2020年9月30日水曜日

病院へ行く日。帰りは、遅くなるでしょう。腎ゾーを、いたわる。無の心

早いですね。ステント入れ替えを行なったのは、7月の末でした。あれから、2か月が経ちます。老人になると、月日が流れるのが、ほんと、早か、です。今日は、午後から、諫早総合病院へ。泌尿器科の診察があります。やっぱり、気が重いです。尿の検査、血液の検査。診察のとき、次のステント入れ替えの日にちが、医師から告げられるでしょう。昼から、外出ですから、帰ってから、日記を書く時間、気持ちも、ないでしょう。それで早めに記しました。

★水曜日。職員さんによる掃除があります。有り難いです。男性なのに、掃除機を丁寧に、隅々まで掛けてくれる。掃除をされるトマにも、こだわりが、あるんですね。「こう、して、くれる」「ああ、して、くれる」。ウルサイよね。それでも、これだけ励んでくれる。今日は、午後から出かけるから、あまり時間もない。トマの腎ゾーは、いつまで、がんばれるか。イノチは、神さまのことです。バクダンを抱えて、日々、呼吸している自分を感じます。

★度々、書いていますが、腎ゾーから、ボウコウまで、ステント(管=くだ)が入っている。管が汚れるので、(それが病気)4か月に1度の月日で、交換する。交換手術が、身体に苦痛を与えるのです。腎ゾーも、何十回も、管で、突かれると、機能低下を与えるでしょう。それが憂うるところです。

★「自分のカラダのことですから、自分で耐えるだけです。他人には、ゆずれない」

★腎ゾー、1つで、70年も乗り越えてきた。感謝だね。これから先、どのように生かされるのか、あとは、「お任せ」の心、あるのみです。あまり、暗く、考えないように、しよう。これまで、難関を、生き抜いて来たじゃ、ないですか。沢山のアウトがあっても、乗り越えて来たから、今が、ある。生きてる限り、希望を、持たなくては、ね。

★それでは、病院へ行く準備をしよう。あとは、高原修道士さん、運転、介護、頼みますよ。

2020年9月29日火曜日

3大天使の祝日。ガブリエル=洗礼名。ミカエル=ある神父さんの思い出

「大天使聖ミカエル・聖ガブリエル・聖ラファエル」の祝日です。5世紀に、ローマに聖ミカエル大天使の大聖堂が出来た時から、祝われているそうです。古い歴史がある。

★トマは、生後、洗礼名が、ガブリエル。乙女マリアのもとに神の使いとして「お告げ」を果たした。少年トマは、この霊名が好きだった。親しさを覚えた。しかし修道士の着衣のとき、頂いた名が「トマス小崎」。小崎登明となった。

★朝食のとき、3大天使の話が出た。大野神父さん。「五島の信者には、『ミカエル』の霊名が多いね」
★日本に初めてカトリックを伝えたのは、聖ザビエル。鹿児島に上陸し、島津の殿から布教を許されたのが、9月29日、大天使聖ミカエルの祝日だった。そこで聖ザビエルは、日本を大天使聖ミカエルに捧げた。聖ザビエルの宣教は、鹿児島から平戸へ。現在、平戸天主堂・内部の正面・祭壇の上には、美しい大天使聖ミカエルのご像がある。度々、巡礼して、聖ミカエル像を仰ぐのが喜びだった。もう1度、あのご像を見てみたいと思う。
★ミカエルで、トマが思い出すのが、ミカエル神父さん。「知っている?」。大野神父さん「知らない」。瀧神父さんは、知っている。彼は、音楽好きで、愛嬌のある、愉快な小神学生(中学)だった。上級生のトマは、よく、からかった。それでも、愛嬌を振りまき、まとわり付いてくる。「彼の中に、何か、人を引き付ける、可愛がられる雰囲気を持っていたんだね」。ローマに留学している。
★ミカエルさんは、留学中に、紹介されて、西ドイツ(当時)のある村の神父さんと、その教会の若い女性130人余りの信徒たちの支援を受けていた。ミカエル神父さんから聞いた話によると、金と銀を採掘する村で、4年間で、50万円ほどの寄付金を受けた。有り難い話じゃないですか。司祭叙階のときは、村の神父さんが代表でローマまで飛んで、祝ってくれた、とも言う。
★日本へ帰るとき、ミカエル神父さんは、西ドイツの村と教会を訪ねて、130人の若い女性の皆さんに感謝し、大いに歓迎されたと自慢した。超・有名になったミカエルさん。うらやましいよ。彼が持つ明るい雰囲気が、未来を開いたんだね。彼、本人の話を聞きながら、トマは心の中で(からかって、ゴメンな)と謝ったよ。愛されるのは、ほんに、うるわしいよね。その村の神父さんが又、感心だね。ミカエル神父を、車に乗せて、アルプスを超えて、スイス、フランスへ。2週間かけて、日本行の汽船が出るマルセイユ港まで送ってくれたそうよ。親切な村の神父さんは、別れに、こう言った。「64年のオリンピックには必ず日本へ行くからな」
★23歳で、司祭になったミカエルさん。あの親切なドイツ人神父さんが、オリンピックに来たのか?来なかったのか?結末は、トマに、覚えはない。67年、ミカエル神父は逝った。9月1日が命日だった。34歳。若かったな。50年以上経っても、ミカエル少年、神父の「あの声」「あの愛嬌」忘れない。人生って、ふしぎやなァ、思います。特に、老人になってくると、ね。逝った者の記憶は、今に、つながっている。

2020年9月28日月曜日

チラ、ホラと咲くサクラ。「テレビは、よかったぞ」。弱さを、殉教心に

夏の終わりに、チラ、ホラ咲いた、さくらの花。どうして今頃、咲くんだよ。わからん。理由は、有るんだろう。
★隣の修道院の修道士が、珍しく自室に来た。「夏物の修道服、洗濯、出来たぞ」。洗濯物と、大きなツブのブドウを渡した。80代半ばの修道士。腰が痛むという。「テレビは、見たぞ。トマの人生、総てだな。もう終わってよかぞ。見送ってやるからな」。トマは、ハ、ハ、ハと笑って、受け流した。

