2020年4月30日木曜日

谷村神父さんの命日。2年前に逝く。「死」は老人の最後の作業

谷村神父さんと一緒に撮った、冬の日の写真。トマは重装備の服。谷村神父さんは、身軽な恰好。「この笑顔」が、谷村神父さんの「性格・優しさ」を表わしている。
★きょうは、谷村達郎神父さんの命日です。早いですね。まる2年になります。
★食卓でも話題になった。逝かれる前日、瀧神父さんとトマは、ホームの自室に見舞いに行った。谷村神父さんは、目をあけて、安らかな息をされていたが、言葉は出なかった。瀧神父さんと、トマが、「神父さーま」と呼びかけて、「主の祈り」「アヴェ・マリア」を唱えると、少し口元が動いた。瀧神父さんが祝福を与えた。手をにぎった。手ごたえがあった。祈りも、言葉も聞こえていると感じた。
★滋賀県の出身で、友人が長崎へ旅行に出かけて、ポーランド人の修道士から「聖母の騎士」誌をもらってきた。それを友人から見せられたのが、洗礼につながった。22歳のとき、本修道会に入会する。32歳で、司祭に叙階された。
★谷村神父さんは、穏やかな気持ちの人柄で、誰にでも寄り添って、気楽に声をかけてくれる。一緒に居て、楽しい神父さんだった。トマが入院中も、度々顔を見せて、慰めてくれる。各家庭や、個人なども訪問されて、司祭としての祝福や、祈り、喜びを与えていた。「つながる」人は多く、ホームにも、遠方から見舞い人が来た。
★「人生の豊かさは、出会いと愛。自己から他者へ。喜びと笑顔の分かち合い。谷村神父さまは、そういう司祭だった。そこに人の輝きがあり、豊かさになる」。これは葬儀のときの管区長の説教だった。(日記より)。享年76。
★ホームで人生を終える人を身近に見ていると、これから自分も老人として、日々、死に向かって歩む最後の仕事が残っている実感がある。「自分は、どのように、逝くのか」。今は、まだ未知の未来でしか、ない。おそらく大変な重みのある作業になるだろう、と思う。毎日、生きる喜びに感謝し、「安らかな死を与え給え」と、祈るしかない。
★4月も、最後の日となった。今月は、聖週間や復活祭があったが、コロナの関係で、微妙な気持ちで、この月を終わった。

2020年4月29日水曜日

昭和の日。激動の時代だった。生まれて育ち、初老になった

トマが持っているのは「デジカメ」です。もう古くなった。デジカメからパソコンへ写真が取り込めない。まず写真が入らないと、文章を書くのに、落ち着かない。調子が出ないんですね。
隔離された部屋に、電気屋さんに来てもらって、操作を教えられた。なんとか、やっと、写真が入るようになった。トマが持っているデジカメは、販売していないそうです。
★きょうは昭和の日でした。昭和3年生まれだから、昭和を生きて来たモンです。小学生の頃のトマです。
昭和は激動の時代でした。
小・中学校の時代は、軍事教練だよ。「気合いを入れるぞォ」。きたわれました。イヤな時代だよ。教師に「神武天皇」から「昭和」まで、天皇の名前を暗記せよ、と言われた。30代ぐらいまで覚えたかかな。いまでも、スラ、スラ、出てくるよ。
戦争が終わると、すっかり世の中は変わった。「民主主義」なんて、初めて聞いたよ。アメリカ兵のジープやトラックを見た時、「竹ヤリ」持って、よく戦う気になったな、バカげた話だよ。
平和が、どれほど尊いか。自由か、安心か、よく分かったよ。戦争は2度とイヤだね。アジアの人たちにも大変な迷惑をかけた。申し訳ないよ。
★昭和天皇さまは波乱の人生を送られた。国民は、天皇さまを「現人神(あら・ひと・かみ)」と敬った。「天皇陛下」と声を上げると、みな、直立不動の姿勢をとった。
その昭和天皇さまが、「人間宣言」をして、全国を巡られ、戦争で傷ついた国民を労われ、励まされた。天皇さまは、ホコリにまみれた背広を着ておられた。国民は、天皇さまを見て、泣いたよ。辛かったろうな、同情したよ。
★この写真は、長崎県大村市の戦災孤児の施設、騎士園を訪問された時です。大村の人たちが、歓迎した。この人たちの、息子や、兄弟が、戦争に駆り出されて、戦死しているんですね。恨み、つらみは、なかった。「これからは、よい日本を作りましょう」。みな、そう願っていた。
★きょうは、昭和天皇さまが、ご誕生になった日です。25歳のとき、昭和が始まる。昭和64年1月7日に、87歳で崩御された。昭和から平成に変わったとき、小長井町の施設の小・中学校に居た。昭和は長かった。それだけに、侵略、戦争、屈辱な敗戦、国の発展を思う時、その道は、ドロ沼であり、殺傷であり、飢え乾きであり、焼け野原からの立ち上がりだった。昭和は、なつかしい。そして昭和は、遠くなりにけり。

2020年4月28日火曜日

何事もなく、日々を過ごす。平穏・無事に生きる、幸せでしょう

ホームの戸から見た湯江教会の玄関です。床の、敷石が、その通路。10歩ぐらいの近くにある。ホームの教会ですよ。
コロナの影響で、教会の扉は閉ざされている。寂しいです。
ホームを訪ねる人もいない。新聞屋さんと、郵便屋さん、宅急便さん、食材のトラックだけです。個人の訪問者は、全くいない。いつまで、つづくのでしょうか。「ストレス、たまりますか?」「そうでも、ない。ここが余生を過ごす住み家ですから。足も弱っているし、ね。引きこもりじゃ、ないよ」
★新年度になったから、ホームの入居者みなさんの健康検診があった。尿、血液、心電図。その結果の、園のお医者さんの診断です。「カリウム、少し、高め」と言われた。「くだものの食べすぎだよ」の声。カリウムは腎ゾーに影響がある。「くだもの」は控えめに致します。
★「九十九島センペイ」が好物です。「センペイ」に、賞味期限や栄養成分の表示がある。カリウムの記載は、ない。「センペイ屋」さんに携帯で聞いた。教えてくれる。「カリウムは入っておりません」。安心して、食べれるな。そんな、こんなの、毎日です。
★「歳を重ねても、自分に何が出来るか、考えます。最後まで、主体性は、くずさず、存在感を保ちたい」

