これは昭和29年頃の写真です。カメラを持って何かを撮っているボク。何を撮っているんだろう。
★当時、修道士は個人でカメラ(写真機といった)を持つことは出来なかった。病気をしたお陰で、山の修道院で暮らすことになり、そこに少年のための養護施設があった。施設長の濱田増治神父さんが記録のために興味があり、録音機や写真機などを購入して、少年達の成長を見守っていた。その手助けをしていたのが、ボクと、同じく療養中の木下修道士だった。お陰でカメラは手元にあった。
★この山の修道院に11年暮らして養生したが、中でも忘れ得ない夫妻がいる。五島の信徒で、中島優神父さんのお父さん、お母さんである。1人息子の優さんが神父になったので、自分たちもマリアさまに生涯を捧げようと、山の施設に牛をつれてやってきた。当時は「ジンジ」「バンバ」と親しみを込めて呼んでいた。
★中島夫婦は、私が小神(高校生)の時から知っていた。夏休みになると、私には帰る家がない。中島神父(当時は大神学生)の五島の家にお世話になった。五島で暮らした、あの頃が懐かしい。着いた日と帰る日が米の飯で、日々、イモか、カンコロだった。家のすぐ傍に美しい海があり、泳いだ。お父さんと一緒に、舟で魚釣りにも出かけた。中島さん夫妻は、親のような親しみを感じていた。
★五島を引き上げて、山の施設に来ると、牛乳や、農作物を作り、130人程も居た少年達の食料の糧にした。食料が不足の時代である。「ジンジ」と「バンバ」の存在は、皆さんから「ありがたい」と感謝され、慕われた。牛は何頭にも増えた。
★ところが「ジンジ」には、悩みがあった。焼酎と、タバコが、どうしても止められない。バンバは言う。「キセルのガン首は、ひとつも冷めるヒマのなかごと、喫みよったとよ」。山の施設に行くと決心したとき、表向きは焼酎は、何とかやめた。しかしタバコは「気晴らし」の元だ。やめられん。畑で、隠れて、こっそり、すうて居た。
★ある夜、「バンバ」が、こんな話をした。「毎日、お祈りしている聖ヨゼフ様の夢をみた。オレが、こんなにして祈ると、ヨゼフ様がオレが顔のこんなふうに見て、御子様に何かを言い、御子様は1つ1つ、うなずいて、みんな聞いて下さるようにあったとよ」
★その後、「ジンジ」が胸を痛めて、ゼンソクを起こし、熱が出て、道も歩かれないようになった。「バンバ」はお医者さんに頼んで「タバコ、止めるようにお願いします」。「ジンジ」は「バンバ」に頭が上がらない。とうとう煙草はやめた。
★思い出すのも、楽しい夫婦です。「ジンジ」も「バンバ」も昭和50年にホーム「聖フランシスコ園」に入った。ホームでも畑を作って収穫を得ていた。12年後、バンバが88歳で神に召された。3年後、ジンジが88歳で逝去した。26年後、中島優神父さんも、ここのホームに入って、87歳で神に召された。
★人の働きは小さいが、神の恵みで大きく広がり、周りの人に慰めと励ましを与え、懐かしい楽しい思い出となって、いまも残っている。
トマさんとウシさん
返信削除写真にはその時の思い出がそのまま残りますね〜
トマさんと一緒に写った写真は 宝物です(^ ^)
ココナより
中島神父様のご両親のお優しさとエピソードにお蔭様でほっこり致しました。
返信削除小崎さんのカメラ技術の高さの理由も分りました。
こちらで深夜に再放送された「もし、長崎が日本の中心なら」を録画しており先ほど再生してビックリ致しました。
何と小崎さんが岳踊りの解説をされていたのです。
岳踊りと取材のことは小崎さんが日記に書かれていましたね。
小崎さんの修道服がお似合いで内容には感銘を受けました。
聖フランシスコ園に小崎さんや瀧神父様を訪問したく思いました。
感謝と喜びのうちに
17才の夏を読んでいるところに、写真を拝見でき、感激しました!毎晩寝る前にトマさん日記を読むのが日課になっています。外海が大好きなあんづより
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