていた。
★食料は配給で、お米は「玄米」支給された。母が、患者のベッドの傍で、敷物に座り、一升瓶に玄米を入れて棒で突いて、白米にしていた姿を忘れない。あの姿の母親に「おかあさん」と、いま大きな声で叫びたい気持ちになった。
★長崎・原爆で、母も、深堀さんも被曝死した。あの頃は本当に苦労したよ。何もかも失われて、新しい世の中が始まった。ただ悲しい記憶だけが残った。

2018年9月24日月曜日

聖パチフィコ。山内園長神父さんの修道名のお祝い


今日は、教会では、コンベンツアル会の司祭・聖パチフィコの記念日です。ホームの園長・山内春治神父さんの修道名のお祝い日です。「山内園長さま、おめでとう。温かい家族的な愛情を、みんなに注いで下さって、ありがとう」。代表者が、喜びの花束をお渡ししました。喜んで下さる園長さま。昭和11年4月生まれの82歳になられます。ホーム全体のお勤め大変でしょう。「みなさんに支えられて、13年になります」とお言葉がありました。いつまでもお元気で、お勤めを果たして下さい。今朝はミサのとき、園長神父さんのため祈りました。園長さまは、毎日、教会で、午後からの共同のロザリオに、一緒にお勤めを果たしておられます。
★昨夜は、園長さんが属する湯江修道院の4人と、ホームの瀧神父さん、トマも入れて、車で20分の食事処でお祝いをしました。
★昨夜の食事会の話で感じたことは、コルベ神父が創立した小神学校に、終戦の翌年の春から、毎年、20数人の新入生が長崎・五島・平戸から次々に入学して、徐々に神学生が増えて、6年後の年は、中学・高校生の小神学生だけで、116人の学校になっていた。この数を考えるとき、今までの歴史で、これだけの人数の小神学生が共同生活をしていたお恵みと言うか、時代は、もう来ないでしょう。若くして神に召された司祭・修道士を偲んで、しみじみと語り合いました。修道者同志は、お互いに若い時から知り尽くした仲間です。安心感があります。
★「パチフィコ」の修道名も話題になった。着衣式のときに修道名を付けるのは院長か修練長ですが、20人もの数が居ると、聖人の名前を選ぶのも大変だったらしい。名前を付ける「こぼれ話」にも笑いが湧きました。会食に参加した6人は「パチフィコ」神父。[コンラード」院長神父。「ペトロ」神父。「ヨゼフ」修道士。「使徒ヨハネ」修道士。「トマ小崎」修道士でした。
★観察している月光美人も、じょじょに、ふくらんできました。希望が出てきた。後、2,3日したら咲くかな?小さな2つの「つぼみ」が、いとおしく、期待をかけている。
★朝から入浴する。お湯から上がって撮った月光美人です。お昼の食事は「細めん・うどん」でした。卵焼きがあった。ホームの卵焼きは、すごく美味しいです。静かで、平和なホームです。

2018年9月23日日曜日

山の施設・騎士園祭。お世話になった女性の出会い


山の養護施設・聖母の騎士園祭があると聞いた。招待は無かったが、懐かしくて出かけた。戦争が終わった次の年の冬に、施設が出来た。ゼノ修道士さん達の尽力による。
★終戦から数年が経った25歳のときに、施設の修道院にお世話になった。11年を過ごした。当時は男子ばかりで、毎日、事件が起こり、逃亡者も多かった。近くの村も荒しまわった。それでも子ども達は成長し、子ども達と学び、運動会は野外劇で盛り上った。「天草四郎の物語」は、町の小学校の運動会でも、特別出演した。
★2度目は、昭和から平成に変わる年代で、57歳から6年間を過ごした。施設には男性も女性の子ども達も入所していた。施設の小・中学校は、入学式、卒業式、運動会などは父兄や来賓も少なく、寂しかった。後援会をつくり、諫早から十数人の女性たちが来賓として顔を出して、励まし、支えてくれた。温かい愛情を注いだ、その十数人も時代と共に老いられたが、今日はその中の1人と出会い、当時の支援を感謝した。「本当に、その節はお世話になりました。お元気で何よりです」。お名前は忘れたが、お顔はしっかりと覚えていた。
★施設が出来てから、70年が経っている。どれだけの子ども達が育って行ったのだろう。子供や孫も出来ているだろう。老年も、壮年も、幼い子も居たが、私を知る者は他には居なかった。それでも建物や、成長した樹木を眺めたとき、心に熱いものを感じた。
★ちょうど連休を利用してか、広島から岩本さんご夫妻が車で施設の私の処まで訪ねて来られた。「広島へ来たかった、いつでも連絡しなさい。車で迎えに来ます」。施設の園長・山下神父さんと一緒に写真に撮った。