2020年4月27日月曜日

「はな」ちゃんの母・絵里さんの、ふしぎなご縁。23年頑張る

「はな」ちゃんのお母さん、絵里さん。高校卒業後、18歳で、聖フランシスコ園に勤めて、23年。こまめに、笑顔で、温かい介護に勤め、がんばっている。
「どうして、そんなに長く、勤める事ができたの?」
「基本的に、おじいさん、おばあさん、好きなのよ」
「20年前のホームの老人と、今の老人たちの感じは、なにか違うこと、ある?」
「そーね」と、考え、しばらく答えが出ない。
「車椅子の人、居た?」
「居ましたよ。静養棟があった。20年前は、元気な人が多い。日曜は、パン食だった。老人たちは、初田園長神父の造った「赤い屋根ハウス」で料理を作っていた。自室で、職員が食べた思い出もあるよ」
「北海道・函館で生まれて、なぜ長崎へ? 近所の『おばさん』に連れられて来たんだってね」
「そう、なのよ」
「その『おばさん』のこと、教えてくれる?」
家の近所の「おばさん」との出会い。人生は、1人の出会いで、大きく変わる事って、あるんですね。「ところで、その『おばさん』って、何者?」
初めて、「おばさん」に就いて教えてくれた。函館のおばさんは、近所の知り合いの女性。その「おばさんは、18歳のとき、長崎へ来る。オランダ坂の「ユース(宿)」で、3年間ほど働いた。毎日のように通っていたのが、聖母の騎士だった。中村修道士や、セルギウス修道士を知っている。
函館に戻って、おばさんは、ガソリン・スタンドで働いていた。その近所に、絵里さんの家があって、絵里さんが、3,4歳の頃から、兄3人といっしょに、スタンド周辺で遊んでいた。それが摂理の出会い、知り合いの、おばさんです。
絵里さんが、中高になると、おばさんから、函館トラピスト修道院へ連れて行かれる。トラピストの日本人の神父さんから勧められて、長崎・聖母の騎士へ行くことになる。中村修道士さんに会って、「長崎で働きたい」。ホームの園長・初田神父さんに面会して、就職した。平成9年4月だった。セルギウス修道士さんも知っている。平成27年に結婚して、ホームの湯江教会で式をあげる。皆さんから祝福された。こうして「はな」ちゃんが誕生することになる。
★「おばさん」との出会いが、北海道から長崎へ。ホームの職場に人生を決めた。今度は「はな」ちゃんに、どんな人生が開かれるのだろう。流れ、流れて、つながりがあって、愛と喜びと奉仕のなかで、人のイノチは「はな(花)」ひらく。(初田神父んが造った赤い屋根の家は、今も残る)

2020年4月26日日曜日

「はな」ちゃん、でーす。ああ、カワイイな。4歳になりました

「はな」ちゃん、でーす。4歳、でーす。
ホームの介護職員のお母さん、絵里さんが、「『はな』の写真が出きたわよ」と自室へ持って来た。
「おお、カワイイ、ね」
「3歳の、七五三のとき、北海道に帰って、着物をきせて、わざわざ写真屋さんへ行って、撮ろうとしたら、イヤがるのよ。オビで、締め付けて、イヤ。脱いでしまった。赤いドレスを着せて、撮った。今度、4歳の誕生日(3月2日)に、保育所を休んで、写真屋さんで、着物で、撮った」
「『はな』ちゃんも、成長して、いくね」
「(言い聞かせをすると、最近は、ナマイキになって)ワカッとる、ワカッとる、って言うのよ」
「『はな』の好きな食べ物は、ナンね?」
「アボカド。母と、取り合い。ウチも好きだモン。なにも、つけずに、食べる。キュウリも、好き。母も、好き。1本、ボリ、ボリ、食べる」
毎日、保育所へ通っている。
これまで「登明日記」には、時折、「はな」ちゃんの成長ぶりを載せてきた。写真を見て、応援んしてくれる遠方の人もいる。2016年3月2日に生まれ、16年は、5月、7月、10月と、17年は、1月、3月、10月と載せてきた。
「はな」が、ホームに姿を見せる。ここは老人ばかりだから、皆さんから、かわいがられているよ。「はな」ちゃんの目には、ホームの人びとは、どんなフウに見えているのか。
それにしても、お母さんの絵里さん、18歳で、高卒と共に、北海道の出身が、長崎の、ここのホームに働くようになった。
なぜ、長崎へ。お母さんに聞いてみた。「そこには、ふしぎな縁が、あるモンですな」
★トマは、兄弟なし。姉妹なし。子供の頃、じゃれ合って育った経験なし。座って、足を組んで、その上で、子や、孫を、あやした経験もなし。「はな」ちゃんも、ながめるだけ。人情は、あるのか。豊かさは、あるのか。人の肌の温もりは知っているのか。ああ、わからん、わからん。アタマを、ボリ、ボリ、かくのみ。

2020年4月25日土曜日

大切な日、忘れるな。がん、消えて11年。日記、書いて11年

きのうは、3つの事を、日記に書きました。➀聖コルベの長崎上陸の記念日。②ゼノ修道士の命日。③西山達也神父さんの修道名のお祝い日です。
★大事なことを忘れていました。「登明・日記」を書き始めた日でも、ある。2009年4月24日から書きだした。写真は、その頃の顔だね。あかるい表情だよ。
★だが、その月の2日、木曜日、夕方だった。トイレに行くと「ドヴァッ」と血液が散った。その瞬間の気持ちは、何と表現していいか、わからない。翌日、泌尿器科へ。「ボウコウ・がん」です、とお医者さん。即、入院となる。「ぼうこう」の内側を削る手術。お医者さんは(膀胱を取るか、取らぬか)迷ったらしい。「腎ゾー、取って、膀胱も、取ったら、アウトだよ」
★幸い、膀胱は残した。その年は、6回、入院している。日記を書きだしたのは、膀胱を削った後の、24日。コルベ神父、ゼノ修道士たちの長崎上陸の記念日からだった。「登明日記」を立ち上げた時の気持ちは、深刻で、複雑だったよ。
★治療は、何度か膀胱を削り、次いで、最初は、赤色の薬をボウコウに注入したが、5回入れても、効果は、なし。次に、「BCG」に切り替える。8回シリーズの中程で、幸いにも、ガンが消えた。2009年、あれから「登明日記」を書いて11年。ガンが消えて11年。日記は、生きてきた証(あかし)とも、なった。
★当時の日記に、次のように書いてある。
★「恵まれた人生だったと、肯定したいと思います。人間の一生は、成るべきところに、その人の定めに、入っていく。1つの大きな流れに乗せられていると思います。
★人は自分から望んで、この世に生まれたわけではない。それが『自分』を意識するようになって、家族や、周りの人びとの愛に包まれながら、夜空を見れば、宇宙の広がりまでも知って、自分の可能性を生きてきました。
★生きた意義はあったのか。己の流れは、これ、だった。これしか、なかった。そこに悔いは、ありません。
★『人には、それぞれ役割がある。役割があるから、生きる意味も、あります』。泣いたりしても、終わりは、くる。笑っても、終わりは、くる。それならば、笑って、ほほえんで、今日を過ごそう」

