京都・宇治の柴田さんから、写真と手紙が送られてきた。「20年振りにおとずれた聖母の騎士修道院での小崎修道士、前よりも輝いていらっしゃいましたし、お元気そうな御姿を拝見致し、本当に嬉しゅうございました。帰宇して2日後に聖母の騎士誌が届き、終油の秘蹟をお受けになっておられた小崎修道士を見て、全然違った御方のようでしたよ。修道士はどんな御病気にも勝たれますよね。不死身とは修道士の事を言うのだと、つくづく感じ、神さまの御手の中で、御手の一番近い所に囲まってもらっていらっしゃると確信致しております。本当に嬉しく、また20年前に逢ったフランシスコ中村修道士も御元気との事、帰りし、うれしくて涙が流れました。10月14日(日)は浦上天主堂でミサに与かり、その後、如己堂に行きました。館長をしておられる永井徳三郎さまにも逢う事が出来、亡きかやのさんの写真を持って行き、おみせ致しました。登明修道士に再会し、神さまに感謝です。御元気でどうぞいつまでも御元気でいて下さいませね。御祈り申しております。」長崎のカトリック修道士。17歳の時、原爆を受けて、この道に入る。 生かされて来た数々の恵みの中で、今年の1月、最大の試練「すい臓がん」を告知された。 「みむねの・ままに」。孤独と苦痛に耐え得るチカラを日々、祈る。 毎日、日記を書き続けて13年。今、長崎市の病院・ホスピス病棟で暮らす。 追記 2021年4月15日 午後6時48分 帰天されました。享年93歳
2012年10月31日水曜日
ありがたい、お便り、届く。修道士は不死身じゃありません
京都・宇治の柴田さんから、写真と手紙が送られてきた。「20年振りにおとずれた聖母の騎士修道院での小崎修道士、前よりも輝いていらっしゃいましたし、お元気そうな御姿を拝見致し、本当に嬉しゅうございました。帰宇して2日後に聖母の騎士誌が届き、終油の秘蹟をお受けになっておられた小崎修道士を見て、全然違った御方のようでしたよ。修道士はどんな御病気にも勝たれますよね。不死身とは修道士の事を言うのだと、つくづく感じ、神さまの御手の中で、御手の一番近い所に囲まってもらっていらっしゃると確信致しております。本当に嬉しく、また20年前に逢ったフランシスコ中村修道士も御元気との事、帰りし、うれしくて涙が流れました。10月14日(日)は浦上天主堂でミサに与かり、その後、如己堂に行きました。館長をしておられる永井徳三郎さまにも逢う事が出来、亡きかやのさんの写真を持って行き、おみせ致しました。登明修道士に再会し、神さまに感謝です。御元気でどうぞいつまでも御元気でいて下さいませね。御祈り申しております。」2012年10月30日火曜日
名も知れない花だけれども、せいイッパイ咲こうではないか
2012年10月29日月曜日
人は老いても、性格のシンは、変わらない。それで、いいのだ
2012年10月28日日曜日
10月最後の日曜日は、ロザリオ祭り。祈りと、聖歌で祝った
2012年10月27日土曜日
教えて、何と読む?温泉から帰って、微熱が出た。抵抗力なし
★早速、1件のコメントが寄せられ、額内の漢字の意味が分かりました。寄せてくださったabramさん、ありがとう。助かりました。『静黙治道』(せいもく・みちを・おさむ)と読みます。静かなる振る舞いで、言葉少なく、人の修める道を、正しく治める。修道院や黙想の家には、貴重な言葉かと思います。
2012年10月26日金曜日
雨のなか、無事に帰る。ブリの裏には、タイの話題あり
午前10時頃には、聖コルベ館に着いた。洗濯をし、干していた物を乾燥機にかけて、昼食に出た。8人が食卓に居た。「どうも、おかげで、ゲンキになりました」と、先ずは皆さんに挨拶。早速、気になっていることがあった。出かけたのは、水曜日で、この日は、松下修道士さんの休みの日で、いつもサカナ釣りに行っている。「松下さん、どう、だった?あの日の水揚げは?」と声をかける。松下、当の本人は、フフ、フ、と笑って、「1ピキ。大きな、タイを、釣り上げたよ」と、満足カオ。「もう、サシミは残って、いない?」「ある、もんね、そんなに長く」と切ない返事。松下さんが写真を見せてくれた。