2018年9月22日土曜日

『わたしの昭和』書きなさい・戦争から平和な世に

平成の世が間もなく終わります。ボクは、昭和3年3月生まれ。まさしく昭和を最初から生きてきた。いま、『わたしの昭和』を振り返ってみよう。
★写真は小学生のボクだ。「幸一」が名前。親は「幸福に、なれ」と願い付けたのだろう。ある本によると、「幸」には、3つの意味がある。①『さち』(物質的に満たされた喜び)。②『しあわせ』(良いめぐり合わせ。モノごとが、うまく運んでラッキー)。③『さいわい』(花が満開のような満足感)
★昭和の初めの日本は、富国強兵。小学生から軍国主義を叩き込まれた。ビンタの1つや、2つはガマンする。その道は、やがて暗い戦争につながる。ニッポンは負けない。神風が吹く、そう信じて、竹やりで、エイ、ヤァ、と突いた。
★昭和20年8月、17歳のとき、物凄いバクダン原爆が長崎に落とされて、浦上は廃墟となって終戦。全く酷いバクダンだったが、ボクは『さいわい』に生きていた。原爆で、母を失い、家を失い、孤児となる。明日から如何に生きるか、決断を迫られた。
★母が残した信仰のおかげで、幸いに、ポーランド人修道者たちに救われる。高校まで与えられたが、その後、重症の結核・病気に長年、苦しむ。死の手前まで追い込まれた。当時、結核の薬は庶民には入手困難だったが、修道院に居ておかげで、新薬の薬が与えられて、ふしぎと快癒する。これは誠に『しあわせ』だった。
★昭和40年、健康を回復して、修道士として立ち、修道誓願をたてる。新しい幸せの出発だった。以来、40年間は健康が与えられた。ボクにとって昭和は、何を育てたのか、どんな時代だったか、と振り返れば、幾つか思い当たる事もある。
★①学問、知識は人間に必ず必要だが、これは押し付けではなく、自分で求めて行くものだと思う。修道士は、当時の習慣では、学問は与えられなかった。ボクは自分で管区長に頼んで許可を得て、大学通信教育を6年間で、やり遂げた。この努力はボクに自信を与えたと思う。教育実習も行ない、教育免許も取得した。昭和が終わった日、ボクは私立の小・中の校長を勤めていた。
★②子どもの頃に、何でも食べる経験と習慣をつけて、口を慣らしておくのも必要だ。ボクの場合、これは失敗だった。母親は、ボクに食べさせる体験、幅が狭かった。だから海のカキ、イクラ、ウニ、などの海産物は、美味しいとは感じない。広く食を経験して、どの味も吸収する気力が必要だ。食べ慣れたものしか食べないのは、食が細い。
★③マイクを向けると、即座に、まとまったコメントが立派に出来るように、子どもの頃から訓練しておく事が必要だ。自分の意思をはっきりと相手に伝える。臆することなく大衆に告げる。流れるような発言が出来なくて、本当に苦労したし、赤恥も何度も、かいた。
★母が残したカトリック信仰に、更にポーランド人修道者たちの祈りと導きを受けて、守り続けたのは本当に良かったと感謝している。人は、信じ、希望し、愛さなければ、生きてはいけない。確かに、その間、何を、したか。かにを、したか・・・と問われれば、大した事は、していない。しかし恵まれた人生だった、と納得はしている。このような体験と、教訓を得ながら、遠くに去って行ったのが、ボクの昭和だった。
★昭和64年1月7日。昭和天皇、崩御される。昭和天皇を見たのは、1度きりであった。戦争が終わって数年経った頃、全国を行脚され、九州にも行幸され、原爆孤児・戦災孤児の施設をご訪問になった。天皇は、ヨレヨレのスーツを着ておられ、誠実そうな表情に篤く心を打たれた。戦中、戦後、多くのご心労をされ、尚且つ威厳を保たれ、親しみを覚えた陛下に同情する。こうして波乱万丈の昭和は終わった。私は60歳。ちょうど折り目のよい年であった。あれから平成の30年を生きたことになる。
★昭和を一言であらわせば、何と言う字にまとまるだろう。『乱』か、『和』か、『愛』か、ああ、やっぱり『幸』だな、昭和は。