2020年4月24日金曜日

コルベ神父・長崎上陸。ゼノ修道士の命日。西山神父さんのお祝い

きょうは、幾つかの出来事が重なっている日です。
★まず、90年前の、きょう。ポーランドから、長い旅を終えて、コルベ神父と、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士の3人が、汽船・長崎丸で、長崎に上陸しました。
★「マリアを通して、イエスへ」。コルベ神父たちは、真っ先に「大浦天主堂」へ行き、玄関の「日本の聖母マリア」のご像を見て、「ごらん、マリアさまが出迎えてくださった」と喜んだ。何事も、マリアさまから、出発する。
★長崎に着いた3人の写真。左からコルベ神父(36歳)、ゼノ修道士、ヒラリオ修道士(24歳。目を病んで帰国。修道士を全うして71歳で逝去)
★長崎への第一歩が、90年の歳月を経て、宣教、司牧、出版、教育に、福祉などの事業へと発展していく。
★何事も、第一歩が大切だ。その後、続々とポーランド人修道者が来たが、彼らの生活は、清貧、従順、清さを守る聖フランシスコの現代の弟子たちであった。
★きょうは、また、ゼノ修道士の命日でもある。ゼノさんは、東京で、「長崎上陸の日」のきょう、ローマン修道士の話によれば、「長崎に第一歩を印した、その時間に逝かれた」。90歳だったといわれる。
★ゼノさんは、戦後、孤児や災害者、貧困者たちのため活躍した。ゼノさんの「かばん」から、材木や、瓦や、お米、お菓子、助ける資材が不思議に出てきた。
★きょうは、もう1つ、お祝いがある。ホームで生活する「フィデリス・西山達也神父さん」の修道名の記念日です。西山神父さんは、司祭叙階60周年、ダイヤモンド祝を迎えます。
★西山神父さんの思い出は、教皇ヨハネ・パウロニ世、パパさまが日本へ来られるのに際して、バチカンで、パパさまに、日本語を教え、パパさまとご一緒に同行された。私たちは、パパさまの日本語のミサやお話に、おどろき、感動しました。
★フィデリス・西山達也神父さんのため、お祈りください。
★一粒の麦は、生きれば、そのまま、残る。死ねば、百倍の実を結ぶ。

2020年4月23日木曜日

きょうの、神さまへの祈り。早く、心に笑顔が花開きますように

ホームの教会の、祭壇の生け花です。こころでは、毎日、祈る幸せを感じます。
★祈る、こころは、人間だけですよね。「ほこら」があって、そのソバで暮らす、お婆さんが言っていた。
★「人間は、弱い。弱いから、すがるワケやな。神さんは、親のように、な。無条件で、もたれられるな。信仰心や。あそこにホコラがあって、なくならないと思いますよ。人間がおる限りは」。このお婆さんの言葉を、時々、思い出します。
★人間が、動物と、決定的に違うところは、「いのる」ことでしょう。祈りとは、自分の存在以上の、見守る御者に対する敬意、お願いでもあります。人間は、よわい。弱いから、神さまに、すがりましょう。願いましょう。神さまは、親といっしょ、御父です。
★ホームに居て、いま、この世界中に起こっている出来事に対して、出来ることは何でしょうか。それは、そのために「いのる」ことだけです。いまの、この深刻な苦難から、助けてください。健康に恵まれた人には、安心を、病気で苦しむ人には適切な看護・介護を、病者のため不眠不休で見守るでお医者さん、看護師さん、医療従事者の方々には健康を、悲しくも逝かれた多くの人びとには安息を、こころからお願いします。
★「早く、はやく、世界の人びとの、こころに、美しい花(笑顔)が開きますように」

2020年4月22日水曜日

あなたにも主イエスが共に寄り添っている。大丈夫だよ。生きよ

4月19日(日)の日記に、この絵を載せました。
★この絵について、「かぶらってぃ」さんから、「お許しがいただければ、手帳に入れて、持ち歩きたいです」と、コメントを戴きました。ありがたいお願いです。光栄です。素朴な絵ですが、お守りの代わりに、利用してくださると、うれしいです。きっと、いいことが、ありますよ。
★当時、修練所の黒板の脇に、板に描いた大きな油絵があった。その油絵の姿が、これです。
★修練長のミロハナ神父は、この絵を毎日、指さして、「この姿に、なれ。この姿を、覚えよ」と、繰り返し説教した。イエスと共に歩く。主イエスと共に歩くとは、自分の十字架を背負って、文句を言わないで、イエスの十字架(愛)の姿に寄り添う。いや、自分が寄り添うのでなくて、イエスが共に寄り添ってくださる。だから「勇気を、持て」。信仰ですよね。これが修練の日々の授業だった。
★毎日、眺めていた、この絵。イエスの十字架に寄り添う、自分の十字架。描かれているのは若者の姿ではないが、手術に向かう時の気持ちは、全く、この絵の通りの心境でした。
★どんな困難の時にも、常に、イエスが寄り添ってくださる。最初に体験したのが、この時でした。それから、今の歳になるまで、どれほど、この心情を思い出したでしょうか。イエスと共に生きる、苦しむ、喜ぶ、泣き、悲しむ。これが人生です。そこから生きる希望と、前に進む所に、ヒカリが湧いてくるのです。
★「死にたいと、思ったことは、ありませんか」「ありませんね」。原爆を生き抜き、病気を生き抜き、孤独を生き抜いてきましたから。「死にたい?いや、どこまでも生きたいですよ」
★世の中には「死にたい」と思い詰める人たちがいる。いろんな事情があるでしょう。でも、なんとか、自死をやめて欲しいと願う。生きる道を求めてほしい。
★人間が生きることで、肝心なのは、何かを自分が成して、「ありがとう」と感謝されたとき、やっと「人間」をとりもどす。「人は、ありがとう、と、かんしゃ、されたときに、よみがえる」

