京都・宇治の柴田さんから、写真と手紙が送られてきた。「20年振りにおとずれた聖母の騎士修道院での小崎修道士、前よりも輝いていらっしゃいましたし、お元気そうな御姿を拝見致し、本当に嬉しゅうございました。帰宇して2日後に聖母の騎士誌が届き、終油の秘蹟をお受けになっておられた小崎修道士を見て、全然違った御方のようでしたよ。修道士はどんな御病気にも勝たれますよね。不死身とは修道士の事を言うのだと、つくづく感じ、神さまの御手の中で、御手の一番近い所に囲まってもらっていらっしゃると確信致しております。本当に嬉しく、また20年前に逢ったフランシスコ中村修道士も御元気との事、帰りし、うれしくて涙が流れました。10月14日(日)は浦上天主堂でミサに与かり、その後、如己堂に行きました。館長をしておられる永井徳三郎さまにも逢う事が出来、亡きかやのさんの写真を持って行き、おみせ致しました。登明修道士に再会し、神さまに感謝です。御元気でどうぞいつまでも御元気でいて下さいませね。御祈り申しております。」
長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年10月31日水曜日
2012年10月30日火曜日
名も知れない花だけれども、せいイッパイ咲こうではないか
何の花か、知りません。食堂を出た屋外に咲いています。ふと、目にとまれば、きれいだなあ、と思います。自然の感情でしょう。毎日、ブログを書いています。聖コルベ館で、特別な出会いや、自分が旅に出たときなどは、書きやすいです。しかし平凡な、変わりがない1日、書く時間は、普通、午前中ですが、聖コルベ館のパソコンに、何を書いたらよいか、迷うことも、しばしばです。書くからには、切れる言葉をと、欲も出るんですね。基本は、あくまでも、いま、自分が何を考え、どういう試練に出会っているか、自分のために書き溜めておきたい、それが願いで書いているつもりです。読んでくださる人も居られる。人の意見や、視線を、もともと気にするタチかも知れない。しかし1つ言えることは、立派な建前を書くつもりは、ありません。自分の落ち度や、過去のワルも、全部は書けないにしても、ニンゲンに弱い部分があるのは、認めます。日記を書き出して、4年になる。他にも、メモや、思い付きを書いた紙も、多々あります。ブログに、聖書の言葉や、説教じみた言葉は、使いません。ジンセイを生きる、考える、その気持ちはあります。信仰したからと、すぐにニンゲンが変わるものでもないでしょう。それでも絶えず、善に向かって努力する、いつかは報いられる。それを希望して生きたいと思います。
2012年10月29日月曜日
人は老いても、性格のシンは、変わらない。それで、いいのだ
島原半島の入口、愛野の教会、幼稚園で写しました。何の動物か分からないけれど、こんなモノを見ると、ついつい、ボクは嬉しくなる。思わず近寄って、おお、おまえは、デカイなあ。オレは小さいぞ。思わず、手を振りたくなった。赤い帽子に、赤いお鼻。首にタオルなど、しめやがって。黄色い、ずーたい(体)に、おなかには空いた黒いアナ。子どもは、こんな所に、くぐりたくなる。身を隠したくなるのだよ。老いた背中は、曲がらないよ。そんな気持ちになった。ところで、オレはこんな所で、はしゃいで、いいのかなァ。教会を、「さよなら」するとき、ブリ神父さんが、冊子をくれた。そこには「教会の案内」で、「教会」や「神父さま」「シスター」「神さまに何を祈るか?」「ミサ」や「イエスさま」のこと、マリアさまのこと、聖書などの説明が載せてあった。なかでも気持ちを引いた1文がある。それは「神さまが、私たちのことを、どう思っているか」の疑問です。そこには、神さまは、私たちを愛しておられ、天の御父と呼ばれる。神さまは、ニンゲンの弱さや、落ち度よりも、私たちの努力や、私たちの「善意」を見ておられる、というのです。積極的に前へ進めということじゃないですか。善意に生きるとは、正しいことの実行心にある。一生懸命にやっても、失敗があるかも知れない。しかし善意を持つならば、神の前では、正しい人といえる。「私たちの一生の課題は、善に励み、罪を悔やみ、軌道修正し、いっそうの善意を育てることです」と書いてあったが、難しいですね、これは。
2012年10月28日日曜日
10月最後の日曜日は、ロザリオ祭り。祈りと、聖歌で祝った
熱もさがって、平常心になった。やっぱり熱がある感じと、無いときの感じは、気持ち、体感が全く違うんですね。温泉へ行ったときから、尿がビール色に変わりつつあった。2、3粒のクスリを飲む。すると熱がさがって、いま普通の黄色に戻っている。カゼ、カゼと悩んでいたが、ひょっとすると、軽い腎炎を起こしていたのかも、知れない。まあ、なんとかゲンキを取り戻したわけです。それでも会う人ごとに、「ダイジョウブ」といわれ、つづけた。10月最後の日曜日はロザリオ祭り。この日は、多くの信徒が集まります。聖コルベ館にも、多くの顔が見えて、言われましたよ。「おゲンキ?」。ロザリオ祭りに心配なのは、お天気です。昨夜から今朝まで、雨が降って、芝生がぬれて、坂道がすべりやすい。本来なら、ロザリオ祭りは、ルルドへの坂道でロザリオの玄義を祈りで登り、ルルドにおいて、ミサが行なわれるのが恒例だが、「このアメじゃね」と、雨が憎い。聖堂で、ロザリオを唱え、ミサで祈った。ラテン語の「キリエ」と歌い、「グロリア」も歌った。「いい、ねえ」。聖母の騎士といえば、なんたって聖コルベ神父さまですよ。精神を忘れてはいけない。創立者でもある。コルベ神父は「マリアを通して、イエスへ」を提唱した。マリアといえば、あちこちの出現などの噂(うわさ)で、警戒して敬遠する者もいるが、長崎信者の感覚は、あくまで先祖からのマリア、信徒発見のマリア、各教会には必ずあるマリア、それらが、つながって平常心で信心ができる。コルベ神父のマリア信心は「けがれなきマリア」「インマクラタ」で、これは「ふしぎのメダイのマリア」と、「ルルドのマリア」につながる。コルベ神父が長崎へ来て、本河内に土地を購入し、ルルドを開いたのが、1932年、ちょうど今年は、80年になる。聖母の騎士のルルドは、これまで、どれほどのお恵みが与えられたであろうか。ルルドのお水は、おいしいよ。自然の水だからね。各地からも、水を汲みに来る。愛飲している