★昨夜は、夕食後に、「こころの時代」を、また見た。心が沈みがちな時、これを見ると、なぜか盛り上がる。やる気が出てくる。録画の中の自分から、今の自分に学べる何かが有るんだね。「人間の生き方に、すごく興味があった。その人がどのように生きているか、ウラ側は分からないけど、見たことは真実だから、真実の心で揺れるわけだよね」。ウマイこと言ったな、そう思う。そして最後の、ルルドでの、シメ。それが、よかった。ディレクターが聞いた。『いま、あの、叩いた男性に会ったら、助けますか』。即刻、答えたね。『大丈夫か、は言うだろう』。そして間を於いて、『しかし手を伸ばして助けるか、わからない。コルベ神父さまを知った以上は、そう、なりたいとは思う』。やっぱり、弱いね。

それに比べて、今日は、生月出身の聖トマス西神父と十五殉教者の記念日だった。殉教者の血が、信者のタネとなる。生月にも、何度も訪れた。
「信仰には、厳しさが、ある」と教えられる。
★だが、老いが深くなると、最近、考えるね。血の色って、ザンコクじゃないですか。暗い洞窟、崖っぷち、の感じがする。それより広い野原の大らかさ。安らぎが、ほしい。唯一の、慰めが、マリアさまです。
★復活したイエスは、弟子たちに現われて、言われた。「あなた方に、平安あれ」 

2020年9月27日日曜日

竹細工の古い井戸。懐かし老人の思い、つながる。イモは、凡人の味だな

ホームの廊下。休憩する長ソファー。

竹細工の古い井戸が置かれた。

「めずらしか、ばい」

「よか、よか、こころが、なごむ」

過去の思い出、井戸を懐かしむ。

「こんな、時代も、あったのよ、ね」

水は、大切な、生きる恵み。

皆さん、寄って、見ているよ。
トマも仲間に入り、思う。あの井戸。
ポーランド式の、手巻きハンドル井戸。
町に行って、修道院に帰ると、飲んだ。
ゼノさん、マチアさん、みな、飲んだ。
「なつかしい、な」
新・建物で、埋まって、なくなった。
今は、もう誰も、覚えていない。
「時代の流れに、呑まれて、悲しいよ」
今の世は、便利、快適、スピード。
「スマホ、なし。ガラケイ、だよ」
★食事の話題に、トマが「今日は、ビンセント神父さんの修道名の日だよ」。瀧神父さん、大野神父さん、話題にのって、「どうして、いるかな?」と心配した。アメリカへ帰って、ホームに居るらしい。
★昼食に、「ふかしイモ」が出た。戦争中は、常食だった。あの頃の「イモ」は、ウマかった。イモの味も、変わったのか。「イモ」を、人に例えれば、「凡夫」「凡人」だね。「それで、よか、たいね。平凡に、今日も、ホームで生かされました。★「凡人に、なろう。野を、超え、山を、越え」(青之助)。長崎の聖母の騎士の近所に、こんな句の塔が立っていた。

2020年9月26日土曜日

生きている、喜び。モモ、クリ、3年。カキ、8年。日記、11年だよ

もう、この歳に、なったんだよ。
かわいい、こと。
うれしい、こと。
優しい、こと。
書こうじゃ、ないか。
生きている、よろこび。
ああ、よかったね。
生きているうちが、花じゃ、ないか。
ウン、ほんとに、そうだね。
そりゃ、いろいろ、あったけど、ね。
人の愛は、思ったより、深いな。
それなら神さまの愛は、どれほどだろう。
小さなアタマじゃ、わからんね。
本当の愛を、知る時が、きっと、来る。
★ホームの自室。ベランダ下のコンクリの作業が始まった。トラックは、左の奥で見えないが、そこからホースを使って、コンクリを流し出す。作業員が、コンクリを広げて行く。朝から作業は快調に進んだ。ホームを美しく、快適に、その作業が進められていく。
★ホームで暮らすトマは、幸せか。
入所して、6年になる。
最初は、寂しく、辛かった。
仕事がない。生き甲斐がない。
そりゃ、苦しい、悲しいよ。
だが、毎日、書いた「日記」が、幸せを運んだ。
読んで、支えて、くれている人たちが、いる。
うれしいじゃ、ないですか。
トマの、生きるチカラ、喜びになった。
★ごらんの通り、作業は進み、コンクリが広がった。これなら車椅子も通れるようになるだろう。
★日記のおかげで、ホームという「平凡」な日々を過ごしても、出番があり、それが生きる喜びとなった。
「2人の若者との出会い」があり、「『トマさんのことば』の発行」「写真集・昭和に生きた修道者たち、発行」。それが、「日記を書いて10年」のテレビになり、「こころの時代」のテレビになった。
ホームに居た方が、タレントの実りがあった気がする。
それでも人間は、バカだね。悩むのです。
そんなの幾ら並べたって、なんに、なるか。
当然ですよ、ね。
★だから、結局、「生かされて、いるから、有り難う。自分に、出来る事を、致します。敬礼」と、それだけで、今日のシメにします。これからも、皆さんの「眼差し」頼みますよ。モモ、クリ、3年。カキ、8年、トマは日記を書いて、11年。助かったよ。希望があったよ。「人は、助けられて、生きる」ことが、わかったんだ、ね。うれしか、ばい。

2020年9月25日金曜日

朝の光に包まれ、明るい日。チン、プン、カン、プン。でも希望あり

ミサが終わって自室に戻る。カーテンを開けると、この景色。「ああ、今日も、与えられた」。窓を引いて、胸イッパイに呼吸をする。生きている自覚は、確かに嬉しい。今日から、教会では、修道会の創立者、アシジの聖フランシスコの祭日前の「9日間の祈り」が始まった。13世紀、中世に生きた聖フランシスコの「生き方」は、現代の私たちの心をも引き付ける。鳥も、魚も、小川も、兄弟姉妹と呼び、「太陽の賛歌」を歌った。

★朝の光に包まれるホーム。トマの部屋は、2階の、一番左側のテラス。各人が家だね。皆さん、安らかに暮らしています。廊下で、女性たちの立ち話。「はなしが、チン、プン、カン、プン、なのよ」。(おもしろか、な、なんの意味だろう。語源は、どこから)。パソコンで検索してみると、詳しく出ていた。わけの、わからん、こと。つじつまの合わんこと。ヘンな、はなし。老人が多いところは、よく有る話だね、と思う。