2020年4月21日火曜日

登明「話の小箱」★魚のドン(首領)で、サラバ長崎。今は湯江

長崎の神父さんが、東京の修院長となって、転任することになった。
★キリシタンの島出身のこの神父さんは、子供の頃から大の釣りキチ。唯一の楽しみは釣りで、釣りの話になると、顔がやんわりと、ほころびる。「私のために、慰労会もお別れ会も、いらんよ。一日、ゆっくり釣りに出してくれたらよか」
★いよいよ別れが近づいた時、これが最後の舟出だと、仲間の神父さんを、3,4人さそって、海に出た。普段は、近くの湾口で釣るのだが、この日ばかりは、本格的に、大洋に出た。
★ああ、これで長崎もサヨナラか。胸イッパイに潮風を吸い、東京では、釣りたてのサシミは食べられんからね、と獲物に期待した。魚釣りのダイゴ味は、ジーィつと待つ間にあるそうな。
★待つこと、しばし。オ、オ、かかったぞ。ぐいぐいサオを引く。たぐる。手ごたえが大きいぞ。シメた。目は笑い、腕は緊張。チカラ、いっぱい引き上げると、なんと、デカイ魚がかかった。見事な鯛の一種だ。体長72センチ、重さ4.2キロ。バンザイ。海上に歓声があがる。「あの魚の後は、4時間あまり少しも釣れなかったモンね」と仲間の神父さん。「ありゃ、魚のドン(首領)やったとバイ」
★主役の神父さんも、トロ箱から尾っぽが出るほどのオナガグロを釣ったのは初めてと、大満足。「この分だと、東京に行っても、いいことがあるかも」とホク、ホク。
★その夜の修道院の食卓は楽しかった。おいしさに湧いた。ただ1人、福井県・永平寺の隣の町出身の老いた修道士のみが、「カワイソウに、ザンコクや」と言いつつも、サシミを食べていた。
★この小話から、もう何十年が経ったであろう。あの魚を釣り上げた神父さんは、ホームの隣、修道院の院長さんになっている。写真の濱田盛雄神父さんが、その人です。
★修道名は「コンラード」。今日が、聖コンラード(修道士)の記念日でした。修道名を頂いている濱田神父さんのお祝いとなります。
★今年、88歳になられます。司祭生活60年、ダイヤモンドは、もう過ぎました。人生には、一生に1度は、大仕事をする時があるでしょう。トマの考えでは、濱田神父さんの大仕事は、聖母の騎士の院長を勤めていたとき、教皇ヨハネ・パウロニ世をお迎えした時でした。
★聖母の騎士の教会は、建立20年が経過して、外面に汚れがみえた。濱田院長神父さんは、広い外面、内面、みな塗り替えました。教皇さまがお掛けになる「教皇さま椅子」「ひざまずき台、2基」など、特注で整いました。寄付を募りましたが、そこが濱田神父さんの手腕の見せ所で、赤字にならずに、立派に、計画通りに行なった。
★濱田盛雄神父さんが、おっしゃる基本は、司祭も修道者も、「礼儀作法・人間としてのマナー」を大切にして、「思いやり・やさしさ」を表わすことです。修道会の地区集会のときにも、それを強調されます。神父は、エライ。そうじゃ、ない。同じ目線で、温かく接しなさい。
★濱田神父さんと言えば、趣味の「釣り」を抜きには語れない。それは「登明『話の小箱』に書いた通りです。湯江でも、休みの日には、釣りに出かける。相手は、松下修道士。こちらも負けない腕前です。歳を重ねても、釣りを楽しむ。これが神父さんの健康の秘訣です。釣りの日の夕食には、豪華なサシミが出る。時々、瀧神父さんは、サシミを食べに行く。
★今日の夜は、教会で、修道者だけが「教会の祈り」を唱えて、その後に、修道院で、お祝いの宴を開く予定です。「コンラード濱田神父さん、もう米寿だよ」

2020年4月20日月曜日

ある日の電話。懐かしい声が聞けた。優しさと愛で、ヒトになる

ホーム内にひびくスピーカーで、「電話です」と呼ばれた。半分、(世話かけるな)。半分、(誰からか、なんだろう?」の気持ち。自室を廊下に出て、10歩ぐらいの所に電話はある。
★ひさしぶり、靖子先生から、だった。「どうして、おられるか、かけたのよ」。元・高校の先生。30数年前になる。「もう、クルマに乗らないから」と、白色の普通車をくれた。その思いが、よぎる。もらった途端に、小長井町の施設の学校に転任になって、結局、乗らなかった。「教会に行けないから、さびしいわ」「買い物に行っていますか」「自転車で行きます」
★ご主人は、長崎大学の哲学・平和学の教授だった。靖子さんは「マリア・コルベ」。ご主人の真司先生は「フランシスコ」。2人は、自宅を改築して、一晩泊りのホームレスの受け入れをしていた。入浴させ、食事を提供し、畳の上で眠らせる。今も、つづけているか、訪ねなかった。真司先生も、自転車、と靖子さん。
★「ご主人さんは、居られますか」「電話の横に居ます」「代わって下さい」。真司先生の懐かしい声。哲学の先生に聞きたいことがある。
★「いま、『赦し』を考えています。今の世の中、赦されない事ばかりじゃないですか。事故や事件や、サギや、イジメや、赦されない。コルベ神父は、強制収容所で、ナチの兵隊を赦しただろうか。イノチを頂いた男性。『身代わりの愛』『お礼を求めない愛』『無償の愛』、本当の『愛』を貫いたからこそ、本当に赦し得た。愛と赦しが、うら、おもて、になっている。お互いに、対等に、和解して、平和が来る。赦しが平和の原点」
★「家族でも、親を誰が見るか、兄弟姉妹で、憎み合いがある。赦せない、と怒る。その姉妹に聞いた。『どうしたら、赦せるか』。答えは『時間と、祈り』と言った」
★「先生、教えてください。『赦しの構造』を」
★「いや、いや、小崎さんが考えている事が、哲学の先端ですよ。聖書の言葉、祈り、大事ですね」と、交わされた。
★仲の良い、靖子先生、真司先生、お声を聞いて、なんだか、ぼんくらアタマが、すっきりしました。足が、こわばって、自室に戻るのに、用心しました。
★「ヒトは人に抱かれて人になり、ヒトを抱いて人になる」(真司先生)

2020年4月19日日曜日

塩分なし梅干し。尿が出る、安心。壁があっても助ける人がいる

とにかく、食べものに、気をつける。減塩、油こゆいものはダメ。肉は、ほど、ほどに。腎臓が、1つしかないため、老いてからは、特に腎機能の低下を配慮しています。「腎ゾー」を大事にしよう。片方の「腎ゾー」で生きて、ちょうど70年になる。我が「腎ゾー」よ、よくがんばったよ。
★茨城県の「まゆみ」さんから、又、また、塩気のない「塩零梅」が送られてきた。高価な食品です。毎度、送ってもらって、ありがとう。「まゆみ」さんとは、聖コルベ館で出会ったご縁がつづいている。「はちみつ」と「りんご酢」で作った梅干しで、楽しく食べています。
★原爆から数年後、腎臓結核を病んだ時は、本当にツラかった。70年前の、あの日を思い出しますよ。自分の人生の一部だからね。聖母の騎士に住んでいて、ミロハナ神父さんに心配をかけた。
★手術の朝は、普通に起きて、ラテン語で祈り、同級生9人と、いっしょに「ルルド」へ登り、聖母マリアへ特別に祈り、歌った。あの同級生、いまは2人しか生存していない。日記に書いているね。「ルルドから帰り、少量の本を風呂敷につつみ、オーバー姿に帽子を手にした時は、休みに帰省する感があった」。1950年1月12日のことだった。
★左の絵は、手術前に、私が日記に描いた心境です。
★いま思えば、手術は、町医者の小さな医院で行なわれた。よく助かったと思いますよ。原爆から5年が経っていた。医療機械も、ままならず。医者は、たったの1人だけ。看護師は居らず、手伝いの男性が、カラ、コロと下駄の音を立てていた。今でも、その音が脳裏になりひびく。修道院からは、体格の立派な修道士が看護に寄り添った。本人は、戦争中は、憲兵軍曹だったと言っていた。
★私は若いから、信心熱心だった。「手術中に、ロザリオを3本唱えた。最後は、唱える力もなく、着き添いの修道士が唱えた。彼に心を合わせるだけだった」。2時間以内に手術は終わる。切り取った腎臓を「のうばん」に乗せて、医者が見せてくれた。それもハッキリ覚えている。
★あの医者のこと、忘れない。戦争中は、軍医として、負傷兵を切り刻んで、治療した優れもの人物だったらしい。だから、テキ、パキと、手術をやってのけた。腕のいい医者に出会うのも、長生きの秘訣だと思う。3年後、また、残る「腎ゾー」も病んだ。ふしぎなモンだね。ここでも、生きるチャンスを与えられた。
★「生きている自分を、せめちゃ、ダメだよ。生きて来た。乗り越えてきた。せいイッパイ、生きなさい」
★ジンセイ、壁に当たれば、必ず、そこに助ける人がいた。苦難を交わして、更に進めば、また壁にブチ当たる。そこにも助ける人が居た。だからこそ、今が、ある。それが、トマの信念、経験です。
★「いのちの、ふしぎのなかに、生きている。尿が出る。なぜ、出るんだ。わからねぇよ」

