今朝は、なぜか、母親のことを思い出した。(絵は、しおうら・しんたろう作『焼けたロザリオ』より)
★13歳だった。不運にも、腰や背骨が腐れるカリエスを病んで、長崎・大学病院外科病棟に入院していた。父は居ない。母が付き添って看病してくれた。母に、本当に心配を掛けたと思っている。おカネは持っていたのだろうか。入院は1年と数ヶ月に及んだ。途中で、治療費が払えなくなって、「学用患者」となり、入院費は無料となった。その代わり、人体研究材料になったり、死ぬと解剖される。この手続きを勧めてくれたのは、病院事務長の深堀さん(カトリック信徒)だった。それを聞かされたとき、13歳の病人は泣いた。母親も泣いた。いま思えば母は生活費にも苦労していたのだろう。当時は福祉の助成金もなかった。
★ベッドで病む少年は、母が買い物に出て、帰って来ると、手提げの中が常に気になった。「本が読みたい」。しかし買うおカネは無かった。それでも少年は頼んだ。今でも覚えているが、買ってきてくれた本があった。「リビングストン」の本だった。スコットランドの探検家、医者であり、牧師でもあった。ヨーロッパ人で初めて、未開のアフリカ大陸を探検・横断して、現状を世界に知らせた。彼は地元に住んで、アフリカの貧しい人たちの治療や奉仕に生涯を捧げる実話だった。戦争の真っ只中、本屋にこの本があったのは、日本の「海外へ進出」の夢が秘められていたのかも知れない。病気の少年は熱心にこの本を読んだ。頁の所々に、挿絵もあった。
★病気の少年は15歳の春に快癒して、退院する。母は、収入を得る為に、介護の経験を生かして、入院患者の付き添い婦として、病棟に寝泊りして働き、金銭を稼いだ。家はなく、15歳の少年は、事務長・深堀さんの世話で、病院見回り職員の部屋にお世話になって、分厚いマットの上に、夜、一人で眠った。寂しい夜を覚えている。食事は、母が介護する病人のベッドの傍で、母と一緒に食べていた。
★食料は配給で、お米は「玄米」支給された。母が、患者のベッドの傍で、敷物に座り、一升瓶に玄米を入れて棒で突いて、白米にしていた姿を忘れない。あの姿の母親に「おかあさん」と、いま大きな声で叫びたい気持ちになった。
★長崎・原爆で、母も、深堀さんも被曝死した。あの頃は本当に苦労したよ。何もかも失われて、新しい世の中が始まった。ただ悲しい記憶だけが残った。