それが、これです。「でかい、なあ」。感服した次第です。ごらんの通りの、こんなタイを釣り上げたんですからね。その日が、10月24日で、なんと誕生日だったという。「ええ、すばらしい」と感動ものだよ。昭和19年、戦争中に生まれた。外海の黒崎出身。「その日は、釣れるぞとという感触は、ありました?」「あったね。神さまは、いいプレゼントを、くださる」。普通は2人で漁に出ている。あいにく相棒の神父さんが上京のため、1人で出た。神の島のマリア像の足元を舟で出るとき、祈ったという。このタイの話を聞いた後、私は秘かに思ったね。あの水曜日、私は、ブリ神父さん(ポーランド人)の教会を訪ねていた。ブリ神父は言った。「タイには、成りきれない、ブリだよ」。相対する日に、一方では、現実にタイを釣っていたとは、ねえ。オレのアタマでは、見事に、つながった。おもしろいなあ」と感心した日でした。2012年10月25日木曜日
島原2日目。天草に渡る。切支丹は使うなと、天草のヒト
2012年10月24日水曜日
島原(オバマ)温泉へ。ひさしぶり出かける。教会へ寄る
2012年10月23日火曜日
ポン、ポンと、語って、ああ、悔いが残る。これも気性か
応対や、会話で、よく失敗する。機嫌(きげん)もんですからね。しゃべり方が一気で、自分のことだけ話して、ハイ、それで終わり。ぶっきらぼう、と言うか。短気と言うか。反省すること、しばしばです。自分でも、イヤになります。聖コルベ館への見学者も、声をかければ一歩、引く者も居り、無反応も居る。出会いは、大切。信仰的には、「主が来られた。思いなさい」。そうは言われても、現実には、いま、ブログを書いている、これこれの都合もある。なかなか平穏には、行かない。そこで前もって、『構え』ておく。構えの気持ちを持っておく。すると、お客が突然、来たときでも、穏やかに接することが出来る。1度、失敗すると、イヤーな気持ちが、残る。「小崎サンは、構えているから、イカンよ」と言われたこともあった。でも、ね。心の準備は必要だろう。剣道でも、構えていないと、打たれる。負けだよ。いま思うことは、①会う度ごとに「大丈夫ね」と言われる。イヤだよ。10月になって、尿のスカスカは全く出なくなった。落ち着いたのか。②それでも、この冬、どうやって寒さをしのぐか。寒さに堪えるから、心配している。③この度も、北朝鮮への旅に行かなかった。これは大きく心残りとなる。④騎士誌の12月号の記事を書き上げた。もう、これが最後の原稿かも。いま、迷っている。
2012年10月22日月曜日
福者ヨハネ・パウロ2世の記念日。亡くなって、7年になる

今日は、カトリック教会で、福者ヨハネ・パウロ2世教皇さまの記念日です。ミサのとき、思い起こしました。パパさまは、日本へ来られたとき、長崎・聖母の騎士修道院へも来られましたからね。聖コルベ記念館の資料室には、当時の写真や、歓迎の品々が展示されている。それに、私、個人にとっても、ヴァチカンで何度か、お傍近く、接することが出来ましたが、なかでも、最も個人的な思い出は、写真の、パパさまから、アタマをなでられたことです。このときから、アタマが良くなりました。ちょっと、遅かったけどね。もう1回は、ポーランド・ニエポカラヌフ修道院で、特別謁見があり、自著『長崎のコルベ神父』を贈呈しました。(下の写真)。このときは更なる感動でした。右隣に居るのは、ポーランド人ローマン修道士で、一緒にポーランドへ行っていた。私の通訳です。ローマン修道士は現在でも、98歳で元気です。謁見は特別扱いで、夕方のテレビでも、日本人の修道士も居たと、紹介されました。こんな思い出もあったんですね。ジンセイ、いろいろ、懐かしいです。パパさまは、本当にお優しい教皇さまでした。ポーランドで、私の贈呈の後で、ポーランド人の農夫がパパさまにヒツジを贈呈しましたが、「メエ、メエ」と泣いていた。あのヒツジはヴァチカンへ運ばれたかな。2012年10月21日日曜日
列車のなかで、弁当を食べる。長崎に着くと、真っ先に帰る
2012年10月20日土曜日
博多へ。従兄は神に召される。永久の冥福を祈った
2012年10月19日金曜日