★一難、去って、また、一難。9月は、背中の「皮ふ・がん」切ったじゃないですか。今度は、気がついてみたら、右の手首に、ふくらみが。押さえると、痛む。さわると「こ・まめ」のような「しこり」がある。気になるよ。生きると、あち、こち、痛みが多くなる。看護師さんに相談した。月、金、にホームの医師の診察がある。診てもらいました。「しばらく、様子を、みましょう」。さあ、どうなるか、な。先は、読めない、それが人生。いろいろ有りますな。
★考えてみれば、人生って、チン、プン、カン、プンじゃ、ないか、と思いがち。自分には、わけ、わからん、けれど、それでも、フランシスコの「太陽の賛歌」がある。落ち込む「こころ」を拾ってくれる。助かる、なァ。

2020年9月24日木曜日

園長神父さんの修道者名のお祝い日。パチフィコ。元気で頑張って下さい

                                                       
ホームの園長さん、山内神父さん。修道者の名前が「パチフィコ」と言います。今日が、そのお祝い日です。今朝のミサで祈り、昼食時に、ホームの皆さんから、お祝いを受けました。喜びのコメントする園長神父さん。ご苦労も多いでしょう。園長を勤めて、14年になる。84歳で、ホームの皆さんと一緒です。
★「パチフィコ」の名前の由来の説明がなかった。修道服を着衣するとき、修道者名を貰います。修練長神父さんから、名付けてもらいます。当時は、着衣者も多かったので、修練長も、名前を付けるのに考慮したでしょう。「フランシスコ」や「ヨゼフ」「ペトロ」などは、呼びやすい名前で、なかには「アダム」というのもあった。
★「パチフィコ」は、アシジの聖フランシスコが修道会を創立した時の最初の仲間12人のうちの「兄弟パチフィコ」で、詩人だった、と聞いたことがある。
★山内園長さんは、長崎県の黒島出身。黒島はカトリックの島で、レンガ造りの立派な天主堂がある。その天主堂の前に、園長さんの家があった。子供の頃は、毎朝、ミサの奉仕をして、天主堂の庭で遊び、信仰のうちに育った。聖母の騎士中学に入ったのが、司祭への道となった。イタリアに留学し、ブラジルにも宣教に行った。
★園長さんのアタマは、ツル、ツルに光っているが、黒髪が、フサ、フサ、していた時代もあった。健康に気をつけて、庭の空気を吸ったり、運動をしたり、体操をしたり、体力・保持に努めている。ホームの皆さんの朝食、昼食、夕食のときに、必ず食堂に来て、食卓を回り、声を掛けるのがお勤めです。
★「長」たる者は、どこの場所の「長」でも、良く言われたり、批判されたり、文句を言われたり、必ず有るものです。人間は、限度がありますからね。でも、地道に頑張れば、周りの者は必ず理解し、認めるでしょう。

2020年9月23日水曜日

キリスト聖痕のピオ神父。出会ったミロハナ神父の話。祈りと謙遜な聖人

今日は、教会では、ミサの始めに、「聖ピオ司祭」の記念日です、と伝えた。ピオ神父といえば、有名な、キリストの聖痕を身に受けた司祭だった。50年ほど前に逝かれた。現代の聖人といわれる。イタリア南部の、カプチノ・フランシスコ会の修道院で生活した。人の心の奥を見通すチカラがあり、多くの巡礼者、告解者が訪れた。
★『こころの時代』テレビにも出ていたが、トマが結核・病気のとき、励まし、チカラづけてくれたミロハナ神父さん。
そのミロハナ神父さんから聞いた話です。
★町には、ピオ神父の影響で、大きな病院や、ホテルが出来ていた。ミロハナ神父は告解したいと申し込んだが、切符が必要で、その切符は1週間後であった。「お会いしたい」「聖痕も見たい」。その夜は、修道院に泊めてもらった。
★翌日、部屋に居ると、ピオ神父と、他の2人の神父、2人の医師が入って来た。「診察がありますから」と部屋を出た。定期的に、教会側から、医師による診察が行なわれる。「今日の医師は、とても偉い人で、無神論者です」と神父。しかし診察後、無神論者の医師が、うやうやしく聖痕にキスするのを見た。
★昼食は、修道院で頂いた。司祭が15人ほど、修道士が5人ほど居た。ピオ神父は遅れて入り、床に跪いて、両手を広げて祈った。短い食事で、ピオ神父が立った。司祭、修道士が近寄り、手に接吻した。ミロハナ神父も接吻した。しかし、手袋をはめていた。ピオ神父は、日に1食しかしない。
★信徒が「聖痕」「せいこん」と騒ぎ、自分を見たさに集まってくる。大変、苦しく感じていた。ここには、そんな気持ちは、みじんもない。隠したい。静かでありたい。キリストのご苦難を偲び、人間の罪を償いたい。そして自分は、無以外の、何者でもない。
★ミロハナ神父は、ピオ神父のミサの奉仕を行なった。ミサ中、ピオ神父は、3回、脱魂した。身体の動きが停止し、魂が、神と結ばれる。ミロハナ神父は、天上の喜びに引き込まれるように我を忘れた。ミサ後、聖痕に、じかに、接吻した。大きな喜び、聖なる感動であった。何とも言えぬ香りが、充満していた。ミロハナ神父は、願いを書いた紙片を、ピオ神父に渡して、修道院を去った。
★聖ピオ司祭。霊的指導者として信徒の告白を聴き、病者や貧しい人々の世話に従事して、祈りと謙遜のうちに献身的に働いた。9月23日に死去。81歳。
★トマにとって、なぜか、忘れない聖人です。ミロハナ神父さんのお陰かな。

