とにかく、食べものに、気をつける。減塩、油こゆいものはダメ。肉は、ほど、ほどに。腎臓が、1つしかないため、老いてからは、特に腎機能の低下を配慮しています。「腎ゾー」を大事にしよう。片方の「腎ゾー」で生きて、ちょうど70年になる。我が「腎ゾー」よ、よくがんばったよ。
★茨城県の「まゆみ」さんから、又、また、塩気のない「塩零梅」が送られてきた。高価な食品です。毎度、送ってもらって、ありがとう。「まゆみ」さんとは、聖コルベ館で出会ったご縁がつづいている。「はちみつ」と「りんご酢」で作った梅干しで、楽しく食べています。
★原爆から数年後、腎臓結核を病んだ時は、本当にツラかった。70年前の、あの日を思い出しますよ。自分の人生の一部だからね。聖母の騎士に住んでいて、ミロハナ神父さんに心配をかけた。
★手術の朝は、普通に起きて、ラテン語で祈り、同級生9人と、いっしょに「ルルド」へ登り、聖母マリアへ特別に祈り、歌った。あの同級生、いまは2人しか生存していない。日記に書いているね。「ルルドから帰り、少量の本を風呂敷につつみ、オーバー姿に帽子を手にした時は、休みに帰省する感があった」。1950年1月12日のことだった。
★左の絵は、手術前に、私が日記に描いた心境です。
★いま思えば、手術は、町医者の小さな医院で行なわれた。よく助かったと思いますよ。原爆から5年が経っていた。医療機械も、ままならず。医者は、たったの1人だけ。看護師は居らず、手伝いの男性が、カラ、コロと下駄の音を立てていた。今でも、その音が脳裏になりひびく。修道院からは、体格の立派な修道士が看護に寄り添った。本人は、戦争中は、憲兵軍曹だったと言っていた。
★私は若いから、信心熱心だった。「手術中に、ロザリオを3本唱えた。最後は、唱える力もなく、着き添いの修道士が唱えた。彼に心を合わせるだけだった」。2時間以内に手術は終わる。切り取った腎臓を「のうばん」に乗せて、医者が見せてくれた。それもハッキリ覚えている。
★あの医者のこと、忘れない。戦争中は、軍医として、負傷兵を切り刻んで、治療した優れもの人物だったらしい。だから、テキ、パキと、手術をやってのけた。腕のいい医者に出会うのも、長生きの秘訣だと思う。3年後、また、残る「腎ゾー」も病んだ。ふしぎなモンだね。ここでも、生きるチャンスを与えられた。
★「生きている自分を、せめちゃ、ダメだよ。生きて来た。乗り越えてきた。せいイッパイ、生きなさい」
★ジンセイ、壁に当たれば、必ず、そこに助ける人がいた。苦難を交わして、更に進めば、また壁にブチ当たる。そこにも助ける人が居た。だからこそ、今が、ある。それが、トマの信念、経験です。
★「いのちの、ふしぎのなかに、生きている。尿が出る。なぜ、出るんだ。わからねぇよ」
塩零梅のきっかけになった義母は昭和2年生まれですが、亡くなった父や、私が影響を受けた恩師は、小崎さんと同じ3年生まれです。
返信削除小崎さんの文章を読むようになってから、私にもその時々に助け(人であったり事象であったりしますが)があることに気がつきました。
万が一助けがなくとも「大丈夫、そのときになればきっとうまくいく」と前向きに切り替えられるようになりました。
気づきの機会を与えていただいたこと、感謝しています。
家を離れることができないので、梅干しと一緒に心だけ長崎県まで飛んでいきました。
トマさんの腎ゾー がんばってくれていますね。
返信削除トマさんがよく気をつけておられ、腎ゾーくんも応えてくれているのでしょう。
私も、腎ゾーくんを応援いたします。
トマさんが手術前に描かれた心情は、イエスへの信頼において
自身が背負う十字架を、明らかに宣言しておられるように
受け取りました。
立体的で美しい色合いです。
お許しいただければ、印刷して手帳に入れ、持ち歩きたいように思います。
困難にある時の出会いや交わりは、広く広く繋がっているものと
感じることがあります。氣の交流というのでしょうか、
精霊の交わりというのでしょうか。
心の目で受け取ると、さまざまな救いが用意されているのが
わかります。
「生きている自分を責めちゃ ダメだよ」というお言葉は、
刺さりました。自分の体を大事にすることも、
心を大事にすることも、どちらも神の望みですね。
ありがとうございます。