秋風がふく、この頃だよ。ネコちゃんは、のんびりで、いいな
2012年10月18日木曜日
博多へ、列車で日帰り。ホスピス病棟の従兄を見舞った
2012年10月17日水曜日
カラダの調子は、よい、ようです。まだ、まだ、がんばらんばね
2012年10月16日火曜日
両親と男の子2人、ルルド参詣、告白して、愛の家族に
聖母の騎士のルルドの聖母マリアさまです。最近、きれいに塗り替えました。美しいマリアさま。親しみがあります。「ピン、ポン」と聖コルベ館のチャイムがなって、お父さん、お母さん、小学上級男子、小学下級男子の4人づれの家族が入ってきた。「ルルドのマリアさまのところで、お祈りしてきました」。4人を聖コルベの居室に案内し、説明した。子どもが居るので、ビデオ(8分)を見せましょう、と彼らにコルベ神父のアウシュヴィッツでの身代わりの場面を見せた。そして少し、小学生の男の子たちに、「周りの人に対する優しさ、家族や、クラスの友だちや、それらの人たちに、助けてあげたり、許してあげたり、支えてあげる、それがコルベ神父さんの望まれた愛だよ」と、少年たちの目を見て語った。まじめに聞いていた。彼らは満足して、帰った。その日の食事のとき、この4人家族の話が出た。受付をしていた係りの話しでは、彼らは、県の北部の市から来ていて、「みんな、告白を願った」という。それを聞いて、本当に嬉しくなった。これぞ長崎信者です。日曜日だから家族で、長崎のルルド参りに行こう、そして告白しよう。キレイな心になって、神さまのため、いい家族を築こう、なんと素晴らしい家族じゃないですか。長崎には、こんな実践の家族が、かくれた場所で静かに信仰をつないでいる。この家族のために祈ろう、幸せを祈ろう、そんな気持ちになった。信仰年も始まった。こういう信者の家庭が増えていくことを望んでいる。2012年10月15日月曜日
学園の卒業生たち、一堂に集まる。皆の顔、輝いているぞ
2012年10月14日日曜日
まあ、小崎サン、20年ぶり、会いたいでした。うれしい
10日ほど前に便りがあった。期日を指定して、「ぜひ、小崎サンを訪ねたい。会いたいです」と、熱望される。「ありがたいけど、今は約束していません。近くになったら、お電話を」。そして電話があって、「京都・宇治から訪ねて来ました」と、2人の女性が現れた。敦代さんと、静枝さん。敦代さんは、「20年前に来ました」と、下の写真を見せた。若い頃のボク。赤色のメガネなど掛けて、恥ずかしいよ。「小崎サン、お若いね」「フ、フ、フ、まんざらでも、ないね」。出会いを、2人は、心底から喜んでいる。落ち着かない。「ダンナさんは?」「家で、ルスバン。実はね、今日は、結婚、金祝の日なの」「えーっ、めでたい」。一方、静代さんは、長崎は初めてのよう。「2年前から、騎士誌を読み始めて、小崎サンの文章を楽しみにしている。5月号を読んで、病気で大変と知って、訪ねる気持ちになった。おゲンキそうで、安心しました」。同行の敦代さんは、洗礼の代母さん、という。「仲が、いいのね」。2年前に、母を、4年前に、父を亡くした。敦代は一緒に病気の両親の世話をしてくださった。お母さん代わりになっている。「写真、撮って」。嬉しいじゃないですか。わざわざ訪ねてくれて、励ましてくださる。「出逢いだけが目的で、2泊3日の旅です」「ああ、宇治ね。行ったこと、あるよ」。洗礼名は、「ルチア」と「小さきテレジア」。どっちが、どっちか、忘れた。20年前の、いっしょの場所で、また写真を撮った。2人は満足して、喜んで、オミヤゲ渡して、帰っていった。若い方の静枝さんは、「亡き両親のため、お祈りしてください」と願った。こんな出会いもあるんだなあ。2012年10月13日土曜日
黙想、帰ると、電話。北朝鮮へ行かないか?え、困難だ
