2日前の日記に、マチアさんの事を書き、「若い修練者が、手厚い介護をしてくれた」と記した。きょうはホームにあって、その若い修練者の事を思い出した。
★94歳のマチアさん。食堂の近くに部屋があり、二十代の若い修練者が身のまわりを世話していた。おじちゃんと孫といった感じの温かい交流が見えた。老いた修道士が若者たちに甘えている。この交流、支えがあったから、94歳の老・修道士は励まされ、杖をつきながらも朝、5時半から聖堂に来ていた。ポーランド人たちは、祈る修道士だった。
★ある日、修練者が、1泊2日で県外に出た。老修道士は、しょんぼりしている。「マチアさん、寂しい?」。食卓で、トマが聞くと、こっくりと、うなずく。すると向かいの修道士が言った。「マリアさまと、いっしょだから、寂しくないはずです」。少し、きつい言葉だが、トマには、久しく忘れていた思いだった。日常生活での、普段着の思い、これこそ信心生活の原点ではないか。生活の推進力ではないか。
★食堂の席では、トマの左側に、老年の日本人修道士がいる。彼は最近、しきりに「死ぬのが怖い」と言った。観察すると、特に健康に気をつけて、焦げた物(ガンになる)や、肉類は食べない。パンに必ずマーガリンをぬり、それで「死ぬのは怖い」と連発した。向かいの修道士が言った。「人間には寿命がある。寿命を受け入れて、死をも受け入れる心構えが必要だ」
★一方、右側の席のマチアさんは、健康には全く気にしない。何でも食べた。塩分控えめ?いや、いや、ゆで卵にも、スイカにも塩をふりかけ、コーヒーには、たっぷりと砂糖を入れた。原爆手帳を持っており、検査に行くと、3つ4つは異常でひっかかる。でも、マチアさんは心配しない。遠慮なく食べる、コーラーも好んで飲む。それに体格は、でかい。この体格で、よくぞ90代まで生きたと思うよ。それが不思議です。「神さま、お恵み、あります」と、マチアさんは淡々と死をも恐れない。最後は自分の部屋で、近くの開業医の医師さんが、熱心に、感心するほど、毎日のように診てくださり(訪問診療だね)、マチアさんは修道院で安らかに逝った。
★「死ぬのは怖い」という修道士に、「なぜ怖い?」と聞く。「今、有る自分が無くなってしまう。存在がなくなる。消える。だから怖い。神さまは生物に死を恐れる心、自己を守る本能を与えられた。だから自分の怖さは自然のものだ」と自己弁護した。
★マチアさんは間もなく逝った。若い修練者も今は居ない。心優しい若者だった。彼は、どこかで、誰かに、優しい愛を注いでいるだろう。「怖い、怖い」といった修道士も、その後、92歳で逝った。向かいの修道士も、神の国へ旅立った。残るのは、トマが、彼らの思い出、記憶を持ちながら、まだ呼吸している。
★神さまへ向かって歩む人生。ホームに居ても、充分に生きることの大切さを弁えて、充足した人生、悔いのない生涯を送りたいと思う。死は、やはり来る。生涯の幕引きは、大仕事になるだろう。ただ「今も、いつも、死を迎える時にも」と、手を合わせて「祈る」しか、ない。
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「マチアさん、寂しい?」というトマさんの
返信削除声掛けに感動いたします。隣席からの一言が
ひそやかに人を慰める実際を見る思いです。
言葉の行いの豊かさに感動いたします。
今の私にどうしても足りないところと、
自覚いたします。
トマさんがかつての修道院の生活について書いてくださることで、
私達は生きた修道生活を知ることができます。そして、自らの
暮らしの中で、おっしゃる「普段着の思い」に向き合う縁を
いただけます。
マチアさんの船上の写真は、雑誌の表紙のようですね。
ドラマが見えて素敵です。船上の風を感じとります。
トマさん、マチアさん、若い修練士であった青年、
マチアさんを診てくださっていた訪問診療医の方と
背景にあろう診療所やご家族の方々、
死を恐れる気持ちを隠さずに表された修道士さん、
限りない神への信頼において正道を示された修道士さん、
修道院の伝統を造り、護ってこられた多くの
ポーランド人修道士さんたちと、送ってくださった
本国の方々と全ての関わりへ、大きな大きなジンクーエン。