2012年10月27日土曜日
教えて、何と読む?温泉から帰って、微熱が出た。抵抗力なし
ブリ神父さん(ポーランド人)の司祭館、玄関にかかっている大きな額です。「なんて、読む?」と言われて、「ムー、何だろう?」。右上は、「静か」。右下は、「黙す」かな。左の上、これが読めない。左の下は、「道」であろう。静かに、黙して、道を、征く、か。わからない。誰か、読める人が居たら、教えてください。わかったら伝えます、とブリ神父さんに約束している。
さて、オバマ温泉から戻ったが、あちらは温かい。帰ると、日陰の地所、コンクリートの建物で、さむーぃ。急に寒くなった。今朝は、温泉につかって、ぬくかったのに、夕方、祈る場所、聖堂は寒ムーぃ。ロザリオ、聖務日祷のとき、背中が、ひえ、びえした。夕食も進まない。自室に入って、体温を測ると、7度3分。微熱がある。年寄りになれば、寒さが、こたえる。抵抗力がなくなり、カゼを引きやすい。情けないね。ほんとに自分でも、イヤになる。むかしはゲンキだった。少々の寒さは、何でもなかった。北朝鮮の厳しい冬に少年時代を過ごしているからね。零下、20度ぐらいまで下がった。老いて、ブルブル、情けないよ。何んか、むかしのように丈夫になるカラダに戻りたい。今朝も、7度3分あった。寝ていても、治まらない。クリニックへ出かけて、点滴を打ってもらう。「カラダが温かくなる、漢方薬をください」。もう今日は、ゆっくり休もう。またゲンキになるだろう。くじけていては、明るい朝は、来ないよ。★早速、1件のコメントが寄せられ、額内の漢字の意味が分かりました。寄せてくださったabramさん、ありがとう。助かりました。『静黙治道』(せいもく・みちを・おさむ)と読みます。静かなる振る舞いで、言葉少なく、人の修める道を、正しく治める。修道院や黙想の家には、貴重な言葉かと思います。
2012年10月26日金曜日
雨のなか、無事に帰る。ブリの裏には、タイの話題あり
午前10時頃には、聖コルベ館に着いた。洗濯をし、干していた物を乾燥機にかけて、昼食に出た。8人が食卓に居た。「どうも、おかげで、ゲンキになりました」と、先ずは皆さんに挨拶。早速、気になっていることがあった。出かけたのは、水曜日で、この日は、松下修道士さんの休みの日で、いつもサカナ釣りに行っている。「松下さん、どう、だった?あの日の水揚げは?」と声をかける。松下、当の本人は、フフ、フ、と笑って、「1ピキ。大きな、タイを、釣り上げたよ」と、満足カオ。「もう、サシミは残って、いない?」「ある、もんね、そんなに長く」と切ない返事。松下さんが写真を見せてくれた。それが、これです。「でかい、なあ」。感服した次第です。ごらんの通りの、こんなタイを釣り上げたんですからね。その日が、10月24日で、なんと誕生日だったという。「ええ、すばらしい」と感動ものだよ。昭和19年、戦争中に生まれた。外海の黒崎出身。「その日は、釣れるぞとという感触は、ありました?」「あったね。神さまは、いいプレゼントを、くださる」。普通は2人で漁に出ている。あいにく相棒の神父さんが上京のため、1人で出た。神の島のマリア像の足元を舟で出るとき、祈ったという。このタイの話を聞いた後、私は秘かに思ったね。あの水曜日、私は、ブリ神父さん(ポーランド人)の教会を訪ねていた。ブリ神父は言った。「タイには、成りきれない、ブリだよ」。相対する日に、一方では、現実にタイを釣っていたとは、ねえ。オレのアタマでは、見事に、つながった。おもしろいなあ」と感心した日でした。
2012年10月25日木曜日
島原2日目。天草に渡る。切支丹は使うなと、天草のヒト
島原の定宿、富士屋さんから、昼間、海を渡って、天草へ出かけた。海の上は気持ちが、いいね。むかしの宣教師は苦労して渡った海だよ。こんなにラクで、いいのかなァ。フェリーで、30分。天草に着いた。天草は、南国の木々が高くそびえて、やっぱり、違うな。天草に来たのは、矢田部さん夫妻に出会うため、夫妻の家におじゃまするためだった。フェリー着き場に、夫妻が出迎えてくれる。いつも天草に来ると、お世話になっている。天草は奥さんが生まれた島。奥さんは、今年の春に、1年半、教会で、渡辺神父さんに要理を習って、洗礼を受けた。要理では、ダンナさんも、いっしょ。シスターもいっしょ。励まされながら信仰を得た。それから奥さんは変わったね。明るくなった。積極的になった。ソバで見ていて、ダンナさんのことを、いつも配慮し、「これ食べ」「あれ食べ」と、小まめに動いている。見ていて、楽しいよ。今まで、海沿いの古いアパートで暮らしていて、私も何度か訪ねたが、今度、家を変わったという。「その家を見に来ましたよ」。家は、フェリー発着場から車で50分ほどの山中にあった。「教頭先生が住んでいた家を改装した」という。天井板、壁などは、ゴシゴシ、こすって、きれいにした。夫妻の努力で、ピカ、ピカに輝いている。軒下に、つるし柿が連なっている。「あまくさ、やなあ」の感じ。近くに、サンタ・マリア資料館(天草キリシタンの遺品を展示)がある。見学した。資料館の館長さんは言った。「切支丹、これは使ってはいけない。支は、支える。支えるのは首のこと。首を切る。これはダメです。むかしは吉利支丹と使った。明治以降は、クリスチャンです」。1つ、いいことを勉強したな。
2012年10月24日水曜日
島原(オバマ)温泉へ。ひさしぶり出かける。教会へ寄る