2020年9月22日火曜日

支えてくれる人、こころ寄せる人、ホームに居ても、希望は、ある

三連休が終わったと、テレビは人の混雑や、車の渋滞を伝えていた。ホームでの生活は、変わりない。トマの部屋から、舗装された玄関の庭が丸見えです。誰も訪ねる気配もない。外出も控えめに抑えられている。何事もなく、三連休は終わった。
★ホームでも、マスクは欠かせない。誰もがマスクをしている。サバ缶とマスクを贈ってくれた人のお陰で、まだマスクは残っている。支える心が、まだ余韻を残して、幸いしているのです。役目を終えたトマにも、思う人が居られるのは、有り難い。感謝です。
★茨城の「まゆみ」さんから「塩零梅」が贈られてきた。塩気の全くない「梅干し」です。毎日、有り難く頂いている。「まゆみ」さんは、北海へ旅したとき、トラピスチン修道女院の売店で、「長崎のコルベ神父」を買った。北海道で、長崎を、買ったわけだ。聖コルベ館にも訪ねて来て、出会いを果たした。13年のご縁がつづいている。
★パソコンに、日記・閲覧の数字が出る。普通、150人から、200人ほどの数字が出ている。更に「統計情報」ページビユーを見ると、毎日、700人前後の数字が出ている。背中のキズのバンソウコウのときは、961の数字が出た。テレビに出たときは、1.000を超えていた。ページビユーって何ですか。これだけの人が見ているのですか。トマには、わかりません。責任、重大ですよ。難しい理屈を書くよりも、トマがどんな生活をしているか、92だからね、どのように枯れるか、見守ってくれているんですね。
★ポーランドの中谷剛さんにお世話になった旅行を載せたら、電話があって「わたしも旅して、中谷さんのガイドを受けました。懐かしいいです」と喜んでいた。「よかったですね」
★「オレが、困って、いるとき、いっしょに、居てくれる人なんて、誰も、居なかった。人生で、いちばん、みじめ、なのは」。マザー・テレサの足音が、する。

2020年9月21日月曜日

「長生きはお恵み」と言われても、ツライ。キツイ。気力と感謝でゴォ

「あなた」と呼べば、「あなた」と答える。山の『こだま』の嬉しさよ。「あなた」「なァんだい」。空は、青空、2人は、若い。「あれから40年」。きみまろ弁に変えたら、どうなるか。「おマエ、お茶」と呼べば、「イソガシイのよ」と答える。部屋の『こだま』の悲しさよ。(もう、これから先は、書けないよ。ムリだね)

★今朝、ミサの始めに、「今日は、聖マタイ使徒福音記者の主日です。また敬老の日になっている。旧約聖書によれば、長生きはお恵みです」と司祭の報告があった。長生きしている老人に何を説くか、これは難しい。ヒト・クセ、フタ・クセ、なければ生きられない。介護の詰所に、トマが書いた字が貼られた。「あなたの人生、すばらしい」。肯定し、受け止めようじゃないか。「喜びも涙も、こころの宝」。そりゃ、人生、いろいろ有るさ。乗り越えてこそ、今が、ある。

★昼食は、「ちゃんぽん」だった。写真が、長崎ちゃんぽんです。たこ焼きも付いていた。ミカンも、そろそろ出て来るね。老人は「最近、食が細くなった」と、ズバリ言われると、ちょっと気になる。食べない事から人間は老いて行くのです。しっかり食べよう。★もう1つ、あるね。老人になると、よく「ものが、無くなる」との声を聞く。自分が忘れたのか、勘違いか。「小崎さんも、ありますか?」と問う者がいた。「ありますよ。母から貰った形見の、大切なものを失くした」「そんな時、小崎さんは、どうしますか?」「探しても、見つからなければ、あきらめるね。だいたい、『もの』は、いつか無くなるし、壊れてしまうと思っている。どこかに有るんだろうけど、縁が無かったんだね。こだわらないよ」。実は、失ったのは、母の形見の「ロザリオ」貴重な遺品だった。今は代わりの木製のロザリオを使っている。
★「ドロ靴は、気にならん。ピカ、ピカの靴。少しでも、よごれると、気になる。よごしたくない。それが、ニンゲンの、こころ、や」

2020年9月20日日曜日

昨日の新聞。アウシュビッツの中谷・ガイドさん。トマもお世話になる

                                                             
昨日の「朝日新聞」に、中谷剛さんの記事が大きく載っていた。アウシュビッツの公式ガイドさん。
トマは10回ポーランドへ出かけた。最後は、25人の同行者と共に、チェコ・ポーランドを巡礼した。アウシュビッツ強制収容所でガイドを頼んだのが、中谷剛さんでした。お世話になりました。2004年の旅行。3本のDVDに記録した。今日、当時のビデオを見ながら、中谷剛さんを懐かしんだ。
アウシュビッツだけで、30分。中谷さんが詳しく丁寧に説明する。貴重なビデオになっている。日本人ガイドの言葉だから、有り難い気持ちだった。確か、昼食は、中谷さんと、一緒に、町のレストランに出て、語らいながら食事をした。ビデオには「小崎修道士」と呼ぶ声も。親しくしてもらって嬉しい。新聞によれば、公式のガイド試験は厳しく、3回目に合格。以来23年になる。お世話になったのは、16年前。中谷剛(たけし)さんの思い出は消えない。
コルベ神父が殉教した「餓死室」には、トマ修道士、1人だけが入室を許された。代表で、声をあげて祈った。旅行メモがある。「今は、厳しくなった。特別な人しか入れない。監視が2人必ず付く。修道服のトマが入る。祈る。地面にキス。巡礼者の1人が『聖母の騎士のルルドの水を持って来た。中へ置いてくれ』と頼む。中谷さん『ダメ』という。水は入れない」。メモを見ると、そんな事があったんだ、と思う。これほど厳粛な場所は他にない。
中谷さんと、一緒に同行した巡礼者たちです。人それぞれ、感じ方や、思いは異なる。戦争という只ならぬ状況にあって、人間の本性がむき出しとなる。人が殺されても、殺しても、何とも思わない。無関心である得る本性。人間の変わりようが恐ろしい。戦争を生きた者は、その現実を直視して来た訳です。なぜ戦争は絶えないのか。平和であることが、退屈なのか。昭和ひとけた生まれのトマには、なぜ日本は侵略者になったのか、まだ解決はしていない。
★「人間やから、な。どんな事も、あり得る。だが、な。イノチと、自由だけは、奪っては、いけない。2度と、繰り返えすな。そう誓えるのも、人間や」