2018年9月21日金曜日

ブレない人間でありたい。ハシラだけはシッカリ

月下美人が咲いたのは、9月9日の夜中でした。日記に載せました。それから5日経った14日に、月下美人の葉に、小さな芽が出たじゃありませんか。「え?花の芽?早いなァ、また出たの?」と、ちょっと、驚きました。これも日記に載せて、観察しようと書きました。
★あれから又、5日が経って、左側の写真が19日の芽の姿です。大きくなったでしょう。2日後、右の写真、今日が、この姿になりました。このように観察すると、成長が楽しみになってくる。ホームにだって小さいけれど、楽しみ、希望はありますよ。
★ホームで生活すると、修道士も、皆さんに混じって、入居者と全く同等です。平等です。何の違いはない。でも修道士の心境は、秘かに動揺があるんですね。人間は、生理的にイヤな気持ちも湧くのです。小さな事でも、心のトゲになるのです。それを経験しています。イヤなものは、イヤと思うんですね。ごめんなさい。
★揺れ動く心情の中で、我ながら思うのは、どこに居ろうが、ホームで暮らして居ろうが、修道士は『ブレ』ては、いけない、これを心中に言い聞かせております。内心、いろいろ弱い部分が有りますが、自分でも、よくわかります。1つの試練ですね。
★最近は、エレベーターに乗るとき、「修道士サンが居るから、ダイジョウブ」と言うようになった。ありがたい言葉ですよ。ニンゲンだから気持ち上、いろいろ有るが、でも、ハシラ(柱)だけは、『ブレ』ては、いけない。歩くとき、カラダは『ブレる』けどね。
★世のヒトたちは、お金の事情や、仕事や、人間関係で、いろいろ悩み疲れているでしょう。その人たちが清い姿の「お坊さん」を見ると、「ああ、心が、癒される」と、そう感じるでしょう。そこに小さな救いもある。『ブレないヒト』が居る。大切なことです。いまの世の中は、ヘイソク感で、息苦しくなっている。不安と、不満と。暗ラーィ世の中です。
★月下美人よ、キレイな花を咲かせて、度々見せておくれ。こんな芽が、あんな素晴らしい花を一晩だけ咲かせる。この世の中に、あるんですね。秘めたことが。どうして、小さなことで、クヨクヨするのだろう。セマイ・ニンゲンの心って、イヤだ、ね。

2018年9月20日木曜日

韓国の殉教者。旅をして撮った。懐かしく思う

韓国の殉教者・聖アンデレ金司祭と同志殉教者の記念日です。一緒に103人が聖人に挙げられた。
★韓国のテーグに旅行した時の写真を見つけた。片隅に「2007年6月24日」と刻まれている。もう10年程前になる。どこの場所で写したのか、写真の聖人が誰なのか、分かりません。おそらく聖アンデレ金司祭ではないかと思います。
★案内してくれた男性が、こう言った。「韓国の殉教者は、一発破壊、即座に殺される。日本は穴釣り、水責め、熱湯、火あぶりで『転べ』と拷問する。信仰で苦難に耐えた。『殉教の霊性』ですよ」
★写真を見ると、トマ修道士も、まだ若い。こういう時代もあったのだな、そう思い、殉教者の取り次ぎを祈った。

2018年9月19日水曜日

苦しい時、困った時、必ず誰かが、助けてくれた

廊下のガラス戸に張られた写真の数々。敬老・祝賀会の日に、来客のため展示された。「敬老の日、長寿の恵みは、職員さんのおかげです。ありがとう。毎月の誕生会などの出し物で、笑いを与えてくれます。撮影は入居者」と書いてある。もちろんトマが3年かけて撮った職員さんの表情です。こうして並べて見ると、ほほえましくなります。「よくぞ、辛抱して、撮ったな」と、我ながら満足します。
★ホームの良さは、前にも書いたが、環境や設備も然(さ)る事ながら、最も大切なのはお世話をしてくださる職員さんの温かい細やかな家族的(食事・介護・事務など)愛の奉仕と、受ける側の入居者の喜びと感謝にあると、日頃の生活から感じる。
★きょうは朝から、職員さんによる自室の掃除と、洗面台を奇麗にしてくださった。その後、入浴した。来月の予定を告げる「懇談会」があった。栄養師さん、看護師さんの報告もある。「避難訓練の方法」「食中毒に注意」などの知らせがある。
★いま、実感として言えることは、苦しい時、困った時にも、誰かが見守り、助けてくれる人が必ず居た。だから私は今まで生きている。私が生きているのは、何かの意味があるはずだ。生きるのではなく、実は生かされている。人と人のつながり、ご縁がある。自分は完全な者ではない。欠けた性格もある。それでも希望を持つ。あきらめない。生きていれば必ず、きっと何かいいことがある。そう信じて、前に進もう。日々の出会いに期待しよう。「90歳登明日記」の上での出会い。皆さん、日記を読んでくれて、ありがとう。こちらにも深い感謝の気持ちが湧いてくる。