車を、島原(オバマ温泉)へ走らせる。途中、半ばごろに、見えるのが、丘の上に、小さな教会である。戦後、建築家、鉄川与助さんが最初に建てた教会。これまで訪ねたことがなかった。「よし、いつも、この道はお世話になって、あの教会を眺めている。今日は、寄って、礼をつくそう」と、車で登る。幾つかの建物がある。幼稚園、教会、シスターの修道院。司祭館。「オーイ、神父さんは、居るかーァ」。叫び続けていると、「ハーイ、ここだよ」と、幼稚園の建物から出てきたのが、この神父さんです。「わたしは、ブリ神父です」「ああ、知っているよ」。おサカナの、ブリ。まだ、鯛(タイ)には、成れません、が神父さんの自己紹介。お国は、ポーランド。「おお、ポーランド、10回行ったよ」。すっかり、ブリ神父さんと仲良しになる。「ニッポン、来たのは、いつ?」「むかし、若いとき、神学生で、来た。上智で勉強した。司祭になるのは、遅かった。ポーランドのお母さん、泣いたよ」「おお、息子よ、おまえ、いつ、司祭になる?お前の同級生、皆、もう司祭になったよ」。ブリ神学生は、パパさまが日本へ来たとき、パパさまから浦上天主堂で、司祭になった。1981年2月だった。「そのときポーランドから、お母さん、来ました?」「いいえ、来なかった」「だったら、親戚、居ない。寂しかったね」「いいえ、寂しくない。ポーランド人、3人居った。1人、パパさま。1人、枢機卿。1人、大使館の偉い人。これだけ大丈夫でしょう、ハ、ハ、ハ」「ポーランド、帰りました?」「おお、ある年、帰ったとき、大きなお祝いあった。何ですか、これ?これは、あなたの司祭銀祝のお祝いだよ、ハ、ハ、ハ」。ここで、ちょうど、昼ごはんの時間になった。「いつも自炊だが、お客さんが来たとき、チャンポンだよ。行きましょう」。長崎チャンポンと、ギョーザを食べた。ブリ神父は別れるとき、言った。「平和、ヘイワだけ、足りないよ。主のヘイワ。これです。わたしは悪かった。許してください。私も許します。ヘイワは、許しに、ある」「分かりました」と、温かい気持ちで、更に車を走らせ、定宿の富士屋さんへ着いた。その夜の泊まり客は、私が1人だけだった。車を運転してくれたのは、白浜さんです。私を降ろして、長崎へ戻った。その夜の食事に、牛肉のテンプラが出た。「ああ、オレは生きているぞ」。温泉に入って、「主の、ヘイワを」と、心中、思った。
2012年10月23日火曜日
ポン、ポンと、語って、ああ、悔いが残る。これも気性か
応対や、会話で、よく失敗する。機嫌(きげん)もんですからね。しゃべり方が一気で、自分のことだけ話して、ハイ、それで終わり。ぶっきらぼう、と言うか。短気と言うか。反省すること、しばしばです。自分でも、イヤになります。聖コルベ館への見学者も、声をかければ一歩、引く者も居り、無反応も居る。出会いは、大切。信仰的には、「主が来られた。思いなさい」。そうは言われても、現実には、いま、ブログを書いている、これこれの都合もある。なかなか平穏には、行かない。そこで前もって、『構え』ておく。構えの気持ちを持っておく。すると、お客が突然、来たときでも、穏やかに接することが出来る。1度、失敗すると、イヤーな気持ちが、残る。「小崎サンは、構えているから、イカンよ」と言われたこともあった。でも、ね。心の準備は必要だろう。剣道でも、構えていないと、打たれる。負けだよ。いま思うことは、①会う度ごとに「大丈夫ね」と言われる。イヤだよ。10月になって、尿のスカスカは全く出なくなった。落ち着いたのか。②それでも、この冬、どうやって寒さをしのぐか。寒さに堪えるから、心配している。③この度も、北朝鮮への旅に行かなかった。これは大きく心残りとなる。④騎士誌の12月号の記事を書き上げた。もう、これが最後の原稿かも。いま、迷っている。
2012年10月22日月曜日
福者ヨハネ・パウロ2世の記念日。亡くなって、7年になる
今日は、カトリック教会で、福者ヨハネ・パウロ2世教皇さまの記念日です。ミサのとき、思い起こしました。パパさまは、日本へ来られたとき、長崎・聖母の騎士修道院へも来られましたからね。聖コルベ記念館の資料室には、当時の写真や、歓迎の品々が展示されている。それに、私、個人にとっても、ヴァチカンで何度か、お傍近く、接することが出来ましたが、なかでも、最も個人的な思い出は、写真の、パパさまから、アタマをなでられたことです。このときから、アタマが良くなりました。ちょっと、遅かったけどね。もう1回は、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院で、特別謁見があり、自著『長崎のコルベ神父』を贈呈しました。(下の写真)。このときは更なる感動でした。右隣に居るのは、ポーランド人ローマン修道士で、一緒にポーランドへ行っていた。私の通訳です。ローマン修道士は現在でも、98歳で元気です。謁見は特別扱いで、夕方のテレビでも、日本人の修道士も居たと、紹介されました。こんな思い出もあったんですね。ジンセイ、いろいろ、懐かしいです。パパさまは、本当にお優しい教皇さまでした。ポーランドで、私の贈呈の後で、ポーランド人の農夫がパパさまにヒツジを贈呈しましたが、「メエ、メエ」と泣いていた。あのヒツジはヴァチカンへ運ばれたかな。
2012年10月21日日曜日
列車のなかで、弁当を食べる。長崎に着くと、真っ先に帰る
