七十歳。昨夜は、よく、ねむれたか。クスリなしに、ねむれたか。よし、よし。健康の第一歩。小便をすると、尿がキラキラ黄金に光る。すごく嬉しい。生かされているなァと思う。自分が生きたとは思わない。生きている不思議がある。自分が生きたのじゃない。答えは、ある。奥がある。理由がある。歳を取ることで、長い年月かけて、それがわかる。人間の幸福は何処にあるのか。外にはない。自分の中に与えられている。自分を掘ってみよう。自分を追及してみよう。それ以外に、幸福に成りようがない。自分を、最も低い存在として捕らえる。その存在の目で、上を見よう。空を、地を、草を、花を見よう。恵みは輝いて見える。それが幸福です。
★八十歳。長崎は坂の町である。住まいは特に急な坂になっている。最近、どうも息切れがする。まだ、そんなに歳でないのに、と思いつつも心臓の薬をしばらく飲んでいた。ところが、どうも心臓ではないらしい。肺活量を吹いてみた。身長・体重を計って、歳から計算すると、普通、三千CCはあるはずなのに、私は千六ⅭCしかない。つまり五十五パーセントしか可動していない。原因は、少年時代に患った胸の病気で、その後遺症が出ているようだ。呼吸はじょじょに低下していく。腎臓もそうだろう。人生という流れは、思想も健康も一本筋が通っているものなのか。誰もが、何かを、信仰して、生きている。宗教者も、科学者も、巷の人も、信じて生きるのは、人間の秘めた力になっている。
★九十歳。これまでは、大量の人と出会う。大量の人に語りかける。大量の物を集め、情報を流し、甚大な影響を他者に与える。こうして大量の「もの・人」と触れ合う。これが「偉い人や」と思い込んでいた。世間の目標も、それだった。ところが、この歳になると、気が付く。大量でなく「一・イチ」だ。個々の、あの1人の人の、悲しみ、苦しみ、痛みを分かってあげる心、1人で、いい。個々で、いい。その人が笑えば、いい。ほほえみ、あれば、いい。その1人との出会い、ご縁を大切に、手を伸ばしたい、宝にしたい。そんな気持ちに変わってきた。歳のせいで、心が狭くなったのか。そうじゃ、ない。真実が欲しいんです。人間は、大きな目標でなくても、小さな目標でも生きていける。
★九十二歳。主イエスの教えを学びたい。➀愛することです。②赦すことです。③己の十字架を取って、主に従うことです。「ハイ、主よ、歩きます」
写真の笑顔を分かち合ってくださって
返信削除ありがとうございます。
全てを内在して、なお弾ける笑顔に
助けられます。
主イエスとの関わりが宝であるように、
目の前の一人と真実を見つめ続けることで、
理由がわかり、奥に答えはある、と信じられます。
本当にまっすぐに手を伸ばしていたのか、赦して愛していたのか、
一歩一歩の歩みに浅いところがなかったのか、
問われます。そして、動揺いたします。
トマさん、ケア感あふれる学びをありがとうございます。