2021年1月4日月曜日

誰が、イヤ。これが、ダメ。そう言わずに、癒しを、望む。希望はある

湯江教会の祭壇の生け花です。
昨秋、教会の玄関で、1枚のパンフレットを見つけた。「福岡カトリック神学院便り」。自室に持参。赤い振替用紙が入っていた。哲学・神学生たちが熱心に学んでいる。
若干の献金を送金した。通信欄に書いた言葉。「偶然、教会の玄関で目にしました。霊的豊かな説教をする司祭に育てて下さい。92歳の修道士」
神学院から年賀状が届いた。「この春、4名の助祭が卒業します」。トマは司祭になれなかったが、この神学院を応援したくなった。
★「トマさんにとって、信仰とは、何ですか?」。自らも度々問う。「母から、もらった、財産」。これしか、ない。外地で、母と2人のカトリック。母の故郷、浦上に帰って、浦上天主堂の周辺だけで1万2千人のカトリック。聖母の騎士に入って、ポーランドへ行くと、国民全体がカトリック。やがてルルドやローマ・バチカンを巡礼して、多くの信徒の熱意に圧倒された。約13億人のカトリック洗礼者がいる。
★今朝、ミサで祈った。福音は、マタイの4章。「イエスは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」の箇所。このくだりは、全世界のカトリック司祭のミサで、全く同じ場面が朗読されている。典礼は、全世界のカトリックが、皆いっしょ。「教会の祈り」も同じである。同じ祈りを唱えている。いつも毎日、祈りながら、それを考える。カトリックは「一」にして「普遍」。そこに、チカラ強さが、湧いてくる。
★一方、五島列島の小さな集落の教会に目を向けてみよう。カトリック信徒たちが毎日、三々五々と集まって、長崎調の口調で、ロザリオを唱える根深い信心がある。見えない所で、隠れた場所で、カトリックの祈り、聖歌が、迫害時代から捧げられている。
★この五島の群衆と、バチカン広場の群衆をつなぐとき、何か知らぬが安ど感が湧いてくる。信仰に安らぎを感じる。道は、この道しかない。
★だが、不安や疑問もある。教会で祈る人たちは、みな、良い人かと期待していたら、傷ついた、裏切られた、やっては行けない、そんな声もある。人に、つまづき、失望して、教会から遠ざかる人が居るのも現実である。「兄弟の皆さん、罪深いわたしのために祈ってください」。公に、認めて、正す願いも祈る。教会に、聖人が多く居る事が、私たちの模範であり、希望になる。人間は、信仰したとしても、弱い存在。沢山の聖人「聖」ある限り手本はある。
★むかしのミサは、司祭が代表して、祭壇に上がる前に、「メア、クルパ(我が、あやまち)。メア、クルパ」と、胸を手で叩きつつ、願っていた。
「わたしの、あやまち」を背負って、教会では、回心と希望を祈る。「それが、母親から、受け継いだ、遺産」です。
★霊的ゆたかな、説教で伝える司祭のため祈りましょう。教会に行ったら、ゲンキが出た、慰めを受けた、癒された、そういう場でありたい。

1 件のコメント:

  1. 残念ながら、カトリック信者であっても、自身の罪深さ、他者への慈愛、祈りを忘れがちな人もいる。困難な状況でも、祈りましょう。行動しましょう。

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