2020年9月19日土曜日

老いても、シャンとしたい「敬老の日」。生きていてこそ、ありがたい

「敬老の日」の行事が行なわれた。「マリアさま」の歌を唄い、山内園長神父さんのお祝いの言葉。「皆さん、家族です。長生きして下さい」。コロナの関係で、理事長神父さん、市長さん、来賓も、来ない。うちわの祝いです。

101歳、1人。100歳、1人。88歳(米寿)が、4人。お祝いを受ける。全部で、73人。ホームで、今日の日を迎えた。トマは、6年が過ぎる。

職員さんの「勤務表彰」も、あった。
20年勤務が、1人。10年勤務が、2人。5年勤務が、看護師さんの1人。
昨年は、30年勤務の表彰が、1人。
一昨年は、20年勤務が、1人。10年勤務が、2人。
その前の年は、20年勤務が、2人。この中には『はな』ちゃんのお母さんも入っていた。18歳、高校卒で、勤務を始めた。
ホームで、年期が入った人が務めるのは、いい証拠です。退職者が居ない。
ホーム特製の「おごちそう」もありました。この他、焼き肉、串焼きも、あった。食べるのも、老人の楽しみです。
お酒は、出ないけどね。
職員も、聖フランシスコのお揃いのシャツを着て、踊るよ、踊る。「もって、こーい」の声もかかる。また踊る。
食事が終わる頃には、歌が出る。まあ、何を歌っても、楽しいよ。手拍子が起こるよ。
マイクが、瀧神父さんに来ると、神父さん、にこ、にこして、1曲歌った。
★どうも、パソコンの「投稿」の手法に慣れません。写真の大きさも問題だし、文章も書きにくい。まあ、写真があって、少しばかりの文章があって、それで、いいのかな。悩むね。
★「敬老の日」の意味を考える。むかしは老人は、経験と知恵があったから、尊敬された。大事にされた。いまは「この老いぼれが」と敬遠される。加齢臭もあるしね。だが、老いても、「シャン」として、いたいよ。

2020年9月18日金曜日

空中浮遊の聖人。飛ぶより、歩ける恵み。パソコン投稿、変わって困る

 
コペルチノの聖ヨゼフ司祭の祝日です。フランシスコ修道会の聖人です。「教会の祈り」と、「ミサ」で祈りました。空中を飛んだ奇跡の聖人だそうです。「空中を、自由に、飛ぶなんて、出来るのかな」単純に、そう、思いますよ。朝食のとき、瀧神父さんに、聞いた。「17世紀の聖人。アシジの聖フランシスコ修道院でも、生活した。空中を飛ぶ、ふしぎに思った信徒たちが押し寄せて来るので、修道院の一番奥の、階下の部屋に閉じ込められた。部屋は、今も残っている。(トマも、見学した)晩年は、オジモの修道院へ。そこで亡くなった。祭壇に、遺体が安置されている。私(瀧神父)も、その修道院に行った。遺体も見ました。パイロットの保護者になっている」カトリックの長い歴史には、いろんな特殊能力を持った聖人が居るんですね。本当に、空中、遊泳したのだろうか。普通の人間には、その能力は、考えられない。飛ばなくても、いいから、せめて、歩ければ、いい。それが大きな願いです。

奄美大島(鹿児島県)の知らない女性から、奄美の焼ちゅう、黒砂糖などの贈り物が届いた。電話をかけて、お礼を述べる。「トマさんには、会ったことはない。ただ、以前、騎士誌の記事を愛読した。『こころの時代』でお姿を見て、嬉しくなった。感動しました。それで、贈りました」「ダンナさんは、お元気ですか」「元気に、しとります」テレビの効果が、今でも、現れている。嬉しいな、思います。感謝しました。
今日、パソコンに向かうと、「投稿」の形式が、変わっていた。今までとは違った、新しい形式になった。老人には、形態が変わると、付いて行けない。とまどいますよ。新しい開拓に慣れるのは、むずかしい。しばらく苦労の日にちが、つづくかな。パソコンの「投稿」は、新しい形式に慣れるしか、ないですね。日記を書く気持ちがあるなら、受け入れるしか、ない。
★居場所と、出番。それが有れば、呼吸ができる。

2020年9月17日木曜日

ホームでの暮らし。痛み、悩み、寂しさは、ないか。そう、ね

ホームの屋上。「複雑なんだ、な。これは」
パイプの入れ替え、舗装の作業がつづいている。
手前の塗りは、見事に仕上がっている。
最後の端のところは、どんな手作業で、塗ったのだろうか。
ホームの建物に手を入れるには、資金もかかるだろう。
我々は、その恩義も考えねば、と立ち止まって、思う。
快適な空間を、提供する。有り難い。
★屋根の下に住むトマの具合は、どうなのか。
押し車に、頼る生活。動くのが「おっくう」になった。
見知らぬ女性から、電話があった。
「偶然『こころの時代』を見て、検索して、小崎さんを知った。寂しいのです。生きるのが、ツライのです」
こっち、だって、ツライんだよ、と思う。
「近くに、誰か、心優しい人は居りませんか?小さな事でも、いい。嬉しい事、楽しい事、見つけなさい」。自分に対する答えでもある。だが、やっぱり「寂しいよ」「楽しさ、嬉しさ、ないよ」
共感の気持ちは、ある。歳をとったら、難しいね、生きるって、確かに。
それでも、自分が、動ける、あいだは、あかるく、えがおで、ふるまおう。けなげな気持ちも、湧いてくる。そんなモンよ。
★以前は、こんな事を考えたメモもあった。
「あなたの、おかげで、今の、わたしが、あります。
そんな言葉をいえる人に、出会いなさい。あなたの人生は、幸せになる」
今の、お前は、どうか?すばらしい出会いも、過去になる。
みっともない、生き方は、したくない。どういう形になろうとも、自分の寂しさ、痛み、弱さを、かきわけて、進むしか、ない。まイチもんじに、行け。