2020年4月18日土曜日

コロナのまん延で、ホームも静か。マスク、手洗い、消毒に務む

自室の窓から見た、ホームの玄関です。玄関の左側が食堂になっています。
★新型コロナウイルスのまん延で、玄関も何やら静かな雰囲気がします。ホームを訪ねる人も居なくなった。ホームの皆さんも、外出は禁じられている。
★ホームでは、皆さん、全員がマスクをしている。「手洗い」と「手の消毒」を呼び掛けている。ホーム内は、それでも安らかな気持ちです。
★食堂では、トマと、瀧神父さん、大野神父さんは、一緒の食卓です。いつも最後まで、話し込む。もちろん「コロナ」の話も出ます。
★長崎県では、新聞によると、感染者は、17人。死者は、なし。それでも、この後、感染が広がるのが予想される。「テレビをつけると、コロナの話ばかり」と女性の声が聞こえた。そのあと、女性の、こんな言葉も、途切れて聞こえた。「人は、1人じゃ、生きられない」
★いま、人類は、目に見えない細菌に苦しんでいる。「ふしぎな世になったもの」と思います。以前は、戦争や、内乱や、暴動や、見えるモノと戦っていた。それが目に全く見えない細菌と、国境を越えて、世界中で、戦っている。死者も増加。見えない菌に、恐怖を感じます。早く、収束するのが、ただ、ただ、願いです。
★「この世に満足は、ないけれど、小さな喜びを、見い出さなければ、生きてはいけないですね」

2020年4月17日金曜日

ロムアルドさんの命日。人生には、その折々に世話になる人がいる

人生には、その時、その時代に、育ててくれたり、愛してくれたり、お世話になった人がいる。
★原爆後、雨ふる日、ポーランド人修道院の門を叩いた時、最初に迎えたのは、ゼノ修道士だった。「かわいそう、のヒト」。ゼノさんは院長のミロハナ神父さんを連れて来た。神父さんに抱擁される。院長さんが、少年を引き合わしたのが、小神学校の舎監であったロムアルド修道士さん(写真)だった。
★母を亡くした少年を受けたロムアルド修道士さんは、家族の無い少年に、特別に目をかけて、お世話をしてくれた。当時、小神学生たちは、中学・高校合わせて、126人がいた。トマたちの組は、最上級生で、ロムアルドさんに、一目、おかれていた。食堂では、いつもトマの横にいた。食料が不足の厳しい時代だった。
★ロムアルドさんは、長年、舎監を勤めたが、晩年は、兵庫県の修道院に変わった。今日は、ロムアルドさんの命日。1989年没。享年、78。逝かれて、31年になる。今朝は、ロムアルド修道士さんのため、祈りました。
★よく頑張ったと思いますよ。コルベ神父さまが長崎へ来られた翌年には、ポーランドからロムアルドさんも長崎へ来た。戦争の前から、日本の少年たちのため、大変、苦労なさったでしょう。大きな体で、よく働き、生涯を捧げたと感謝しています。優しい愛情を持つロムアルドさんの思い出は、心の中に深く残っている。
★なかでも戦後、10年ほど経った頃、ロムアルドさんは、アメリカから映画を取り入れた。キリスト伝の「キング・オブ・キングズ」や、メキシコの「ガダルぺの聖母出現」「パドアの聖アントニオ」「ロザリオの玄義」など、トマが解説して、2人一緒に、外海、五島、果ては関西のシスターの修道女院を拠点に、大阪や和歌山まで、列車に荷物を積んで、上映に出かけた。
★ロムアルドさんは「ナツメ」が大好きで、「ポーランドでよく食べた」と言った。シスターから食事を頂いた時、その「ナツメ」が出た。ロムアルドさんは、喜んで、タネを、12,3個、出していた。「懐かしい、なつかしい」と嬉しそうだった。忘れない思い出です。確か、シスターは、トマにも聞いた。「あなたは、何が、好きなの?」。ウン?次のように言ったかな?「スルメ、です」(焼いたイカ)
★いま、ロムアルドさんに会ったら、トマは何と言うだろうか?「日本二十六聖人」活動写真で、がんばったよ、かな。

2020年4月16日木曜日

ジンセイ、最後は、欲なし、悩み無し、ありのままの自分になる

パソコンは、部屋の片隅、窓、ベランダの近くで、打っております。考えながら、時々、窓から屋外を見るのです。
★すると、1人の男子老人が、黙々と、花壇の手入れをしているのが目にとまった。静かな時間が、流れている。
★まず、幸せやな、と思います。平和ですよ。争いがない。悩みも、なさそう。春の陽に当たって、背中、ヌク、ヌク。アタマは、アツ、アツ。花たちも、背を「スーット」伸ばして、喜んでいる。見ている、こちらの目も、ゆるんだ。
★ジンセイ、最後は、欲は、なし、悩みも、なし、ありもままの自分になる。「それで、いいのだ」。背伸びする事もない。
★こんな話を思い出した。ある医者さんが、嘆いていた。全力で、医療に当たっても、人間のチカラには限度がある。こんなに尽くしても、亡くなる患者さんがいる。見守る家族の嘆きを見ると、耐えられない。悲しくて、ならない。
★すると、隅の方のベッドで、患者の老人がつぶやいた。「炭(すみ)を焼くだよ。スミを、焼くだよ」。なぜか、きょうは、この話が、思いに浮かんだ。老人は、炭を焼く人だったのだろう。懸命に、自分の務めを果たす、それで、いいのでないか。親身になって、尽くしてあげる。人間には、それ以上のチカラはない。それを受け入れるのも、人間だ。
いま、屋外を見たら、職員さんの1人が、芝生の草を抜き取っていた。デジカメで写した。きょうは、ほんとに、いい日です。

