昨日は、永井隆博士の「如己堂」にも寄った。久しぶりに永井先生の小さな家の、細い縁にさわる。ガラス戸から2畳ほどの中をのぞく。左側に白い聖母マリアのご像。聖母の騎士のポーランド修道士が納めたご像であろう。右手に、白いバラがあった。永井先生は、白いバラをこよなく愛(め)でていた。辞世の句も、「白バラの香りが立つように、昇りゆく」意味の歌だった。永井先生に、中学(小神学校)で、理科を習った思い出を誇らしく大切にしている。「如己愛人」。己の如く、人を愛する。真理を追究された永井先生。この小さな家で長年病み、最後の日に大学病院へカトリック青年たちから運ばれて、逝去された。昭和25年の5月1日。マリアさまの月の第1日目だった。「永井先生は、どんな人?」「おおらかで、やさしく、おもしろい人」。授業では原爆の話は一切しなかった。
★如己堂から坂をくだって、旧・街道を右に、母が生まれた場所に行った。その場所から50mほどの所に、「浦上の殉教者ベアトスさまの碑」がある。ここも懐かしい場所です。巡礼者たちを案内して、よく来ました。ここは、元々、聖地と呼ばれた場所であり、母も子供の頃はここで祈り、遊んだかも知れない。原爆の爆風で、塔の石が、右側へ何cmか、ずれたと聞いた。
★原爆の当日、午後4時頃、17歳の私は、この街道を歩いて自宅の方へ向かった。家々は倒壊しただけで、まだ燃えていなかった。家の残骸を乗り越えて歩いた。丁度、母が生まれた場所辺りの家で、少女が泣いていた。「お母さんが、家の下敷きになった」という。かがんで見ると、瓦や材木の下に、髪の毛が見えた。私1人の力では、どうすることも出来なかった。私はその場を離れた。自宅があった所を眺めると、周辺一面は燃え尽きて何もなかった。廃墟であった。「ああ、母は、どこだ」。私は唯、泣き叫ぶばかりだった。