2020年9月16日水曜日

親友だった仲間・修道士の命日。司会に手品に、皆を喜ばせた茶人

左は、マチアさん。右が、木下辰巳修道士。
トマと同じ歳だった。
今日が、命日です。
2002年没。もう18年になるね。
騎士社の事務長や養護施設の事務長、ホーム・聖フランシスコ園の事務長も勤めた。
司会が上手で、手品で、皆を喜ばせ、さわやかに弁が立った。トマの、ライバルだったね。
修道士は、どのように逝くのが、幸せか。
手本を示してくれたのが、木下辰巳修道士だと思っている。
9月15日は、以前は「敬老の日」だった。ある年の敬老の日、日曜日に当たっていた。
晩年、木下修道士は、愛知県の修道院に居り、徐々に肺活量が落ちて、サンソ・ボンベの生活となった。
それでも日曜日のミサは、信徒に寄り添い、7時と、9時のミサで祈った。彼は、「お茶」を振る舞うのが趣味で、ミサ後、お茶の好きなお年寄りを数人、修道院の食堂で、もてなし、喜ばせた。
その夜、修道院の夕食のとき、谷村神父さん(故人)と末吉神父さん(故人)、彼と3人で、京焼のちゃわん、久谷焼きのちゃわんを出して、ゆっくりと玉露をたてて、2人の神父さんを喜ばせた。
その時、彼が言った。「お茶の心は、感謝の心。人に対して、真心を尽くす。相手を持て成す心です」
★翌日、16日の朝、ミサに出ないので、2人の神父さんが部屋をあけると、ベッドの上で木下辰巳修道士の呼吸は止まっていた。枕辺には、葬儀に飾る写真と、戸籍抄本が置いてあった。享年74。多くの信徒が、修道士の死を悼んだ。
ある信徒が、ポツリと言った。「木下修道士さんの人徳やね。隠れて、いいこと。祈りに支えられた生活をした人やね。日本的な文化を大切に理解し、その奥に福音を見極めていた。茶人、俳人、聖人だよ」
★「遠いむかしの話だが、今を生きるトマの手本、あこがれになる」

2020年9月15日火曜日

ブドウの贈り物。悲しみの聖母の日。我が母の人生、幸せだったか

広島から、「ぶどう」の贈り物が、届いた。
3種類、あるんですね。
「ピオーネ」「クイーンニーナ」「シャインマスカット」
ぶどうは、好きだから、喜んだ。
家族が、果樹園を経営しておられる。
訪問したことも、あった。
忘れずに、贈って下さるのは、有り難い。感謝。
★今日は、教会では、「悲しみの聖母」の記念日を祈った。読書に、「聖母マリアには、7つの悲しみが、ある」と書いてあり、「そう、だった」と思い出した。「聖母の7つの悲しみ」のコンタツの信心がある。1連に、7つの「アベ・マリア」。唱えた時期もあった。聖母は、神の御母でありながら、普通の人、以上の沢山の苦しみを、「神のみ旨のままに」受け入れて、捧げて生きられた。
★教会を出た時、私の母は、どんな苦しみを受けて、生涯を過ごしたのだろう、と思った。
写真の裏に、鉛筆で、昭和14年1月1日、40歳、と書いてある。この写真の6年後に亡くなる。
夫を、早く亡くした。
夫の亡き後、商売を切り盛りした。
更に、1人息子の私は、病気・結核に罹る。腰や背骨、肋骨カリエスの私を見守り、苦労が多かっただろう。
子供のためには、苦労を惜しまなかった。生活費、治療費を、どう工面したか。母の祈る姿が、思い浮かぶ。
★私は、母に孝行を尽くしたであろうか。
聖母の騎士に入る前、16歳、17歳の時、働く工員になり、月給は80円、残業すれば100円になった。家賃は10円。充分に生活は出来た。母は家に居て、着物の縫物などで手間賃を稼いでいた。手の器用な母だった。
「幸せ、だったよ、あの頃は」。テレビにも出たが、原爆で、人生は変わった。やっぱり原爆抜きには、語れない。ただ、ただ、行方不明の母が、可哀そうだ。悲しいよ。
★「人間という存在を、理解した上で、この世を去って行きたいと、思います。それだけの時間、92歳という年月を、与えられたことを感謝します」

2020年9月14日月曜日

十字架は、生きて行く「しるし」。苦しみを、喜び、希望に。体のキズ

ホーム・湯江教会の祭壇の、生け花です。
今日は、「十字架称賛」の祝日です。
5世紀から、この日に祝われているそうです。
十字架のシルシは、キリスト信者の証。
誕生の時から、母親は、幼児の手をとって、「父と子と聖霊~アーメン」と言いつつ、動かし、乳を与えた。
十字架のシルシは、呼吸と同じです。
十字架には、救いがある。深い意味を与えます。
人生には、苦しみ(十字架)が一杯ある。聖人たちも、沢山、苦しんだ。苦しみの中に、喜び、希望を見い出す。困難さは有るが、実際、そういう経験者たちも居る。あこがれます。
「弱さに、チカラを、与え給え」と祈ります。
どうしても苦しみ、痛みは、やって来ますから。
★脇から、背中にかけてのキズも癒えました。
これで、また、カラダに「勲章」が刻まれた。
苦しかったよ。
よかったよ。
さわやかな気持ちで、入浴した。
湯の中で、「異物」があった辺りを、手で触れた。
「まだ、生きて、おります」と、感謝した。
「また、なにか、いいことが、あるよ」
★「苦しみが、あったれば、こそ、神に、出会った。
よい人生とは、苦しみのないこと、ではなく、
苦しみに、イミを見い出し、感謝できる人生」
キモに銘じたい。