2020年4月15日水曜日

ジンセイ、ラクありゃ、苦も、あるさ。ボケないための挑戦だ

日記を読まれて、「やまびこ」のように、反応が返ってくるのは、ありがたいですね。喜びです。
★静岡県の「ひろみ」さんから、2つの「プレゼント」があった。1つは、針に糸を通す「糸通し」。日記に載せてあったので、気になっていたそうです。ありがたいですね。
★早速、糸通しを使ってみた。糸通しの細い輪に、これまた、糸を通すのが、むずかしい。でも、出来た。良かったですよ。
★2つめは、ボケ防止になる「箱入り娘の大家族」です。玄関には、仕切りがある。奥にある娘の両脇は、父と母です。その両脇は空白になっている。困難を乗り越えて、駒を動かして、娘さんを玄関の外へ出すのです。
★時間が、かかりそう。ウマク運べるか、難易度が高い。見ただけで「ウゥーㇺ」となる。だから、まだ挑戦していない。挑むと、悩むバイね。名刺が入っていて、どうしても分からない時は、ここに84円切手を入れて住所を示すと、教えてくれるそうです。希望はあるな。
★年度が変わったから、看護師さんから「チョット、チョット」と呼ばれて、簡易知能テストが強制的に行なわれるハズです。昼食の時に、その話が出た。「今日は、何年何月何日ですか。何曜日?野菜の名前、10、言いなさい。ウン・ヌン」。あれですよ。80代、90代、ばかりだからね。「この知能テスト考案のお医者さんが、最後には認知症になった」と言ったら、みな、「え?そうなの?」。おどろいていた。
★まあ、人生、いろいろ有るわね。どの道、シンドイもんさ。それでも、投げずに、波に乗って、生きていりゃ、おテントーさんは、チャンと見ていてくれるよ。あんまり下ばかり向かず、上を向いて、深呼吸のつヒトツでも、しよう。

2020年4月14日火曜日

人は、目で見る。神は、こころで、見ておられる。明るい希望を

復活祭は、さびしかった。
★せめて、復活祭の大きな「ローソク」を撮ろうと、今朝、写しました。祭壇前に、生け花も飾られています。
★2世紀(190年頃没)の司教の説教を読みました。「主は小羊として、ほふられ、神として、復活されました」と書いてあった。「神として復活した」と読んだ時、復活の意味がわかり、留飲が下がりました。
★復活後、使徒たちに現われた時、トマは居なかった。トマは「信じない。この手で、主のキズをさわらないと信じない」と強く反発した。そこへ主が出現し、おどろいたトマが言った言葉。「わたしの主よ、わたしの神よ」。主は、神として復活され、私たちと共に生きれおられる。
★ホームの窓から見た今朝の多良の山脈(やまなみ)です。サクラの花も散りました。
★いつだったか、テレビの記者がトマに問うた。「小崎さんにとって、信仰とは、なんですか?」。トマは即座に答えた。「母から、もらった、(タマシイの)遺産だね」。これは今でも、時々思い出して、あの答えは、名答だったな、と満足しています。
★この世に、「人間だけ」が存在するなら、余りにも暗すぎるじゃないですか。殺し合い、殴り合い、格差もあり、飢えた人も多くいる。自然災害には、勝てない。中には、家族の愛情や、社会の美談もありますよ。だが、地球は余りにも、殺伐としていると思いませんか。
★その中で、「人は、目で、見る。神は、こころで、見る」。そういう御方が居られるのは、人間の希望じゃないですか。隠れた所も、愛も、小さな良い行ないも、見ておられる御方がいる。ただ、手を合わせて、アタマを少し垂れるなら、「パアーッ」と、明るくなる。そいう世の中で、呼吸したいですね。
★「信仰すれば、必ず、ふしぎな人生が、開ける。『神の人だ』になる。コルベ神父の生涯が、そうだった。人を救うためには、己れを、捨てる。その実例や。それだけや」

2020年4月13日月曜日

日記を書く楽しみ。見えないけれど、神さまのパワーが欲しい

92という歳は、しんどい、ですわね。
★なにか、このところ、歩くのに、カラダが重く、アタマが、フラ、フラと、するんです。カラダ全体に、老いが来た感じです。押し車が、頼りです。
★「いつ、倒れるやも、知れん」と思いつつも、ひとりで入浴しました。あぶない、ですよね。まあ、おまけの人生と、思っとります。
★昼食を終わると、1時間ほど、ベッドに横になります。「寝とっても、ダメばい」。起きて、日記を書くのです。(ちょうど、ここまで書いたら、めずらしく携帯がなった)。長崎市に住む千草さんの声で、「どんな暮らしをしているか、気になって、時々、日記を見ている」という。
★千草さんは、「この間の、女性と兵隊さんの話、よかったよ。トマさん、らしい。こんな話がよか、ね」と、ほめる。「あの兵隊さん、実は、神学生で、無事に復員したとき、修道院へ帰りたくなかったんだよ。それをポーランド人の神父さんが、無理やり、田舎へ連れに行った。戦争で、いろいろ体験があったんだろうね。戻ってきて、がんばって、神父になって、ホームの園長になった。工作の仕事、大工さんをするのが好きだった。尊敬する先輩だよ」
★千草さんは言う。「彼女は、手紙を送らんと、イカン。虫の知らせじゃないけど、神さまが2人を結びつけたのね。彼女も幸せになったと思うよ」
★日記の反応を耳にすると、ゲンキが出る。
★役者が同じ演技をしても、じゅくれん役者は、セリフ、動作、呼吸に、パワーを感じる。パワーは実際、あるんだな。神さまのパワーって、それと同じじゃないか。見えないけれど、パワーは、ある。

2020年4月12日日曜日

今年の復活祭。さびしい所もあったが、にぎやかに祝いました

復活祭。皆さん、おめでとう。今年の復活祭は、寂しかった。理由は、皆さん、おわかりです。
ホームでは、復活・昼食・祝賀会が行なわれて、山内園長神父さんの「復活・たまご」の祝別からお祝いが始まった。
「たまご」を食べて、復活祭の気分になります。苦しみの人生にも、復活の希望の喜びがある。
前向きに、進みましょう。主と、マリアさまと共に、喜びましょう。皆さん、ニコ、ニコ、だよ。山内園長神父さんは「神さまから、いただいた『いのち』を大切に」と強調しました。
とにかく、きょうの昼食は、ホームの皆さん、全員が食堂にそろった。大人数になります。「たまご」も配られて、おごちそうも、食卓に揃いました。
いつも、お祝いばかりしてもらって、スミマセン。
カンパイも、あり、食事の後では、恒例の「歌」も出ました。瀧神父さんが、皆さんを、うながして、「アーメン、ハレルヤ」を先唱した。皆さんは、手を、パチ、パチ、たたいて、「ハレルヤ」を歌った。これが盛り上がったね。復活祭の喜びが、湧き出てきました。よかった、よかった。今度は、園長神父さんも、歌います、と声をあげた。
ホームの栄養士さんを、紹介します。
勤続、ウン十年で、ホームの食事を考えて、研究して、珍しもの、食べやすいモノ、アタマをひねって、献立を考えおられます。
トマは、「くじら料理」がダメなんです。匂いが、どうも、なじめない。その代わりに、「くじら抜き」の一皿を出してくれる。きょうが、そうでした。しかし、料理が多くて、その一皿は、残していた。すると、栄養士さんが近づいてきて、「あら、たべないの?」「もう、ハラ、イッパイ、だよ」。栄養を考えた料理で、皆さんは、長生きです。
園長神父さんも、がんばった歌うね。
「こんな、え、え、事って、ありますか」
みんな、いっしょに、笑って、歌って、歳をとろう。いまこそ、国境を越えて、人間みんなが、手をとりあって、仲よくするよう、求められている時じゃ、ないでしょうか。
聖フランシスコ園。アシジの聖フランシスコ。こんな、いい聖人を名前にいただいているホームは、聖人の精神で、前に進もう。前向きに、老人の足音は、トツ、トツと、小さいけれど、背中には人生の貴重な体験を背負って、誇りに生きている。