夜がせまるJR博多駅。ぼんやり、列車を待っていた。ふと、目の前に、JRの職員が立っている。肩に「運転士」とあった。彼の視線も待っている。「ああ、この人が、『かもめ』を運転するのか。偉いなあ」。やがて、『白いかもめ』が入ってきた。運転士が足早に近寄る。並んでいた乗客たちも、あわただしく乗り始める。夕方、5時の発車。2時間かかるので、長崎着は、7時になる。長崎駅に着いたら、急いでタクシーで帰るつもりで、弁当を買った。九州にも、いろいろな駅で作った自慢の弁当が発売されて、迷う。買ったのは、鹿児島の「焼肉弁当」だった。帰りの列車に揺られながら、まだ亡くなった従兄を想う。葬祭場で、お骨を骨壷へ入れるとき、斎場の職員が、「お年の割には、頑丈なお骨をしておられます。食べ物に気をつけておられたのでしょう」と言った。誰かが小さな声で「野菜は、キライだった」と、ささやいた。「肉が好きだった」。牛肉弁当を食べながら、余りにも目まぐるしい日程に、いささかの疲れを感じていた。会う度ごとに「大丈夫ですか」と念を押される。気持ちは有りがたいが、あまり言われると、気が滅入ってしまう。この度は、つづいて2度も博多へ出かけたので、自分でもカラダは大丈夫か、と憂いた。ゆっくり休むことにしよう。聖コルベ館に帰り着くと、もう祈りも、夕食も終わっていた。こうして悲しみの博多の旅は終わった。1泊2日の旅であった。
2012年10月20日土曜日
博多へ。従兄は神に召される。永久の冥福を祈った
ホスピス病棟に従兄を見舞った次の夜に、電話がかかり、従兄は、「神さまに召されました」と告げられた。「え?あれほど、話も、応対も、してくれたのに」と唯、ただ呆然となる。「私が、来るのを、待っていたもかも」と、そんな話まで後で出た。こうして従兄は91歳の生涯を閉じた。急ぎ博多へ出かけ、お通夜と、次の日のお葬式で、お別れをし、安息を祈った。司祭の追悼のミサでのお説教は、私には、次のように聞こえた。「故人は、いろんな遺品を残したでしょうが、物ではなく、もっと大切な精神的なものを残しているはずです。それは何であるか、考えるべきです」と。この文言は、故人を送るに当たって、誰にでも言えることだろう。従兄は、私と同様、身内が少なく、苦労して育っている。だから彼の唯一の願いは、温かい家庭、家族を作ることだったであろう。それが、ごらんの通り、写真・上のように沢山の子どもさんや、孫さんや、ヒイ孫にも恵まれ、本当に幸せで、また従兄自身、優しい心の持ち主だった。みんなから慕われ、家族の人たちは、ナミダ、涙に、従兄を見送った。ミサのとき、棺(ひつぎ)の上には、長剣が置かれていた。戦後は、航空自衛隊に務め、ニ佐にまで進級した。そのための軍刀だった。ミサの後で、棺には、お花と共に、背広や、帽子、心のこもった品々が入れられた。私は、そばで、悲しみの目で見つめていた。私と従兄は、戦後の混乱のときの思い出につながっている。長い歴史を持つ人との別れは、辛かった。また、寂しくなる。彼の霊名は「ヨセフ」。私の胸に刻んだ。
2012年10月19日金曜日
秋風がふく、この頃だよ。ネコちゃんは、のんびりで、いいな
ライモンドが、抜き足、差し足、やってくる。「おお、ライモンドよ。しっかり食べているか」。近くに寄ってくると、ごらんの通り、ゴロリと横になる。「なんにも、抵抗しません、の表情か」。ライモンドは部屋の中に入れてもらえない。食事も沢山、与えてもらえない。それでも、周囲を、ゆるり、ゆるりと、徘徊している。夜、遅く、聖コルベ館へ帰ると、玄関に、白いものが、ぬーっと、立っているではないか。「何モノか」、おどろかすなよ、と目をこらすと、ライモンドだった。「オイ、ライモンド、留守番か」。朝夕は、長崎でも、冷え込むからな。声をかけても、このときは、ひっくり返らなかった。「かわいいヤツだよ。ライモンドは」。見るだけで、心はなごむ。
2012年10月18日木曜日
博多へ、列車で日帰り。ホスピス病棟の従兄を見舞った
突然、親戚から電話があった。久しく会っていない従兄だったが、入院しており、いま、お医者さんから「身近な人を呼ぶように」と告げられたという。私にとっては少ない親戚の従兄である。また、少年の頃からの私を知っている従兄でもある。もう60年前になるか、この従兄には憧れを持っていた。彼の話だが、「戦争中は、飛行機乗りで、当時はプロペラ機だったが、故障して、山林に激突した。それでも助かった」と、淡々と語り聞かせる従兄だった。7歳違いだったが、学生の私には、まばゆく見えた。列車で、2時間。博多の駅に着くと、タクシーで病院へ向かった。病院で、家族の皆さんが迎えてくれたのが、この写真である。従兄は、ホスピス病棟のベッドに横になっていた。目を閉じている。名前を告げると、目を見開いて、うなずいた。私は、60年前を思い出し、当時の印象を語り、飛行機の話をした。最近は会っていないので、遠い思い出を引き寄せるつもりだった。すると従兄の顔に、温かい表情があらわれた。確かな反応があった。「ああ、来てよかった」と思う。私が「どこで、生まれたのですか」と、ルーツを尋ねると、「たい・きゅう」と、はっきりした声で教えた。「たい・きゅう」とは、韓国の都市の名前だった。(当時は朝鮮と呼ばれた)。声をかければ、うなずいてくれる。むかしの、つながりが戻るのを感じた。2時間ほど病院に居て、家族のみなさんに別れを告げ、「少しでも楽になるように」と祈りつつ、その夜は、列車で、長崎へ戻った。
2012年10月17日水曜日
カラダの調子は、よい、ようです。まだ、まだ、がんばらんばね
予約の診察へ出かけた。先ずは採尿して、しばらく廊下で待っている。この時が、心が落ち着かない。ふっと前を見ると、壁に、写真の額がかかっていた。病院の名前の聖人だ。自分がフランシスコ会だけに、いいなあと思う。日本人によく知れている「ザビエル」とは、同じフランシスコでも違うと書いてある。額に向けて、デジカメを支えていると、周囲の患者さんが、ケゲンな表情を見せていた。名前を呼ばれて、診察室へ。「どうですか?」「調子は、よい、ようです。スカスカも、異物も、尿に出ていません」。次の診察日を決めて、診察は3分で終わった。体力も快復したし、体重も増えた。ある程度、重さもないと、ゲンキが出ない。足取りも確かになる。3分で終わる診察も、決してムダではない。生活に自信がもどってくるし、行動にも活力が湧いてくる。「まだ、まだ、がんばらんばね」