2020年9月13日日曜日

「赦すこと」の説教を聞き、「きみまろ」の漫談で笑い、昼食は、牛ドン

日曜日のミサ。
司式は、瀧憲志神父さんでした。
福音は「赦す」こと。「七の七十倍、赦しなさい」
これが、むずかしい。
瀧神父さんは、「信頼と、理解と、思いやり。神の愛」を説教した。
「人は、愛なくしては、生きられない。しかし、一番むずかしいのは、赦せる愛です」。これは、トマの思い。
★ホームの生活で、「赦すこと」は、あまり感じない。いま、ホシイのは「気力」だね。人の人生は、自信をつけるために、勉強し、経験をつみ、育っていく。次いで、勇気をもって、突破して、前進して、足跡を残す。その後は、老いて、必要なのは「気力」です。いまは、ただ、ただ、それを感じる次第です。
★日曜日の午前中、「綾小路きみまろ」のビデオが上映。「おもしろかバイ」と参加。30分。よく笑った。人生の、ウラ・オモテを、途切れることなく話す。きまり文句の「~あれから、40年」。人間の気持ちは、変わって行く。見事に、笑いを取る。老人ホームの話も出た。「なにが、ほしいですか?」「家族に、来てほしい」。切なる思いも、心に届いた。笑って、笑って、最後まで、笑った。
★昼食は「牛どん」だった。
ハムらしき物も出たが、残した。
ハムや、ソーセイジは、なぜか、食べる気がしない。
家は「精肉店」で、上等のハムがあった。母は、食べさせなかった。ロシア人が買いにきた。
子供の頃の食べ方が、今にも残る。
子供には、いろんな食材を与えて、好き嫌いを無くするのがよい。真ん中にあるのは、小豆入り泡雪寒。フワ、フワ、して、老人向き。今日も、感謝の1日でした。

2020年9月12日土曜日

「マリア」「マリア」で、挨拶。呼吸も「マリア」。今日が、記念日です

暗い部屋に、黒いカーテン。
モーフをかぶって、横たわる病人。
静かに、修道士が入ってくる。
彼が、小さく、優しい声で、ささやく。「マァ~リア」
モーフを直して、隣の病人にも、「マァ~リア」
ポーランド制作の映画で見た、修道院のワン・シーン。
コルベ神父の映画。「好きだったな、あの瞬間」
修道士たちは、お互いに出会うと、自然体で、「マァ~リア」と挨拶を交わしていた。コルベ神父が、ポーランドに創立した『二エポカラヌフ修道院』でその習慣は始まった。
コルベ神父とポーランド人修道士たちは、長崎へ来ても、聖母の騎士で、その習慣はつづけた。「マリアさまのみ名を呼びましょう」「マリアさまで、呼吸しましょう」。トマも勧められたよ。ポーランド人修道士が居る間は、この習慣は、なじんだ。良かったと思う。「マリア」が、お互いの挨拶であったし、祈りでもある。
「マリア」と呼べば、「マリア」と答える。優しさ、安らぎ、があった。
ポーランド人修道士たちが、次々に、神に召されていき、その習慣は、いつしか途絶えた。残念に、思います。
★今日は、教会では、「マリアのみ名」の記念日です。その信心は、「1500年代、スペインで始まった」と記されていた。「マリア」のみ名は、癒しがある。
★今日は、ホームでは、懇談会が開かれた。職員の代表が、利用者に「10月の行事」を説明する。その後、看護師さん、栄養士さんからの説明もある。「コロナで、外出は、高来町内に限られていたが、諫早市内まで行けます」と緩和された。
★昼食が終わって、廊下に出ると、介護の絵里さんに、ぱったり出会った。
絵里さんが、言う。
「『はな』が、ね。録画した、あれ、見ているのよ。自分で、リモコン、操作してね。『職場のおじいちゃん』って、言ってね。高来中の場面の音楽から、鳴るでしょう。毎日よ。見ているのよ。フ、フ、フ」
「『はな』は、保育所、ね」「そう」
うれしいなァ。『はな』ちゃんが、おぼえてくれて、毎日、見てくれる。
お母さんの絵里さんの「一言」で、今日は、救われました。

2020年9月11日金曜日

突然、女性からの電話。家族を思い出す。ナン十年経っても、縁はつづく

県外の女性から、電話が、かかった。
「だれ、だろう?」
以前、トマが書いた記事を読んで、「ナミダが出た」という。(それで、懐かしく、電話をした)
電話を受けたトマにしてみれば、障子紙に、ポツンと、小さなアナをあけた感じ。向こうに、何者が居るか、わからない。「『こころの時代』を見ました?」「それが、ね。妹から電話があって、『見なさい』といわれたんだけど、見なかったのよ」
トマは、ちょっと、ガッカリ。
「あなたのお歳は、いくつ?」「トマさんと同じ歳です」「ご主人は、お元気?」「亡くなりました」
障子のアナが、開くか、どうか。聞いた。「ご主人、バラを愛していましたよ、ね」「ハイ、沢山のバラを育てていました」「ああ、やっぱり」。障子の穴は、破れて、この女性の家族と、ご主人のことが、わかった。
25年ほど前に、バラを育てるご主人の実話を書いた。彼は若い頃、病気となった。病室の隣に、バラ作り専門家がいて、その出会いが救いとなる。バラ作りに専念。『アンネのバラ』を手に入れて、育てた。
息子が通っていた中学校が、キレル者が居て、校舎の壁にパンチ、天井は棒で突く、荒れた学校だった。彼は、その中学校に、アンネのバラ園を作って、「愛と平和を皆さんの心に」と願った。思いは成功、中学生たちの心は、なごんだ。いつしか非行は消えた。
「いまでも、中学校にバラはありますか?」「ありますよ」。20年経っても、バラは咲き続ける。アンネのバラは、つぼみは朱色。開花するとオレンジ。もっと開くとピンクになる。
ご主人に会ったとき、彼は、トマに言った。「バラの剪定(せんてい)は、強い芽が3つ出ると、2つを摘んで、1つを残すのです。日本の社会と同じで、大輪(エリート)を大事にする。しかし、私は違いますよ。エリートではなく、その花の性格をよく表現したバラに高得点をつけたいのです」
電話の女性の声。「主人とは、同じ歳でした。20年前に亡くなりました。教会にもバラは咲いていますよ」
バラには、何とも言えぬ魅力がある。美しさと多彩、型も色々。香りは抜群。国際性もある。バラの香りは、愛と平和を呼びおこす。
★「いい、話を、聞いた。それを文章に、書く。人に、説法する考えは、ない。舌、足らずだよ。それで、よい」