2020年4月11日土曜日

食卓をかこむ、1人、1人の道は違うけど、恵まれた人生だよ

ホームの庭のすみに、鯉のぼりが上がった。まだ5月は遠いと言うのに、はやばやと、空に「こい」が舞う。幸せを呼ぶような、困難にも負けるな、というような「こい」が踊る。
★老人は、日、一日、一日を大切に生きている。それは与えられた「イノチ」だからです。骨のズイから知っているからです。
★きょう、ホームで、変わったこと、ありました? ありましたよ。なんですか? あのね、食堂の席替えがあったんです。車椅子の人や、腰が曲がって、押し車の人の席は、もう決まっているのです。たいていは、入口の近くですね。
★ゲンキな人、押し車でもチカラがある人、約20人は空いた席を確保するのです。そりゃ、そわ、そわ、しますね。アッと言う間に、思い思いに席につく。新しい席は、6人がけ。トマと、瀧神父さんと、大野神父さんが、いっしょの席になりました。今までは、3人とも別だった。あとの3人は女性で、カトリック。トマが「いっしょに、祈りば、しようか」。瀧神父さん「トマ、おまえが、あげろ」「父と子と聖霊のみ名によりて、感謝のうちに、この食事をいただきます。こころと、からだを支える糧としてください、アーメン」
★他人と、歩んだ道は、違うけど、1人、1人が、召された人生だった。比べなくても、いい。トマは、トマで、恵まれた道を、歩いた。トマしか、歩めない、この道はー。十分、満足して、よい。苦しみ、あっても、この道なのよ。道に、ユーモア、食卓にも、笑いを、ゆとりを残す。これが、ホンモノ。デキタ人間といいます。

2020年4月10日金曜日

小さな好意、愛が、大きな恵みとなり、生きるチカラを与える

「受ける恵み、与える愛」
★写真は、長崎では名の知れた「たらみ」のゼリーです。ホームのトマの所に、年に何回か、必ず持って来てくれる男性がいる。有り難く、受け取って、喜んでいます。
★コロナのまんえんで、買い物も出来ない。ブドウや、マンゴー入りのゼリーは好物になります。ゼリー自体が大きくて、ボリュウームがあるのです。食べ甲斐があるのです。
★持って来てくれる男性は、この人です。去年の12月に撮った姿でした。今度は、写真は撮れなかった。
★入浴中だった。事務長さんが浴場まで来て、「トマさん、お客さんが来ている。コロナで会えないから、荷物を置いて、帰ります、と言われた」と告げた。写真のゼリーが、その荷物でした。
★「ホームまで行って、トマさんに会ってやろう」。そう思って下さるだけで有り難いじゃないですか。ご縁をつづけてくださる。自分で車を運転して、ホームまで来て、小さな好意かも知れないが、受けるトマには大きな恵みになる。
★人生の行為って、そういうものでしょう。小さい愛が、大きな恵みになる。助けられて、助けを受けて、恵みを感じて、「しあわせ」の輪は広がっていく。大げさに言えば、生きる意味も湧いてくる。
★「人って、誰でも、夢があるじゃ、ないですか。ホームに、夢?あるのかなァ。さびしいよ。それでも、一滴の、愛が、降りて来る。信じて、生きて、意味が、ある」
★男性のお宅に、電話をかけた。奥さんが、出た。「あら、たった今、イヌ、つれて、散歩へ出かけたのよ」「散歩?、ね」「しばらく、したら、帰ってくるよ」「イヌって、どんな犬?」「柴犬よ。もう14、5歳になるかな」「老犬だね、がんばるね」「フ、フ、フ」「名前は、何というの?」「ヤマト」。(軍艦大和を思い出した、長崎で、建造したんだったけな)。時間をおいて、また電話した。「ありがとう、ね」

2020年4月9日木曜日

食べる楽しみ、生きる喜び、気力で、胸イッパイに呼吸しよう

生きることは、食べる事ですよね。老人は、食べるのが、楽しみです。食べなくなったら、こりゃ、オシマイだよ。
★ホームで出される食事を食べていれば、充分、栄養があります。実際、皆さんは、長生きなんだな。食事のおかげよ。
★きょうの昼食のメニューです。サンマのショウガ煮(骨は抜いてある・老人むきだね)、ポテト・マカロニ・サラダ(ややこしいな)、野沢菜づけ(トマは塩分制限で、無かったのかな)、青さのスマシ汁、パパイヤ・メロン、でした。メロンが、おいしかった。初物だよ。トマは塩分制限だから、いつも、つけもの、なし。
★写真の右の奥が、食堂になっている。手前で、時を待っているわけです。こうして食べて、余生を生きる。他者のために、奉仕することも無くなった。寂しい思いも、ある。だが、生かされている、感謝です。モンクは言わないよ。これまで長く生きて来たと思う。「過去を、振り返るな。今を、生きよ」というが、やっぱり、背中には過去がある。「今を、生きる」とは、気力と、希望だと感じるね。気力が失せてくると、顔の表情が違ってくる。カラダの調子が、カオにあらわれる。
★明るい顔で、空気を、胸イッパイ吸いたいよ。ハナから、吸うて、クチから、吐き出して、イヤな思いも、吐き出そう。

2020年4月8日水曜日

登明「話の小箱」お婆さんと神父さんの戦中・戦後の秘話

(登明「話の小箱」お婆さんと神父さんの戦中・戦後の秘話)
★戦争中の出来事。夜の駅のプラットホームで、中年・女性が、男の子の手をひいて、乗り換えの列車を待っていた。
「母ちゃん、列車が、はいってきたよ」
「あれには、乗らないのよ。あれは、戦地へ向かう兵隊さんの汽車だよ」
★そう、話していると、突然、1人の兵隊さんが、あわてたように女性のそばに近づき、「これを、頼みます。送ってください」と短く言うと紙きれを渡して、あっという間に、列車にもどって行った。
★家に帰って、あけてみると、「いよいよ戦地へ行く。元気だから、安心していてくれ」という便りだった。住所も書いてあった。女性は、早速、便りを住所あてに郵送してあげた。
★それから幾年月が経ったであろうか。戦争も終わり、平和になり、女性は、プラットホームの出来事も、すっかり忘れてしまった。
★ある年、見知らぬ男性から年賀状が届いた。「え?だれ?」。あの兵隊さんからだった。女性は、びっくりした。「あの時は、ありがとう。無事、帰還しました」と記してあった。女性は、「よかったわ」と、当時の事を思い出した。多分、兵隊さんは、帰国して、便りの人と連絡して、女性の住所を知ったのであろう。それから何年か、年賀状が届くようになった。女性は、兵隊さんの名前を覚えた。
★それから、また長い歳月が経ち、女性は、お婆さんになり、老人ホームへ入ることになった。入ってみて、オドロイタよ。園長さんの名前が、あの兵隊さんの名前だったのだ。しかも、その兵隊さんは神父さんだった。
★「いやァ、その節は、お世話になりましたなァ」と、老人ホームの園長神父さんは、ペコリと頭をさげて、ニコリと笑った。
★お婆さんは、しみじみ思う。「人間って、どこで、どうして、こんなご縁があり、お世話になるか、わからんモンたい。気持ちよーゥ、お互いが仲よう、せにゃならんと、ですばい。ハ、ハ、ハ」