2012年10月16日火曜日
両親と男の子2人、ルルド参詣、告白して、愛の家族に
聖母の騎士のルルドの聖母マリアさまです。最近、きれいに塗り替えました。美しいマリアさま。親しみがあります。「ピン、ポン」と聖コルベ館のチャイムがなって、お父さん、お母さん、小学上級男子、小学下級男子の4人づれの家族が入ってきた。「ルルドのマリアさまのところで、お祈りしてきました」。4人を聖コルベの居室に案内し、説明した。子どもが居るので、ビデオ(8分)を見せましょう、と彼らにコルベ神父のアウシュヴィッツでの身代わりの場面を見せた。そして少し、小学生の男の子たちに、「周りの人に対する優しさ、家族や、クラスの友だちや、それらの人たちに、助けてあげたり、許してあげたり、支えてあげる、それがコルベ神父さんの望まれた愛だよ」と、少年たちの目を見て語った。まじめに聞いていた。彼らは満足して、帰った。その日の食事のとき、この4人家族の話が出た。受付をしていた係りの話しでは、彼らは、県の北部の市から来ていて、「みんな、告白を願った」という。それを聞いて、本当に嬉しくなった。これぞ長崎信者です。日曜日だから家族で、長崎のルルド参りに行こう、そして告白しよう。キレイな心になって、神さまのため、いい家族を築こう、なんと素晴らしい家族じゃないですか。長崎には、こんな実践の家族が、かくれた場所で静かに信仰をつないでいる。この家族のために祈ろう、幸せを祈ろう、そんな気持ちになった。信仰年も始まった。こういう信者の家庭が増えていくことを望んでいる。
2012年10月15日月曜日
学園の卒業生たち、一堂に集まる。皆の顔、輝いているぞ
聖コルベ館のホールに、大勢が集まった。小崎修道士も、右端にいる。聖母の騎士の学校の卒業生たちだ。ひさしぶりの再会だった。この学園は、聖コルベが創立した誉れ高き学校だ。道は2つに分かれ、修道者になった者と、社会で活躍する者、お互い違っているが、「アタマが、白くなっているのは、同じだなあ」。市内はもちろん、出会いのために、東京や、名古屋、鹿児島から、奄美からも参加している。懐かしいなあ。「このヘン、ずいぶん、荒らし周ったモンなあ」。今となっては、笑いのタネさ。賑やかに、語らいは、つづいた。「トマさん、カラダ、大丈夫?」。声かけられる。「ああ、見ての通り、ダイジョウブさ」。同じ釜のめしを食っているから、心通じるものがある。学校について、詳細を語れば、聖コルベが創立のときの名称は「本河内神学校」だった。戦中は、苦しい時代がつづく。憲兵隊から、監視され、学校は休校となる。生徒たちは、市内の中学校に通った。戦後、「聖母の騎士中学(旧制)」として新たに発足。すぐ、新制・中学校、高等学校となった。最初、学校の特徴は、みな、生徒は神学生だった。小崎修道士が、高等学校第1回の卒業生だ。とは言っても、この連中は、誰も話題にする者はいなかった。その後、一般学生にも解放され、神学生は徐々に減少して行った。これも時代の流れか。いま、神学生の高校生は、2人しか居ない。寂しい限りである。
2012年10月14日日曜日
まあ、小崎サン、20年ぶり、会いたいでした。うれしい
10日ほど前に便りがあった。期日を指定して、「ぜひ、小崎サンを訪ねたい。会いたいです」と、熱望される。「ありがたいけど、今は約束していません。近くになったら、お電話を」。そして電話があって、「京都・宇治から訪ねて来ました」と、2人の女性が現れた。敦代さんと、静枝さん。敦代さんは、「20年前に来ました」と、下の写真を見せた。若い頃のボク。赤色のメガネなど掛けて、恥ずかしいよ。「小崎サン、お若いね」「フ、フ、フ、まんざらでも、ないね」。出会いを、2人は、心底から喜んでいる。落ち着かない。「ダンナさんは?」「家で、ルスバン。実はね、今日は、結婚、金祝の日なの」「えーっ、めでたい」。一方、静代さんは、長崎は初めてのよう。「2年前から、騎士誌を読み始めて、小崎サンの文章を楽しみにしている。5月号を読んで、病気で大変と知って、訪ねる気持ちになった。おゲンキそうで、安心しました」。同行の敦代さんは、洗礼の代母さん、という。「仲が、いいのね」。2年前に、母を、4年前に、父を亡くした。敦代は一緒に病気の両親の世話をしてくださった。お母さん代わりになっている。「写真、撮って」。嬉しいじゃないですか。わざわざ訪ねてくれて、励ましてくださる。「出逢いだけが目的で、2泊3日の旅です」「ああ、宇治ね。行ったこと、あるよ」。洗礼名は、「ルチア」と「小さきテレジア」。どっちが、どっちか、忘れた。20年前の、いっしょの場所で、また写真を撮った。2人は満足して、喜んで、オミヤゲ渡して、帰っていった。若い方の静枝さんは、「亡き両親のため、お祈りしてください」と願った。こんな出会いもあるんだなあ。
2012年10月13日土曜日
黙想、帰ると、電話。北朝鮮へ行かないか?え、困難だ
黙想から帰ってくるなり、いきなり緊急の電話。新聞社からだった。「モシ、モシ、小崎サン、北朝鮮の羅津に行く旅行があります。返事は今日の4時まで。決めてください」。そう言われて、びっくりです。ありがたい話でもある。最近、テレビでも、清津会のメンバーが行動して、北朝鮮の墓参りが許され、調査団が現地を訪れている。早速、新聞社から教えられた電話番号へ電話を入れる、状況の話を聞いた。今度は2度目の訪問になる。一行の中から、羅津へも、希望者3人が行くという。ここは私が、生まれ育った町だ。出発は24日で、帰りは30日。死ぬ前に、もう1度、北朝鮮の町へ、ぜひ、行ってみたい、それは切なる念願でもあった。急に言われて、健康のこともあり、即決の決心はつかない。残念な旨を伝えた。一応、登録だけして、次の機会に期待しよう。私の家は、もう無いだろう。駅や、学校、大きな建物は残っているはず。目的は墓参りだが、私の父の墓は、おそらく不明だろう。場所は、ほぼ覚えている。仏教の墓と違って、カトリックは我が家が1軒のみだった。墓を見つけるのは難しいだろう。父親は、そこで寂しく眠っている。ふるさとの外海へ返してあげたい、願いである。
