2020年5月22日金曜日

あなたの心、わたし達の心、いっしょ。聞こえない声でも、有る

いつも、朝の夜明けの風景に、心が惹かれます。今朝も起きて、カーテンを開くと、この空だよ。思わず「きれいだなァ、すがすがしい朝や」。すぐデジカメに手が伸びる。「きょうも、一日、変わらぬ、いい日で、ありますように」。祈りは、この瞬間から始まる。
★ホームに来てから、手紙を頂く中で、「五島の巡礼」に行きました、と教会巡りを知らせる人が、時々居ます。
★ホームの入居者にも、五島出身の女性が何人も居るし、「帰りたかなァ。五島へいっぺんだけでも、帰りたい」と、嘆く声も度々聞く。トマも、40年頃まえは、多くの巡礼者を案内して、長崎・外海・平戸・五島・天草とまわった。「長崎オラショの旅」という。
★旅では、終わって、最後の言葉が、いつも、こうだった。「参加された皆さんの教会は、小さく、信徒数も少ないかも知れません。しかし長崎へ来て、長崎や、五島の信徒さん達と共に交わり、ミサに祈って、言えることは、皆さんの信仰も、わたしの信仰も、長崎の信仰も、皆、同じだということです。コルベ神父も、ゼノ修道士も、ド・ロ神父も、永井博士も、皆、同じ心、同じ信仰と思って下さい。最後の潜伏キリシタン達は、プチジャン神父を訪ねて告げた。『あなたの心、わたしたちの心、同じです』と。オラショの旅のねらいは、その『同じ心』の体験にあります。そして個人の信仰の回復にあります」
★「キリスト教は、愛と赦しです」といえば、一般の社会人にも、よくわかる。愛と赦し。そこが一般人との接点となる。キリスト教は愛と赦しを説くゆえに、それだけで素晴らしい教えではないか。なぜ、もっと、愛と赦しを深めないのか。心に刻まないのか。
★愛の元は、神の愛。キリストの愛だから、わたしたちも愛に生きる。また赦しなくして、人は安らぎを得ない。「ごめんなさい」。人にも言い、神にも言う。人間の生き方は、こうでなければと思います。
★神を愛し、神に祈って、確かな反響はあるのか。殉教者たちは、私たちと違って、雄々しく生命を捧げた。彼らの汗は流れ、血は飛び散り、凄まじい状態があった。でも肝心の神の声は聞こえない。神の助けもない。天使も現れない。それでも尚かつ殉教者たちは、神を証(あかし)して死んだ。これが先祖が通った道です。
★人生って、なんだ。営々とした小さな、いとなみ。私たちの日々の生活で、迷いもあるさ、悲しみもあるさ、その中にあっても、神の現われも、天使の歌声も聞こえないかも知れない。しかし、信じて、希望を持ちながら、助け合って、光を見つける。それが私たちの人生じゃないでしょうか。

4 件のコメント:

  1. がぶらってぃ2020年5月22日 22:10

    トマさんの日記に導かれて、私は「個人の信仰の回復」を赦された思いに至りました。

    そしてどこからでも、いつからでも、祈りによって教会と繋がっていられる安心感に、
    一瞬一瞬救われております。思えば、がぶらってぃの信仰は、折々に長崎に助けられてきたと
    振り返ります。

    希望はある。今ここにある光を感じ取れないのは、冷えて固まっている自分を自分で
    認めていないから。背負っている十字架を意識から遠ざけているから。
    何度も気づきなおして、生き直している思いです。

    今日は父・フィリップが帰天した日でした。水曜日の12:46でした。
    2010年に洗礼を受けて生まれ代わり、2013年に帰天しました。
    父は、ひとつの信仰を基に多くの繋がりに結び、希望のうちに帰天できたと思います。

    私達それぞれが、各々の暮らしと関わりの中で神を証して生きられるよう願います。

    今日も感謝のうちに。

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  2. お父さんのため、お祈りします。自分、ひとりの信仰では、なく、つながりが、ある、信仰です。

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    1. がぶらってぃ2020年5月23日 16:46

      トマさん、ありがとうございます。
      つながりのある信仰に助けられ、都度高められていると思います。

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  3. 今日の最後の言葉も
    心に響きます!
    ノートに書き写し、
    心が弱くなりかけた時の
    心の栄養剤にさせていただきます!

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