自室のベランダから見下ろす庭です。3、4年前までは、運動会もあったし、盆踊り、聖母マリア祭も行なわれていた。トマが入居した頃は、庭を3周、5周と散歩する女性群もいた。トマも心して、毎日、何周か歩いた。あの頃は、2千5百歩前後、歩いていた。しかし今は、もう歩かない。運動会も、盆踊りも、マリア祭も、散歩する人も全くない。それだけホームの人たちには老いが進んでいる。
★5年前、入居当時のノートを開いてみる。ホームに入って、一番の悩みは、抜けガラのように、虚脱状態に落ち込んだことだった。時間は十分にある。何をしていいのか分からない。仕事がない。する事がない。字も思うように書けない。「詩篇」を写詩したが続かない。あれほど苦しい生活はなかった。生き甲斐がない。笑えない。ひとりポッチの夜、だよ。夜も寝られない。つまり人生の底辺を生きていた。
★老いの生活は、こんな苦労があるのか。広い、美しい庭の風景は、私の視野から遠のいた。いまは、そうではない。5年の歳月が「慣れ」をもたらしたのか。泥沼だった足元から、どのように這い上がったのか。いま、首をかしげて思う。救いは、どこに、あったのか。突破口は、何だったのか。
★それは、ブログ「パソコン日記」だったのではないか。毎日、日記を書くことで、自分自身の周囲に、ご縁ができて、それが花開いて、生き甲斐や、希望に変わって行った。それは確かです。ホームに孤独で居ても、日記によって出番があった。助ける人にも、出会ったのは事実です。
★日記に書きたいのは「生活」もあります。しかし日々の出来事は、朝起きて、夜寝るまで、さしたる変化はない。日記に、辛子のように、チョット、チョット、振り掛けたいのは「人生」なんです。なぜ生かされているのか。苦しむのか。生きる価値はあるのか。なぜ悪があるのか。ネタミがあるのか。この「なぜ?」が、書く意味があると思います。
★でも、最近は、切れ味のいい言葉が浮かばない。老いの重みに「なぜ?」が押しつぶされているのでしょうか。人は、1人で生きているのではない。日記を書くことによって、それが分かったのです。若い頃から「書くこと」が好きだった。その好きが、わが身を救った。わが心を支えた。希望の日々に変えてくれた。そして90歳代に突入した。
★パソコン、書きながら、眼下の、広い庭を見ております。呼吸しております。
いえいえ小崎さんのペンの力は健在です!
返信削除これからも日記を毎日楽しみにしております。
いつも応援ありがとう。もう、ふら、ふら、だが、がんばる。
削除初めまして、坂田と申します。
返信削除小崎さんのブログを本当に楽しみにしています。
素晴らしい日記です。 ありがとうございます!
楽しみにしてくださり、ありがとう。ゲンキが、でます。
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