2012年10月12日金曜日
黙想5日目。恵みのなかで終わる。さあ、新しい出発だ
古い黙想のノートに、お坊さんの話が書いてあった。「寺は、照る、照る。帰りは、曇る。家に、着いたら、雨が、降る」。お寺さんで、いい話を聞いて、心は晴れ晴れしていたのに、家に帰る途中で、姑のこと、家族のことを思えば、曇り始め、家に着いたら、バクハツして雨になる。人との出会いは恵みだが、あるときは、後悔することもある。聖コルベ館に多くの見学者がくる。実際を言えば、当方の気分次第で、イラ立つこともあり、案内の失敗もある。そんなとき、どうするか。前もって、心の準備をしておく。「主が、来られます」と、前もって考え、訓練し、練習しておく。いわゆる『構え』です。自分に、少々の弱さや、欠点があっても、構えて居れば、先を制する。剣道でも、そうでしょう。構えから始まる。構えておれば、スキを与えない。黙想も、いよいよ、午前中、レンゾ神父さんの話を聞いて、昼食をいただいて、終わりました。聖コルベ館から迎えが来て、黙想の家を後にした。ごらんの通り、明るいカオして、終わりましたよ。「今を、生きる。ここに、働くのが、神さまの望みです」
2012年10月11日木曜日
黙想4日目。信仰年が始まる。長崎教区では告白のすすめ
黙想の家から見た、長崎の港の夜景です。長崎では、年に何度も、海に花火を打ち上げる。山手の聖母の騎士からは見えない。「ここからなら、花火がよく見えるでしょう?」と、家の者に聞くと、「よく見えます」とうなずいた。レンゾ神父さんの専門はキリシタンだから、黙想の話のなかで、その時代の信徒や、修道士たちの愛の活躍の説明もあった。10月11日、今日から、「信仰年」が始まります、との説明も。長崎教区では、赦しの秘蹟を受けるように勧めている。黙想中なので、レンゾ神父さんに告白する。「『気づき』が生活の華です。あの人の愛に、気づき、彼の思いやりに、気づく。気づきは、心を開いている証拠。気づきは、人を豊かにする。神さまの愛に、気づく。主が、ここに居られることの、気づき。イヤなヤツが来たな、でも、待てよ、エガオで迎えてよろう、なぜ?あることに、気づくから。バッグのなかに、古いノートが入っていた。平成元年の、年の黙想のメモだ。20年前の記録になる。懐かしくて、興味深く読み返す。「神の愛の、証拠が欲しい」なんて、書いてある。告白しながら、泣いたことも書いていた。50代半ばから、60代だから、意味シンだ。いろいろ有ったよ。レンゾ神父さんが言ったな。「それでも、神さまが、私だけに対する呼びかけ、自分だけのものがある。罪や、落ち度も、自分の1部であった」。神さまの愛は、深い。甘えて、落ちることは赦されない。
2012年10月10日水曜日
黙想3日目。生かされて、今日も、祈るが・・・反省も
黙想に入る前、私なりに、幾つかの、こだわりがあった。その1つが、『生かされて、今日も、祈る』です。それは、そうでしょう。今年になって、入院、6回。病者の塗油の秘蹟まで受けたが、何とか生かされて、イノチつないで、今日も、祈りができる。ありがたいことですが、私は本当に、祈っているだろうか、の反省がある。聖務日祷や、朝夕の祈り、ロザリオなど、共同で唱える時には問題はない。怠ることなく果たしている。しかし個人で、本当の祈りができているか。ポーランド人修道士たちは外出する前、帰ってから、きちんと、聖堂へ行って、短く祈って出かけていた。私は見ているわけです。それを果たしているかと言えば、アタマをひねる。旅行をしたとき、外出して遅くなったとき、祈りをせずに寝る場合がある。これに反省するわけです。それは、形にはまった祈りかもしれない。出来ないことに、後悔があるわけです。個人でも単純に祈るようになる場合は、前々からの、習慣が必要でしょう。個人で、内面の、深い祈りがしたい、それが願いです。黙想に入って、レンゾ神父さんから、受けた『固有の召命』の冊子。これを読んでいると、次のように書いてあった。「祈りは、私たちが、神に差し上げるものではない。実際、神に私たちから与えることのできるものは、何1つないのです。祈りは、むしろ、神がご自身を私たちに与えられるように、私たちが心を開くことに他なりません。そこで、もし私たちが心を開こうとすれば、それは最も深い核心に触れるような、心の深みではないか。私たちが、真実に自分自身でいられるところ、私たち1人1人が、最も独自な自分であるところなのです」。これを読んだとき、別の方法でも祈れると、開眼しました。ロザリオの代わりに、ゆっくり聖書を読み味わうことも。私の場合、聖務日祷の「共同祈願」の祈りを、じーっくり、味わい、黙想する習慣ができつつ、あります。
2012年10月9日火曜日
黙想2日目。罪は悪いが、神は、こだわっては、おられない
黙想の家から見た、長崎の港の風景です。時折、汽笛が聞こえたり、大きな外国船がはいて来る。山の上なので、静かな場所だ。レンゾ神父さんの話は、「自分だけ、それは神の自分に対する呼びかけ。自分だけの、召命がある。それに気づきなさい」から始まったが、更にレンゾ神父は言った。「これは、自分しか出来ないこと。罪も、落ち度も、自分の1部であった」。それを聞いたとき、過去の落ち度を思い出して、この「罪も自分の1部であった」部分に、大きな慰めを得ました。有る程度、肯定しないと、ダメ、ダメでは、ゲンキが出ないです。罪は確かに、悪いが、今は、神は、こだわっては、おられない。そこで「神さまの愛は、どうしたら分かりますか」と聞く。それは、神が、私に対して、どんなに善い御方であるか、「神の善さ」の気づきにあるという。神さまは、私を、群集や、大衆の1人ではなく、私、固有の名前で呼ばれている。愛されている。この世が、いかに広くても、人類が多くても、私と同じコピーはない。そこに固有の召命があるというのです。結局、神さまというと、広大な、無辺な、宇宙を含めた壮大な存在をイメージする。そうではなくて、この私の小さな胸、小さな心に、神は着て下さる。名前を呼んで下さる。その神さまに、心を開けば、よい。私なりの仕方で、私、固有の求め方で、気づく。レンゾ神父は言った。「気づいたからには、感謝です。感謝と共に、何かの行動を起こしましょう」
