★写真は小学生のボクだ。「幸一」が名前。親は「幸福に、なれ」と願い付けたのだろう。ある本によると、「幸」には、3つの意味がある。①『さち』(物質的に満たされた喜び)。②『しあわせ』(良いめぐり合わせ。モノごとが、うまく運んでラッキー)。③『さいわい』(花が満開のような満足感)
★昭和の初めの日本は、富国強兵。小学生から軍国主義を叩き込まれた。ビンタの1つや、2つはガマンする。その道は、やがて暗い戦争につながる。ニッポンは負けない。神風が吹く、そう信じて、竹やりで、エイ、ヤァ、と突いた。
★昭和20年8月、17歳のとき、物凄いバクダン原爆が長崎に落とされて、浦上は廃墟となって終戦。全く酷いバクダンだったが、ボクは『さいわい』に生きていた。原爆で、母を失い、家を失い、孤児となる。明日から如何に生きるか、決断を迫られた。
★母が残した信仰のおかげで、幸いに、ポーランド人修道者たちに救われる。高校まで与えられたが、その後、重症の結核・病気に長年、苦しむ。死の手前まで追い込まれた。当時、結核の薬は庶民には入手困難だったが、修道院に居ておかげで、新薬の薬が与えられて、ふしぎと快癒する。これは誠に『しあわせ』だった。
★昭和40年、健康を回復して、修道士として立ち、修道誓願をたてる。新しい幸せの出発だった。以来、40年間は健康が与えられた。ボクにとって昭和は、何を育てたのか、どんな時代だったか、と振り返れば、幾つか思い当たる事もある。
★①学問、知識は人間に必ず必要だが、これは押し付けではなく、自分で求めて行くものだと思う。修道士は、当時の習慣では、学問は与えられなかった。ボクは自分で管区長に頼んで許可を得て、大学通信教育を6年間で、やり遂げた。この努力はボクに自信を与えたと思う。教育実習も行ない、教育免許も取得した。昭和が終わった日、ボクは私立の小・中の校長を勤めていた。
★②子どもの頃に、何でも食べる経験と習慣をつけて、口を慣らしておくのも必要だ。ボクの場合、これは失敗だった。母親は、ボクに食べさせる体験、幅が狭かった。だから海のカキ、イクラ、ウニ、などの海産物は、美味しいとは感じない。広く食を経験して、どの味も吸収する気力が必要だ。食べ慣れたものしか食べないのは、食が細い。
★③マイクを向けると、即座に、まとまったコメントが立派に出来るように、子どもの頃から訓練しておく事が必要だ。自分の意思をはっきりと相手に伝える。臆することなく大衆に告げる。流れるような発言が出来なくて、本当に苦労したし、赤恥も何度も、かいた。
★母が残したカトリック信仰に、更にポーランド人修道者たちの祈りと導きを受けて、守り続けたのは本当に良かったと感謝している。人は、信じ、希望し、愛さなければ、生きてはいけない。確かに、その間、何を、したか。かにを、したか・・・と問われれば、大した事は、していない。しかし恵まれた人生だった、と納得はしている。このような体験と、教訓を得ながら、遠くに去って行ったのが、ボクの昭和だった。
★昭和64年1月7日。昭和天皇、崩御される。昭和天皇を見たのは、1度きりであった。戦争が終わって数年経った頃、全国を行脚され、九州にも行幸され、原爆孤児・戦災孤児の施設をご訪問になった。天皇は、ヨレヨレのスーツを着ておられ、誠実そうな表情に篤く心を打たれた。戦中、戦後、多くのご心労をされ、尚且つ威厳を保たれ、親しみを覚えた陛下に同情する。こうして波乱万丈の昭和は終わった。私は60歳。ちょうど折り目のよい年であった。あれから平成の30年を生きたことになる。
★昭和を一言であらわせば、何と言う字にまとまるだろう。『乱』か、『和』か、『愛』か、ああ、やっぱり『幸』だな、昭和は。