敬老の日が来ると、親友の修道士・木下辰巳さんを思い出す。どうしても彼の事を書きたくなる。その亡くなり方が見事だったからだ。若い頃は、私も彼も病んで、山の修道院で療養していた。彼は肺を病み、私は背骨から膿(うみ)が出ていた。彼と私は歳も同じだったし、彼の優しい性格に親しみを覚えた。
★その後、彼は健康を取り戻して、養護施設の事務長や、ここのホーム・聖フランシスコ園の事務長も勤めた。司会が上手で、手品で皆を喜ばせ、爽やかに弁が立った。
★晩年は愛知県春日井・修道院で暮らしていた。徐々に肺活量が落ちて、ボンベ・サンソの生活となった。それでも教会の信徒に寄り添い、言葉巧みに笑わしていた。
★夏、8月、彼は長野県の白馬に登りたいと願った。長野県飯田出身の彼には何かの思い出があったのだろう。東京の、2人の修道士の手助けを受けて、白馬へ向かって800mまで登った。それが最後の遠出になった。白馬から帰って胸のレントゲンを撮ると、肺は真っ白だった。それでも彼は満足して、命の灯を大切に病気に耐えていた。
★敬老の日は、日曜日だった。木下修道士さんはサンソ・ボンベを引き、鼻から細い管でサンソを入れながら、7時のミサ、9時のミサにも祈った。ミサ後、お茶の好きなお年寄りを数人、修道院の食堂に招き、お気に入りの茶碗とお菓子を出して、茶筅で玉露のお茶をたてて振る舞った。
★その日の夕方、修道院の食事のとき、谷村神父さん(故人)と、末吉神父さん(故人)と、彼と3人で食卓をかこみ、その後で、彼は京やきの茶碗、クタニ焼の茶碗を出して、ゆっくりと玉露をたてて、2人の神父さんに振る舞った。そのとき彼は言った。「お茶の心は、感謝の心。人に対して、まごころを尽くす。相手を、もてなす心です」
★翌朝、ミサに出ないので、2人の神父さんが部屋の戸をあけると、ベッドの上で木下修道士さんの呼吸は止まっていた。枕辺には、修道院に入会する前の若い頃の写真を7、8枚、葬儀に飾る写真、戸籍抄本を置いていた。享年74。多くの信徒が葬儀に参列し、彼の死を悼んだ。ある人が、ポツリと言った。「木下修道士さんの人徳やね。彼は隠れて、いいこと。祈りに支えられた生活をした人やね。一言でいえば、茶人、俳人、聖人だよ。日本的な文化を大切に理解し、その奥に福音を見極めていた。聖人を目指していた」
★アンブロジオ・木下辰巳修道士が亡くなって、16年になる。遠い昔の話になったが、今を生きる私の手本、模範になる。