2012年10月8日月曜日
黙想1日目。オマエの人生で、何か、燃えたか。そこから始める
修道会では、年に1度、1週間ほど、年の黙想をします。今年は既に、長崎市・立山の黙想の家で実施されたが、ちょうど入院中だった。そこで改めて、個人で黙想を行なう。指導には、日本26聖人館の館長、デ・ルカ・レンゾ神父さんにお願いした。忙しい神父さんなのに、快く引き受けてくれた。話は、日に2回。午前と午後。バイクで来られる。レンゾ神父さんの専門は、もちろんキリシタン研究です。神父さんとの最初の話は、神父さんの問い、「人生、振り返って、何か、燃えたか?」で始まった。考えてごらん。人生で、「燃えた」と感じた時が、必ず有ったろう。そのときこそ、神の働きだった。神の声だった。神の導きだったと、「ハッと」する瞬間が必ず、ある。神は、私を呼んでくださった。そういう意味のことを言いながら、レンゾ神父さんは1冊の薄い冊子を渡してくれた。「小崎さんから黙想を頼まれたとき、これを思い出した」そうだ。冊子の題名は『固有の召命』。ちょっと、堅苦しい。10年ほど前になるが、著者の神父さんが日本へ来て、この黙想の家でも、講義が行なわれたという。そのとき、レンゾ神父さんが、専門的な訳の相談に応じた。そもそも「固有の召命」とは何ですか。召命とは、招かれること。キリスト信者への召命、司祭や修道者への召命、など有るなかで、それとは別の、その人だけの、個人の、固有の、召命がある。ここで、レンゾ神父が「燃える時があったか?」と問うたわけです。「自分だけ、それは、神が、自分に対する呼びかけ、自分だけのものが有る。それに気づくことです」。ここから今年の黙想は始まった。
2012年10月7日日曜日
納骨に出かける。外海のカトリック墓地に、従兄は眠る
秋晴れのもと、外海のカトリック墓地で、納骨がおこなわれた。従兄のペトロが、ここに眠る。享年88。司祭がお祈りを唱えて、墓地を聖水で清めた。遺骨を、墓の下の地下室に納めた。先祖代々、ここに遺骨が眠っている。墓地は、山側にあった。前方には、集落が点在し、その向こうに、海が広がる。儀式が終わって、司祭が、「おうちは、見えますか」と問うた。みんなが、海のほうを見た。「あの、森の木々に囲まれて、見えません」と、子どもたちが答えた。あらためて眺める外海の集落だった。「そう言えば、あの場所で生まれて、育って、働いて、いま、皆さんに見送られて墓地に眠る」。長崎へ戻る車のなかで、シスターが次のように言った。「家を出て、入院するとき、本人は、もう分かっていた。神さまに、呼ばれる。きちんと背広を着て、ネクタイを締めて、心して、司祭をお迎えして、ご聖体を受けた。入院するなら、シスターがいる病院へします。最後まで、信仰を貫いて、神さまに召された」。うらやましい死に方だった。常日頃、信仰に生きたからこそ、最後を立派に、息を引き取ったに違いない。シスターが又、言った。「母の命日に亡くなった」
2012年10月6日土曜日
ひさしぶりに墨絵が戻る。掛けて、満足。長崎南画という
今朝の祈り。聖務日課から。①キリスト信者ならば、神の、み旨を求めて、生きなさい。み旨とは、何んですか。確信を得て、実行したいと、思う。しかし実感するのは、むずかしい。②人びとと、共に喜び、共に苦しみなさい。これが、もっと、むずかしい。人が喜べば、素直に喜べない。苦しむ人を見ても、助けられない。誰もが、弱さを持っている。要は、キリストの心で、人に仕える、と祈りましたが、いろいろと事情があり、とても簡単には、できない。次に③家庭に、平和を、願う。不幸な家庭もある。離散した家庭もある。親のない家庭は寂しい。最近は、それらに類する話をよく聞く。これらの家庭に幸せを、それが願いです。最後に④ブドウの木に結ばれて、豊かなブドウの実が稔る、とあった。この祈りを捧げて、小崎修道士が描いたブドウの墨絵を思い出した。7年ぶりに、手元に戻ってきました。聖コルベ館の玄関、柱に、掛けました。誰か、気がつくでしょう。自分では、まあ、まあ、よく書けていると思います。長崎南画といいいます。5年ほど、先生について学びました。筆に、墨をつけて、一発で、スー、スーっと、描くんです。一発勝負が、気に入った。自分の性格に合う。残念ながら、長崎南画は、手本があって、結局は模写なのですね。模写しても、ねえ。そんな気持ちで、じょじょに遠ざかった。墨の力で、分かる。あの頃は、まだ力量があった。
2012年10月5日金曜日
秋晴れの日。老人たちの運動会。パワーがあるよ
老人ホームの運動会に参加した。100歳が、2人。90歳以上は、わんさと居る。参ったなあ。負けておれんぞ。闘志が、湧く。「来賓の方は、出てください」。見れば、ハシゴくぐりだよ。イヤだよ。あんなの、くぐったのは、もう、昔だよ。ヤメとこ。長寿の元とは、何ぞや?噛むことかな、沢山、食べることかな。運動会といえば、思い出すよ。むかし、むかしの、神学校(高校生)時代、学校の競技が、神学校らしく、ユニークだった。ムカデ競争があった。長い板に鼻緒をつけて、10人ぐらいで、足のリズムを合わせて、イチ、ニ、と声をかけて走る。付いた競技の名が、「従順」。着物を沢山、着ていて、1枚、1枚と、脱いでいく。「清貧」。あち、こちに、ファチマ、ルルド、ローマなど、場所を決めていて、そこを訪ねる「聖地巡礼」。あんな時代もあったんだなァ。懐かしいよ。
