度々紹介している湯江教会は、ホームのガラス戸を出て、屋根のついた道を、10歩はど歩いた、直ぐの所にあります。いつも祈っている湯江教会です。毎朝の「教会の祈り」「ミサ」で祈り、午後からは共同で「ロザリオ」と「晩の祈り」「召命」「司祭」「病人」のための祈りを唱えています。祈ると心が落ち着きます。有り難いことです。今日は湯江教会も、大村の殉教地巡礼と殉教祭に参加し、ホームからも数人が同行しました。
★今日は、心の動きの事を書きます。ホームに入る前のことです。教会で、祈りの先唱者を務める当番のとき、祈りの箇所を間違えることがあった。すると他の者が訂正してくれる。これがイヤなんだな。自分の心にいろいろ湧き起こる「シマッタ」の気持ち。「オレは何んてダメなんだろう」「仕方がないさ。間違えたんだから」「もっと、シッカリ、せよ」など。落ち込む思いが湧いていた事があった。問題は、その『ココロの、ワダカマリ』が何分間つづくか、です。悔しさ、愚かさで、結局、祈りの十数分、こだわり続けたことがあった。今、思えば、人間の心中は、複雑、微妙だと、アタマを振る。
★その場所を変えてみると、ようやく、ココロは治まる。つまり場所を変える、これが大切だと思う。フンイキを変えるのが、ストレスの解消法になる。「誰だって、間違いは、あるさ」。そう納得したい。
★偶然、30年ほど前の、古いノートを開いてみた。「自分自身を見つめる」と題して、「15項目」ほど書いている。①言葉づかいが荒い。電話も、簡単で、おしまい。これは本当。多分、幼い頃の言葉の名残が、未だ引いているのかも知れない。(これは未だに、90になっても、直らない。丁寧な言葉が言えない。どうしてもダメだ。自分でも、あきれるよ。他人からも度々注意された)。③皆の前に出て、型にはまった形式上の挨拶が苦手。「ご多忙のところ、お出で戴きまして、云々」。これが難しい。挨拶で、人生、本当に苦労しました。特に「乾杯の音頭」。冷や汗ものだよ。⑦暗記が出来ない。覚えが悪いから、挨拶も、まとまらないのかも。次から次へと変わっていくかと思えば、過去への、こだわりも、ある。受けたキズは忘れない。そして最後に、こう、書いてあった。⑮すれ違った後に、かすかな匂いを残すヒト。(当時、椿原の小・中学校の校長を勤めていた)。ああ、そんな時代も、あったな。