2020年9月10日木曜日

今日のキズの具合。まあ、まあ、よくなった。パソコン事情、こまるよ

朝から、シャワ―を浴びる。
医務室へ寄った。
ごらんの通り、キズも良くなった。
安心です。もう、ガーゼは、はめない。
だいじょうぶ、でしょう。
手術の跡も、手で、さわれる。
いろいろ、人生には、起こるよ。
シンボウだ、ね。
パソコン、打とうと、開いて、「投稿」をクリックすると、違う画面が出てきた。
画像を、入れたいが、その場所が、わからない。画面も違うし、気持ちが乗らない。
老人には、パソコン事情が、わからない。どう、しようも、ない。
携帯で、ホームの事務室に、事情を伝える。
職員さんが、来て、「もう、新しい形態に、変わっている」と教えた。
「新しい形態」と、「以前のブログに戻す」の、2つを習った。
だんだん、機械も、変わるんだな。老人は、付いては行けない。
「日記」を書くのも、92で、潮時かな、と思う。
画像を入れる方法を知らない。文字の間隔も違ってくる。書く気持ちが、しない。
「以前のブログに戻す」で、この日記を書いています。
★「若さって、なんだ? 切り返しが、早いことか、な。マゴ、マゴ、しない。す早く、答える」

2020年9月9日水曜日

鳥取の名梨「二十世紀」。砂丘、修道士たちの家。与えよ、さすれば

贈り物の箱が、届いた。
あけて、びっくり、「出かッ」。大きなナシ。
鳥取の名梨「二十世紀」
「こんなに、大きかったケ」
二十一世紀になったから、ナシも、デカくなったの感じ。
長年、親交のあるご夫妻の、贈り物だった。
聖コルベ館時代、休暇は鳥取で、お世話になった。
鳥取といえば「砂丘」。砂の山にも、親しんだ。ラクダにも、乗った。乗り心地は、ゴツ、ゴツして、ラクじゃ、なかった。
鳥取といえば、思い出す。修道士たちだけの「修道院」があった。ベルギー人の修道士が、2人。日本人の修道士が、1人。あの人たちは、お元気だろうか。ベルギー人の修道士は、日曜日、教会で、顔を輝かせながら、オルガンを弾いていた。
★奥さんの案内で、修道士たちの家を訪ねた。自分も、修道士。気が合うじゃないですか。「エライなァ」と、イキが、もれた。彼らの家の廊下で見つけた。修道会の紋章があり、ラテン語の文字。
DATE  ET  DABITUR  VOBIS 『与えよ、さすれば、汝ら、与えられん』
このラテン語に、ギョ、ギョ、としたね。何を、与えるか。何が、返ってくるか。人生で、度々経験するフシギな『こだま』だろう。
★昨夜、奥さんに電話した。デカいナシのお礼を述べて、「コロナは、どうですか?」「少ないのよ」。新聞で時々感染症の数値を見るが、確かに鳥取県は少ない。新幹線が来ていないから、らしい。「修道士さんたちは、お元気?」「元気にしています。ベルギー人の1人は、トマさんと同じ位の歳じゃないかね。休暇でも、帰国できないそうよ」。老いゆく修道士さんが心配になる。
★日々の出来事の中から、『つまみ』とって、『つなぎ』合わせて、1つの流れをつくる。それが可能になれば、おもしろい。トマの文章なんて、ダ文だね。でも、文の本心には、それらを持ちたい気持ちは、ある。『きずな』かな。『つなぎ』かな。それを意識して、書いていきたい。
★今日の、脇ハラの『付け替え』。「だいぶ、よくなったよ」と看護師さん。

2020年9月8日火曜日

ああ、やっぱり、生きているのは、すばらしい。喜びがあるじゃないか

「なんで、だろ」「なんでだろ」
皮膚の手術をしてから、なにやら、元気が、失せた。
シャワーを、毎日、浴びる。
浴びた後での、バンソウコウで、失敗した。
大きな、赤い、広がりが、あらわれ、イラ、イラしている。
見えない所なので、経過が、わからない。
今朝も、シャワ―を浴びて、医務室へ寄った。
「少しづつ、良くなっている」と看護師さん。慰める。
「生きているッて、すばらしい」なんて、簡単に、いえないよ。
ここまで書いた時、自室に、「トン、トン」と、音。
「ハーイ」と返事。
1人、コト、コトと、布袋をさげて入ってきた。
「なに?また、アレ?」
2つあったが、1つだけ、もらった。
ホームでは、自室での「モチ」は、食べるの禁止。
でも「1つぐらいは」「まだ大丈夫」の気持ちがある。
パソコンの上に乗せて、デジカメを向ける。
★「ツライ気持ちに、寄り添う者が居れば、小さな行為でも、生きてよかったと、思える人生」。1個のモチで、今日の落ち込みは、救われた。
★人生って、その繰り返しよ。「まだ、歌えるよ。祈れるよ。笑えるじゃ、ないか。それで、よか、よか」。屋外は、台風が過ぎて、快晴だ。

2020年9月7日月曜日

昼寝の合間に、さま変わり。リッパな庭になった。台風が来ても安全

超・大型の台風が、九州に、接近していると、テレビは繰り返し報道していた。
窓から、屋外を、見る。上が、その時の写真。
なにやら、大型の機械に、トラックが寄っていた。
これから庭の舗装工事が始まる。
作業員たちも、緊張しているのが、わかる。
時は、昼食の後だった。
昼、ベッドに横になる。しばらく眠る。
起きてみたら、もう、庭は仕上がっていた。
「早やッ」。短時間で、終わる。
後は、ローラーで、固めていた。
庭が、きれいになる。
台風が来ても、大丈夫だ。
早めの作業は、終わった。ホームの誰もが、安心した。
台風が通り過ぎた、今日の庭です。
大型の台風は、夜中に、九州の西海岸を、北上した。
ホームでも、断水、停電、室内安全などの注意が告げられた。夜は、職員も、数人が、ホームに待機した。
停電もなく、断水もなく、被害は、別段、なかった。
ただ配達の中止で、ミニ・パンが、ジュースに変わった。ホームの人たちは、前向きに、希望して、呼吸している。
★「人は、生まれて、生きて、育って、愛して、老いて、逝く。最後は、火葬場の灰になる。ホームで、終着点として、実感として、見て来た。しかし生きている限りは、人間というワク全体に『こころ』がある。『きぼう』無くして、人間、やって、おれないよ」