2018年9月18日火曜日

空中を飛ぶ聖人の祝日。歩ける恵みを願う。歯科治療

コペルティーノの聖ヨゼフの祝日。17世紀の聖人。コンベンツアル修道会の司祭。空中を飛んで周り、奇跡を起こした。聖絵は、その場面。飛んでいる聖人。驚いている仲間の修道者たち。牛をひく村人も見える。空を飛ぶ職業=飛行機従業員たちの保護者。聖人が亡くなった修道院には遺体が安置されて、いまも腐敗していない、と聞いた。(空を飛ぶなんて、ふしぎな聖人がいるものだ)と思いながらも、朝の教会の祈り、ミサで祈った。(空は飛べなくても、いいですから、地上をしっかり歩けるようにして下さい)。日本語で、聖人の略歴、伝記、挿話集が無いのが残念。
★聖絵の裏に、コペルティーノの聖ヨセフの「善の賛歌」が記してあった。(一部のみ抜粋)
あたかも仕方なく善いことをする人、その人は実りを捨て、皮を大切にする。
考えなく善いことをする人、その人は、水がめを持たずに水を汲みに行く。
善い人と思われたいがために善いことをする人、その人は評判以外には何も得ない。
ぶしつけに善いことをする人、その人は実りを得ず、安らぐことがない。
好きなことのためだけに善いことをする人、その人は聖人にも義人にもなり得ないだろう。
きよらかな愛によって善いことをする人、その人は、心も魂も神にささげ、主と一つに結ばれる子ども、しもべとなる。
★きょうは、午前中、いつもの歯科医院へ予約・治療に出かけた。医師2人の他に、歯科衛生士が7、8人も居て、同じ担当者が歯を掃除して、歯石を取り、洗浄してくれる。医師の診察が有る。1時間10分を要した。歯を清潔にすることで歯が健康になった。有り難く思いつつ通っている。

2018年9月17日月曜日

傾聴ボランチアの女性来る。15回目になる。感謝

待っていました。午前中、傾聴ボランチアの女性が来る。
★予告があったので、朝食が終わると、すぐに入浴した。自室に戻って、カラダを冷やしていると、間もなく女性があらわれた。女性を見ると「ホッ」と、した気持ちになる。去年の3月から初めて、1年7ヶ月、15回目になる。
★女性は仕事をしている中で、貴重な休みの時間を費やして、長崎市から電車代とバス代を自分で支払って、後は徒歩でホームまで訪ねて、話を聞いてくださる。この世の中に、こういう熱心なボランチアの人が居ると、アタマが下がる。ありがとう。感謝しかない。
★女性の優しい姿に接していると、ニンゲンは、お金や物資の損得だけではない。それを越えた、心の奥の底辺に、他人を助ける、寄り添う、何らかの心情の水脈があるのを感じる。その水脈に溶け込むのが嬉しいんですね。ボクが。
★聞いてくださるだけ。こちらはシャベルだけ。意見や教訓は全く言わない。ただ、こちらの言葉の最後を、確かめるように繰り返すだけ。だから肩が凝らない。何でも気安く語れる。傾聴には、秘めた「体の調子と心の動き」「苦情」を自由に語れる場所・時間だと理解した。アタマの中の整理にもなる。1時間半はまたたく間に過ぎた。もう、お別れです。出会いとは、不思議です。なぜ私の処に来る縁が出来たのだろう。
★人生の反省も心をよぎる。内心を言えば「清く生きる憧れはあったが、細いヤブ道にも、フラフラ誘われるのが、ジンセイだった」

2018年9月16日日曜日

敬老祝賀会。来客の家族で賑わった。長生きは恵み


敬老の日の前の日。「敬老祝賀会」。ホームで、1年を通して最大のイベントは、この日だということが分かりました。諫早市長さんが来られる。祝辞を述べられる(写真)。「昨年は大雨で来れなかった。その前は台風で来れなかった。ホームに来て感じるのは、家族感と隣人愛です」。この後、99歳の女性、88歳の女性が祝賀の花束を頂いた。次いで職員の勤続20年が1人、10年が2人、表彰状と褒賞金を受ける。長くホームに勤続されるのは喜ばしいことです。おめでとう。締めくくりは「幸せなら」を全員で歌った。手を、足を、肩を、ホームでは、もう1つ、「手をつなごう」がある。これが盛り上った。笑いが起こり、和やかな気分になった。撮影は自粛した。
★時間をおいて会食となる。庭にテントも張られて、内・外の会場には沢山の家族が来ているのが分かった。子供さんや孫さん、親戚の人たち、多くの人で賑わった。一緒に食事が出来るのは、入居者たちも大きな喜びだった。トマの席には、法人理事長・萩原神父さん、園長神父さん、瀧神父さん、西山神父さん、湯江修道院の浜田神父さん、養護施設園長の山下神父さん、橋口修道士、高原修道士が居た。それらの場面を見ると、初めて「敬老祝賀会」が1年を通して最大の行事だと分かった次第です。
★喜びを最高に盛り上げたのは、沖縄の太鼓の踊りでした。「ドン、ドン、ドン」と、心を揺さぶられ、「生きよ、生きよ」と叫んでいる声を聞いた。生きていることは素晴らしい。長生きの恵みは、職員さん達のご苦労・介護のおかげです。敬老の喜びは、感謝の祈りでも、ある。