2020年4月7日火曜日

記憶から消えぬ「幾市叔父さん」。偶然に、祈りの日となった

「虫の知らせ」か、「気のセイ」か。きょう、午前中に、ホームに来てから撮った写真を、何気なく見ていたんです。外海、黒崎の「家族の墓」が出てきた。毎年、お参りに行くが、今年は、行けない。足腰が弱ってね。
★ここに父、母が眠っている。父は北朝鮮で逝ったし、母は原爆で行方不明だから、両方とも、遺骨はなく、写真だけが入っている。
★墓の側面に、死者の名前が刻まれている。左側、トマは、トマの父。クララは、母。そして、ギックとしたのは、その隣、パウロです。左の端になる。幾市、五十三才、と書かれている。逝去の日が、一九四四年四月七日、だった。きょうが、命日じゃないですか。こんな事って、あるんだな。偶然にも、写真を手にして、パラ、パラ、めくっていると、幾市叔父さんの命日に当たった。幾市叔父さんは、父の弟。
★父や、弟・幾市叔父さんが生まれ育った外海・黒崎の集落です。墓地から、海の方を眺めた風景です。北朝鮮で、幾市叔父さんと一緒でした。写真が無いのが残念です。
★優しい、無口な叔父さんでした。家業の「精肉店」で、熱心に肉をさばく叔父さんでした。奥さんが居た。奥さんから、聖書の絵本から、要理を教えられた。
★兄弟は、父を入れて4人でしたが、兄弟で、一番、アタマのヨカ男。佐世保の海兵団に入隊した。黒崎から「海軍」に入ったのは、幾市叔父さんが最初だった。陸軍は多いが、海軍さんは優秀な人材がえらばれていた。第一次大戦に参戦して、従軍徽章と、勲七等瑞宝章を貰っている。時々、立派な箱入りの勲章を見せて貰った。幾市叔父さんも、父と一緒に、北朝鮮の墓地に眠ている。黒崎の墓には、なにもない。
★生まれ故郷を離れて、遠い地で逝くのは、さびしいね。もう、七十何年になる。幾市叔父さんの事を想っているのは、トマ、1人になった。戦争で、死なななかったが、北朝鮮は遠い国だ。才能があったのに、叔父さんの人生は、あれで良かったのか。ひっそりと、隠れた場所で、咲く花も、ある。きょうは、幾市叔父さんのため、祈る日となった。

2020年4月6日月曜日

もっと「ありがとう」「おかげさまで」を言いなさい。励みになる

ネットで注文していた「精製水」が届いた。これで安心しました。夜の睡眠。呼吸が止まる症候群。両方の鼻の穴にさしこむ「CPAP機器」を使っている。機器を回すために「精製水」が必要です。コロナの関係で、地元では品不足になった。ネットで注文を思いつき、申し込む。「どうだろう、果たして来るか」で心配であった。品物が無事に着いたので、ひと安心した。5リットル入り、3品。
★食堂で、食事が終わって、出ようとすると、瀧神父さんが、トマの耳元で何やら、ささやいた。トマは、こう受け取った。「私たち修道者が、職員さんに、『ありがとう』とか、『がんばってね』など、積極的に声をかけると、すごく励ましになるよ」。確かに、修道者の声かけは、チカラになると思う。
★修道院での生活は、そんなにお互いがホメ合うこともない。人柄を充分、承知している。なにか有ったときは、お礼の言葉は言う。しかしホームの生活は、男子も、女性も、職員さんも、いろいろな人が混在して暮らしている。介護したり、介護されたり、単純にみえて、複雑だ。女性職員さんが、食堂の前に居る皆さんに、「お待たせ、していまーす」と大声で、通って行く。負けずに、「お疲れ、さーま」
★その中で、1つ、気がついたことがある。それは人をホメることです。挨拶することです。ホメるのは、タダです。それで人は喜ぶのです。笑顔になるのです。ヤル気も出てくる。こんな素晴らしい手段が、他にあるでしょうか。
★ところが、実際は「ホメる」というのが、難しいんだな。タダなのに、こちらのクチから素直に出てこない。「さわらぬ方が、無難なり」の心になるんだね。『おはよう』『ありがとう』『おかげで助かるよ』『よろしくね』。もっと、言ってあげよう。生活の潤滑油となり、感謝の中に、笑みの花は咲く。

2020年4月5日日曜日

聖週間が始まる。主は苦しまれた。主と共に『杯』を受けよう

ホームの庭の、3つの場所に、ソテツがある。その1つのソテツです。数日前に、数人の入居者によって、葉が皆、切られた。茂っていた多くの葉が切られて、なんだか寂しそう。
★きょうは、教会では、「枝の主日」といって、ミサの前に、このソテツの葉をそれぞれが持って、これから始まる主イエスの受難を黙想しながら、行列するのです。いよいよ今週は「悲しみの週」になります。
★切られたソテツの葉は、教会の入口に準備されていた。しかし「コロナウイルス」の蔓延のため、教会は入場できなくなりました。こんな所にも、影響を及ぼします。
★「主の受難」の始まりです。本当の愛。神の愛を示すために、主イエスの「ゲツセマ二の園」での苦しみや、「十字架の道行き」などの苦難が始まるのです。「我が父よ、この杯、我より去れかし。されど我が意のままにあらず。おぼしめしの如くになれ」
★「杯」とは、苦しみです。苦しみは、痛む。悲しい。望まない。きょうは、この言葉から、1人の親友を思い出した。彼は、私たちが少年の頃からの友でした。彼は、作家でした。地方の「文学誌」に、小説も書いていた。「ボクは、ね。別の名前を、『泉(いずみ)卓也』というんだ。『せん・たくや』と読めるだろう」。彼は「せん・たく・や」(クリーニング店)を経営していた。トマとは、本当に仲が良かったよ。
★その彼が、腹部のガンに罹った。手術前に、トマの所に来て、「頼むから、色紙を1枚描いてくれ。言葉を入れて欲しい。『おおせのごとく、我になれかし』。いま、トマは、彼が書いた字を見詰めている。
★「苦しみから、逃げるな。主と共に、『杯』を受け止めよう。主と一緒に、耐えて行けば、道は開ける」。そういう彼の言葉が聞こえてくる。