2012年10月4日木曜日
今日は師父聖フランシスコの祭日。イエスに似た者となる
師父聖フランシスコの祭日です。写真は、2003年10月4日、アシジに居りました。すばらしい1日でした。下は、アシジのウンブリア平原。いい所ですよ。イタリアでは国祭日だそうで、沢山の巡礼者が雲集ですよ。限られた地方の者しか教会・修道院内には入れない。毎年、祭りを仕切る各地方の担当が変わると聞きました。「神さまの愛が分かりません」という時には、アシジの聖フランシスコの生き方、生涯、彼の行動、思いに迫ったら、少しは分かるようになるのでは、ないでしょうか。フランシスコさまの生き方を見れば、本当に優しさのなかに神さまの愛が分かる気がします。神さまの愛が分かれば、大したものですよね。これが基本ですから。絶えず望みたい願いです。思いますよ。「信仰とは何ですか?」「その人の生き方でしょう」「信仰して良かった事は何ですか?」「守られている。導かれている。それを、自分の存在の底辺で実感している、本当に、そう思えることが、良かったこと、ではないでしょうか。有るんですね、守られていた、導かれていた、という実感が。実例が。それは、ゆるぎない事実です。誰にも言えない小さな体験かも知れないが、本人にとっては大きな推進力、それが信仰になっているのは、確かです」
2012年10月3日水曜日
黒崎出身の神父さんたち。「トマさん」と親しくしてくれる
「おい、トマさん、ゲンキそうじゃ、ないか」と、教区の神父さんから親しく声をかけられる。ひさしぶりに出会った神父さんたちです。外海・黒崎出身の神父さんたちで、わたしも父が黒崎出身だから、黒崎出身となっている。この神父さんたちから親しまれ、心やすく呼びかけてくださる。だいたい修道士というと、一歩、引く感じがする。修道士と司祭では、基本から違うからね。司祭は、公に、皆さんの前で、司教さまから、司祭職を授けられる。公の聖職者です。修道士は個人の、道を求める人に過ぎない。それが、この神父さんたちは、「おい、トマさん」「トマさん、遠慮するなよ」と、近くに引き寄せて、仲間として、親しんでくださる。ありがたいじゃ、ないですか。この中の1人が司祭金祝のとき、また写ってはいないが、もう1人の司祭金祝のとき、「おい、祝賀会のときのカンパイの音頭は、トマさんに頼むからな」とムリに強いられ、困ったよ。思う乾杯の音頭は取れなかった。口べたは、悩むよ。
2012年10月2日火曜日
福松さんの冥福を祈った。教会の中央に福松さんの遺影があった
キリシタンの里といわれている外海・黒崎教会。多くの悲しみの人が、ペトロ田川福松さんの冥福を祈りました。参加して、祈ってみて、本当に、カトリックらしいと言うか、悲しいのに、なぜか、心の安らぐ葬儀でした。また写真のように、教会の雰囲気があるのです。福松さんはこの村で生まれ、この教会で洗礼を受けて、この教会への祈りから兵隊へ行って、凱旋して、この教会で生涯、祈りつづけてきた。2000年には大改築を率先した。いま、皆さんから見送られて、自分と神さまの壁になっていた肉体を取り払って、神のイノチと、愛に包まれていく。本当に恵まれた福松さんの生涯でした。参加している人たちも、福松さんと一緒に祈り、議論し、笑い、励ましあった皆さんです。そう思うと、本当に、葬式の意味がよく分かります。よく、テレビなどで、イタリアや、スペインの小さな村で、村全体の人から見送られている場面を見ているが、全く、そのような感じがしました。いいですね。福松さんは幸せだった。やっぱり、人は死ぬときも、ケジメをつけて、人生の舞台を終わりたい、幕を引きたい、そう思った一日でした。福松さんの平安のためお祈りください。
2012年10月1日月曜日
外海・黒崎の従兄が他界。出かけます。88歳、安らかな死
外海の従兄、福松さんが神に召された。88歳であった。福松さんの思い出は、戦争中に、黒崎の農家で、電気はなく、カンテラを灯して、私より4つ年上の彼が、漢字や算数を独学で学んでいた。そのうち、軍人勅諭を覚えることになる。この文面は、長いものであった。彼はそれを全く、全文覚えて入隊した。彼の誠実さが認められる。部隊はビルマ戦線の激戦地へ向かった。ほとんど全滅する。しかし誠実だった福松さんは、その人柄を買われて、部隊長付きになる。そのため幸いにも生き延びて、復員した。戦後は、村の役場に定年まで勤めた。私が福松さんについて、感心することが幾つかある。①その第1が、ヴィンセンシオ会を最後まで勤めたことだ。戦争が終わって間もなく、黒崎に、長崎から片岡弥吉先生が来られて、ヴィンセンシオ会を勧めた。これは信徒が活躍する福祉の会だった。②第2は、2000年の黒崎教会大改修に努めた働きであった。最初から完成まで、工事や寄付や、すべての記録をまとめて出版した。建築学的にも貴重な資料になっている。大学から声もかかる。③第3は、やはり信仰であろう。結婚し、1男3女に恵まれる。夫婦で朝夕、祈りをとなえ、ミサで祈り、教会の務めに熱心だった。この3ヶ月ほど病んで、全く痛みは無く、最後は、無意識のうちに、両手をいっぱいに差し出し、高く上げ、思わず、まわりの人が「天国が、見えるね」と叫んだ。答えはなかったが、それから間もなく神に召された。こんな幸いな死に方があろうか。福松さんの家は、私の父親が生まれた家でもある。座敷に、ペトロ福松さんは眠っていた。小崎修道士と、橋口修道士と、松下修道士の3人は、福松さんの前で、ロザリオを唱えて、冥福を祈って来ました。
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