2018年9月15日土曜日

親友だった木下修道士さんの命日。早く亡くして残念

敬老の日が来ると、親友の修道士・木下辰巳さんを思い出す。どうしても彼の事を書きたくなる。その亡くなり方が見事だったからだ。若い頃は、私も彼も病んで、山の修道院で療養していた。彼は肺を病み、私は背骨から膿(うみ)が出ていた。彼と私は歳も同じだったし、彼の優しい性格に親しみを覚えた。
★その後、彼は健康を取り戻して、養護施設の事務長や、ここのホーム・聖フランシスコ園の事務長も勤めた。司会が上手で、手品で皆を喜ばせ、爽やかに弁が立った。
★晩年は愛知県春日井・修道院で暮らしていた。徐々に肺活量が落ちて、ボンベ・サンソの生活となった。それでも教会の信徒に寄り添い、言葉巧みに笑わしていた。
★夏、8月、彼は長野県の白馬に登りたいと願った。長野県飯田出身の彼には何かの思い出があったのだろう。東京の、2人の修道士の手助けを受けて、白馬へ向かって800mまで登った。それが最後の遠出になった。白馬から帰って胸のレントゲンを撮ると、肺は真っ白だった。それでも彼は満足して、命の灯を大切に病気に耐えていた。
★敬老の日は、日曜日だった。木下修道士さんはサンソ・ボンベを引き、鼻から細い管でサンソを入れながら、7時のミサ、9時のミサにも祈った。ミサ後、お茶の好きなお年寄りを数人、修道院の食堂に招き、お気に入りの茶碗とお菓子を出して、茶筅で玉露のお茶をたてて振る舞った。
★その日の夕方、修道院の食事のとき、谷村神父さん(故人)と、末吉神父さん(故人)と、彼と3人で食卓をかこみ、その後で、彼は京やきの茶碗、クタニ焼の茶碗を出して、ゆっくりと玉露をたてて、2人の神父さんに振る舞った。そのとき彼は言った。「お茶の心は、感謝の心。人に対して、まごころを尽くす。相手を、もてなす心です」
★翌朝、ミサに出ないので、2人の神父さんが部屋の戸をあけると、ベッドの上で木下修道士さんの呼吸は止まっていた。枕辺には、修道院に入会する前の若い頃の写真を7、8枚、葬儀に飾る写真、戸籍抄本を置いていた。享年74。多くの信徒が葬儀に参列し、彼の死を悼んだ。ある人が、ポツリと言った。「木下修道士さんの人徳やね。彼は隠れて、いいこと。祈りに支えられた生活をした人やね。一言でいえば、茶人、俳人、聖人だよ。日本的な文化を大切に理解し、その奥に福音を見極めていた。聖人を目指していた」
★アンブロジオ・木下辰巳修道士が亡くなって、16年になる。遠い昔の話になったが、今を生きる私の手本、模範になる。

2018年9月14日金曜日

月下美人の細い葉に、小さな2つの芽が出てきた

エライものですね。月下美人の弱弱しい葉から、また花らしい2つの芽が出てきました。こんなに細い葉から、あのような豪華な花が、しかも1夜の花が咲くのか、見守りたい気持ちで写真に撮りました。
★老いて、ホームに居て、目もショボ、ショボになっているが、育つ物には目も輝いてくる。楽しみでもある。
★「高齢者や、病者に寄り添って、苦しみの時間を共有する。これを可能にするのが一番難しい。無関心が多い。叫んでも、望んでも、願いは届かない。置き去りにされる現実」
★そうだ、この小さな2つの芽に、寄り添ってみよう。隠れて、語らぬ芽と共に、静かな時間を共有してみよう。自分の心が豊かになるやも、知れない。
★午後から、ホームの医務室で、眼科の女医さんの診察がある。

2018年9月13日木曜日

明子さんのお花。医院で、知能テスト。合格の30点

近所の明子さんが、毎水曜日、夕食前の30分ほど、自室に来て談笑される。昨日が、その日だった。明子さん「きょう、なんの日だか、知っている?」「知らない」「わたしの誕生日よ」「ええ、そうなの。おめでとう」。明子さんとは長いお付き合いです。入居のときから、この4年間、毎週来てくれて励ましを与えて頂いている。誕生日にあたり、子ども達から立派な花が届いたという。ホームのお花の係りの職員さんに頼んで、教会に飾ってもらった、とも言う。写真がその豪華なお花です。
★きょうは朝から長崎・ヨゼフ・クリニックへ。あいにく高原修道士さんが不在。代わりに岩田事務長さんが運転してくれた。途中、岩田さん夫妻で、イタリア巡礼に出かけた話が聞けた。娘さんのシスターがローマに留学している。ジャムさんの親切な案内も感心した。
★医院の待合室に患者さんは3,4人だった。名前と「ブラザー」付きで呼ばれて、先生の診察室へ。先生は「とにかく歩きなさい」という。「歩けませんよ。フラフラです」「椅子に座ってでも、いい。両手を前後に、両足を上下に動かすだけでも、いい」「ゼノさんの映画の新聞記事、読みましたか?」「読んだよ。映画は、見られないの?」「DVDが合わないそうです」。そして先生いきなり「知能テストをしよう」「イヤです、いいですよ。突然に、困るなァ」。看護師に連れられて、カーテンに閉じ込められた。アタマを整える。(野菜の10個)。急いで連想した。
★「3つを言いますから、覚えてくださいね。後で聞きます」「わかりました」「サクラ、ネコ、電車」。ホームの一角に、サクラの木々を見下ろす明るい部屋がある。その部屋の角に、ネコ(キイロ)ちゃんを看護師さんが飼っている。(サクラに、ネコ)と、それを、しっかりとアタマに刻んだ。次々の質問をこなしていく。30点満点のうち、30点で合格でした。「ネコちゃん、合格だよ」。写真は、そのネコちゃんです。ホームのお年寄り達に可愛がられているキイロちゃんです。飼い始めて3ヶ月ほどになるかな。「サクラ、ネコ、電車」忘れないぞ。

2018年9月12日水曜日

「マリア」のみ名に親しむ。ホームの礼拝の日に祈る

教会では、「マリアのみ名」の(任意)記念日を祝います。16世紀に、スペインで、マリアのみ名の信心が始まった。ミサの前に司祭は、「マリアのみ名を度々唱えて、マリアさまとの『つながり』を大切にしましょう」と告げた。マリアさまの御名を常に呼べば、必ず助けてくださる。
★マリアのみ名といえば、聖人・コルベ神父の生活における呼吸を忘れてはならない。けがれなき聖母マリアに総てを奉献したコルベ神父は、絶えず「マリア」「マリア」で生きておられた。コルベ神父の修道院では、院内で、修道者たちが出会うごとに、「マリア」と挨拶し、「マリア」と答えていた。『二つの冠』の映画にも、その場面が描かれていた。「マリア」という言葉も、優しい声で、ゆっくりと、信心深く唱えるのだった。また手紙やメモを書くときも、必ず先ず「Maria」と記した。私たちも実際に使っていた。今となっては、その習慣も廃れたが、懐かしい思い出である。コルベ神父を想い、「マリア」のみ名を時々唱える習慣を持つと、心が安らぐ。
★今日は、ホームでは、毎月1回行なわれる「礼拝の日」で、カトリックでない入居者も参加した。園長神父さんのミサとお説教があった。瀧神父さんも一緒にミサを祈った。大曾神父さんは前列で、車椅子で参加して、祈った。大曾神父さんは、ごらんの通りお元気にしておられる。8月10日が誕生日で、91歳になられる。入居して2年5ヶ月になる。大曾神父さんは食事はいつも完食。老いても知識は深い。職員さんから大事にされて健康を保っている。大曾神父さんの人柄が職員たちを引き寄せる。ホームには、上五島出身の入居者女性も数人居るが、大曾神父さんをよく知っている。親戚や隣近所の人がいる。信仰の『つながり』がホームの生活を楽しくしている。
★西山神父さんもお元気で居られます。修道者の入居者は4人です。
★明日は、長崎・ヨゼフ・クリニックの定期の診察日で、朝、早くから出かけます。

2018年9月11日火曜日

入江さん、ゲンキです。93歳。皆に囲まれて、幸せ

先月の8日でした。食事のとき、隣の席の入江さんが、トマに呼びかけた。「あーた、は、90な。90には、見えん。70にしか、見えん」。トマは答えた。「そーたい。90たい」
★次の日、また食卓で言った。「あーたは、ほんとうに、90な。60にしか、見えん。その歳から、また有名に、なられまっせ」。トマは大きく笑った。
★その次の日だった。入江さんは発熱して、諫早の病院へ入院した。寂しい日が長々とつづいた。トマは2度ほど、入江さんを見舞ったが、写真も撮ったが、日記に載せる気持ちにならない。しっかりと手を握り締めた。今月の8日、入江さんは退院した。
★今日の昼食後の写真です。右は看護師さん。左はホームの女性。温かく見守られています。先月、8月1日に誕生日を迎えて、93歳になった。入居して3年4ヶ月になる。入江さんは身内のような人です。

2018年9月10日月曜日

男子職員の願い。聖フランシスコ園を盛り上げる

ご覧ください。我がホームのイケメンの男子職員たち。事務長と年配の職員の他、この6人が介護・支援に勤めています。若さって、いいですね。この度、我がホームからも6人のサムライ達が、地元、諫早市・主催のミニ・トライアスロン・リレー大会に出場してガンバリました。「とにかく、我が『聖フランシスコ園』を盛り上げて、その名を知らしめよう」じゃないか。その願いを込めて、この我々男子職員さん達が参加しました。
★総勢78のチームが参加。事務長さんと年配の職員は送迎係りで、3人の女性職員も応援に駆けつけて声援をおくった。「干拓の里」を出発して、干拓の地をめぐる競技です。①先ず4Kmを走る。②バトンタッチして、プールで200m泳ぐ。③4.4Kmを走る。④自転車で8Kmをこぐ。⑤2.7Kmを走る。最後は、これが、この競技の特徴です。⑥ガタ・スキーで150mをすべる。写真の通りです。有明海だからね、ガタ・スキーは見ものだし、楽しいよ。汚れたままで2.7Kmを走り、「干拓の里」に、ゴールとなる。トライアスロンだから、激しい運動の連続です。
★競技の結果ですか?まだ何組も後続のチームが居りました。初めての大会参加ですからね。『聖フランシスコ園』の名のもとに頑張ろう、今年は参加してみようと盛り上った事に意義がある。若い力は溢れている。走ったり、泳いだり、自転車をこいだり、ガタの中をドロまみれになっても蹴飛ばして進んだり、そのチカラが愛情になって、我々ホームの入居者の方に吹いてくる。彼らの話を聞いただけで楽しいでした。「おお、イケメンどもよ、やる、じゃん」と心地よい爽やかさを感じました。「ホームのためなら、エンや、こーら」。その意気。

2018年9月9日日曜日

月下美人。闇に光る豪華な花。人知れず見事に咲いた


ホームの鉢物の場に、鉢に植えた「月下美人」が昨夜から今朝にかけて咲いた。写真の順序は、上の左から①、右へ②、中央へ③、下の左へ④、最後は右⑤とすると、花の状態の時間は、①8日20:12。②8日21:20。③9日00:39。④9日00:39。⑤9日08:43となる。今夜、咲くのは分かっていたが、夜中は起きれない。撮影は夜勤の男子職員さんに頼んだ。見事な写真が撮れました。
★月下美人は本当に不思議な花です。満開の時間は、ほんの僅かです。(何分間、満開だったのか分からない)。秘めて、静かに、それでも美しく、せいイッパイに咲く。誰も見ていない。それでも輝く大きな花が咲く。しかも人知れず、1夜だけ咲く。朝方、みんなの目にうつるのは、しおれた花の姿だけです。その、あっけない姿を見つめながらも感心しました。
★子どもの頃、よく言われました。「誰も見ていないと思うなよ。オテントウサマが見ておられる」
★入江さんが長い入院生活から、ホームに退院してきました。

2018年9月8日土曜日

送られてきたブドウは、様々な思い出を告げていた

広島市の岩本さんご夫妻から、見事なブドウが送られてきた。お店で買った物ではなく、息子さんの経営する果樹園で収穫したブドウです。左の品種「ピオーネ」。右は「クイーンニーナ」。おいしい、甘みがブワーッと口の中に広がる美味しさです。
★岩本さんとのご縁は昭和50年にさかのぼる。この頃、聖母の騎士誌で募集して、長崎・平戸・五島の巡礼「オラッョの旅」を主催した。その頃、八智子さんと、母親のヨシエさんが幼い子供をつれて参加した。ポーランド巡礼も2度参加された。私も広島へ出かけてお世話になるし、記事にも書くし、それ以来のお付き合いです。
★去年の11月には、ご夫妻で、ホームにお見舞いに来てくださった。ご夫妻は、広島で、タクシー「エンゼル・キャブ」を経営しておられる。私が最後に広島へ出かけたのは、4年前の6月だった。お宅におじゃますると、床の間に、私が描いた「ブドウ」の掛け軸がかけてあった。お母さんのヨシエさんは91歳まで会社の会長をつとめて、5年前の七夕の前日に亡くなった。お墓参りをした。
★八智子さんに問うた。「ご主人と、大きな会社を抱えて、その背後には多くの社員と家族を抱えて、大変なご苦労があるでしょう。人と人と、うまく、やっていくのは、どうしていますか」。八智子さんは答えた。「ギブ・アンド・テイク」(与えて、そして、いただく)。与える姿勢、何でも、いいのです。従業員も事業主も、お友達。その時々によって、その人が欲しい、親切、時間、お金も、物資も与えます。結果的に戻ってくる。自分も幸せになる。自分が困ったとき、なぜか、うまく事が運んだ経験があるでしょう。自分だけが、トクしようと思うな。母(ヨシエ)は、『ママを、だましても、だまされない御者(神さま)が居るのよ』と教えた。難しいことの中でなく、やさしい言葉の中に、人間の生き方があるような気がします」
★昨夜、携帯でお礼の言葉を述べた。「広島へ、来んしゃーい」。車で迎えに来るという。「イヤ、イヤ、それはムリでしょう」

2018年9月7日金曜日

人情が、思いやりが、老人の手を引き上げて助ける


ホームの食堂は、こんな具合です。ホームの人たちの顔は写されない。個人情報ですからね。テレビでも皆、ボカシテいる。まあ、この写真は後ろ姿だから、誰が、誰か、分からない。載せても許されるでしょう。「午前の10時から集ってください」とアナウンスがあった。食堂に集まったところです。定刻になると、背の高い男性が来て、「三菱労組からです」といい、敬老の日を前に、ホーム全員にプレゼントを渡された。マイクを持った職員によると、「30年来、つづいています」と感謝していた。贈り物も歴史があるんだな、と思った。去年は「ひざ掛け」でした。今年は「タオル」と聞こえた。労組の人たちも、お金を集めて、老人ホームにお見舞いにやってくる。習慣になっている。人情は有り難い出来事です。殺伐とした、事故や災難が多い世の中じゃないですか。持てる者は、持てない者の手を引き上げる。「よきサマリア人の手」になる。受ける者は、ただ感謝と、奮発と、「よし、ガンバルぞ」しか、ありません。
★誰かが、座るとき、「よっ、こい、しょ」と声をかけた。年寄りには、よく、ある、掛け声ですよね。この言葉「よっ、こい、しょ」から「よ、こい、しょ、いち」を付けると「横井庄一」になる。横井庄一、知らんでしょ。老人は歴史を知っているんだな。戦争が終わって30年ほどして南方のジャングルで発見された元日本兵だ。彼は言ったね。「恥ずかしながら、生きて帰りました」。バンザイ、生きて、いいんだよ。生きることが、イチバンだ。彼は、耐えて、生きて、良き人生を送った模範だった。

2018年9月6日木曜日

諫早の阿野さん訪問。マザーテレサが亡くなった日

諫早の阿野さんが、白桃ゼリーを2箱さげて、見舞いに来た。大きなカラダだね。ヒザは大丈夫か、の話から入った。82歳になるという。長崎の聖コルベ館の隣、聖母の騎士幼稚園のバスの運転手を勤めていた。その頃から知っている。「何年、勤めたのか、ね」「20年近く」。今は諫早に住んで、諫早教会で祈っている。カトリックで「阿野」といえば、上五島の舟隠(ふな・かくし)だろう?「イヤ、うちは祖父が、五島の久賀島」。阿野さんは、今も長崎・聖母の騎士のルルドの水を汲みに行くという。信心の熱心さに、心を打たれる。
★阿野さんとの話は、諫早教会の主任司祭を勤めて、教会を建てた中島万利神父さまの思い出になった。99歳で亡くなる。「神父さまとは本当に懇意にしてもらった」。魚釣りとお酒の話になった。万利神父さまの話は本当に楽しい。トマも親しく声をかけて頂いた。
★話は変わるが、昨日、9月5日は「マザーテレサが亡くなった日(1910-1997)」であった。1982年には聖母の騎士も訪問した。マザーテレサのシスターたちが大分の別府に修道女院を建てて活躍している。聖コルベ館にも巡礼に来ていた。シスターたちに、マザーテレサの直筆のサインを見せると、感激していた。
★マザーテレサの言葉。「あなたが神を信じていなくても、それは私の問題ではない。私は信じていますから。キリストが、困った人の形で私に現われている。それが私の関心事です。私の行為を通して、その人が、神は私を愛していると、少しでも思ってくださると嬉しいです」