黙想から帰ってくるなり、いきなり緊急の電話。新聞社からだった。「モシ、モシ、小崎サン、北朝鮮の羅津に行く旅行があります。返事は今日の4時まで。決めてください」。そう言われて、びっくりです。ありがたい話でもある。最近、テレビでも、清津会のメンバーが行動して、北朝鮮の墓参りが許され、調査団が現地を訪れている。早速、新聞社から教えられた電話番号へ電話を入れる、状況の話を聞いた。今度は2度目の訪問になる。一行の中から、羅津へも、希望者3人が行くという。ここは私が、生まれ育った町だ。出発は24日で、帰りは30日。死ぬ前に、もう1度、北朝鮮の町へ、ぜひ、行ってみたい、それは切なる念願でもあった。急に言われて、健康のこともあり、即決の決心はつかない。残念な旨を伝えた。一応、登録だけして、次の機会に期待しよう。私の家は、もう無いだろう。駅や、学校、大きな建物は残っているはず。目的は墓参りだが、私の父の墓は、おそらく不明だろう。場所は、ほぼ覚えている。仏教の墓と違って、カトリックは我が家が1軒のみだった。墓を見つけるのは難しいだろう。父親は、そこで寂しく眠っている。ふるさとの外海へ返してあげたい、願いである。2012年10月12日金曜日
黙想5日目。恵みのなかで終わる。さあ、新しい出発だ
2012年10月11日木曜日
黙想4日目。信仰年が始まる。長崎教区では告白のすすめ
2012年10月10日水曜日
黙想3日目。生かされて、今日も、祈るが・・・反省も
2012年10月9日火曜日
黙想2日目。罪は悪いが、神は、こだわっては、おられない
2012年10月8日月曜日
黙想1日目。オマエの人生で、何か、燃えたか。そこから始める
2012年10月7日日曜日
納骨に出かける。外海のカトリック墓地に、従兄は眠る
2012年10月6日土曜日
ひさしぶりに墨絵が戻る。掛けて、満足。長崎南画という
2012年10月5日金曜日
秋晴れの日。老人たちの運動会。パワーがあるよ
老人ホームの運動会に参加した。100歳が、2人。90歳以上は、わんさと居る。参ったなあ。負けておれんぞ。闘志が、湧く。「来賓の方は、出てください」。見れば、ハシゴくぐりだよ。イヤだよ。あんなの、くぐったのは、もう、昔だよ。ヤメとこ。長寿の元とは、何ぞや?噛むことかな、沢山、食べることかな。運動会といえば、思い出すよ。むかし、むかしの、神学校(高校生)時代、学校の競技が、神学校らしく、ユニークだった。ムカデ競争があった。長い板に鼻緒をつけて、10人ぐらいで、足のリズムを合わせて、イチ、ニ、と声をかけて走る。付いた競技の名が、「従順」。着物を沢山、着ていて、1枚、1枚と、脱いでいく。「清貧」。あち、こちに、ファチマ、ルルド、ローマなど、場所を決めていて、そこを訪ねる「聖地巡礼」。あんな時代もあったんだなァ。懐かしいよ。
2012年10月4日木曜日
今日は師父聖フランシスコの祭日。イエスに似た者となる
師父聖フランシスコの祭日です。写真は、2003年10月4日、アシジに居りました。すばらしい1日でした。下は、アシジのウンブリア平原。いい所ですよ。イタリアでは国祭日だそうで、沢山の巡礼者が雲集ですよ。限られた地方の者しか教会・修道院内には入れない。毎年、祭りを仕切る各地方の担当が変わると聞きました。「神さまの愛が分かりません」という時には、アシジの聖フランシスコの生き方、生涯、彼の行動、思いに迫ったら、少しは分かるようになるのでは、ないでしょうか。フランシスコさまの生き方を見れば、本当に優しさのなかに神さまの愛が分かる気がします。神さまの愛が分かれば、大したものですよね。これが基本ですから。絶えず望みたい願いです。思いますよ。「信仰とは何ですか?」「その人の生き方でしょう」「信仰して良かった事は何ですか?」「守られている。導かれている。それを、自分の存在の底辺で実感している、本当に、そう思えることが、良かったこと、ではないでしょうか。有るんですね、守られていた、導かれていた、という実感が。実例が。それは、ゆるぎない事実です。誰にも言えない小さな体験かも知れないが、本人にとっては大きな推進力、それが信仰になっているのは、確かです」2012年10月3日水曜日
黒崎出身の神父さんたち。「トマさん」と親しくしてくれる
2012年10月2日火曜日
福松さんの冥福を祈った。教会の中央に福松さんの遺影があった
2012年10月1日月曜日
外海・黒崎の従兄が他界。出かけます。88歳、安らかな死
外海の従兄、福松さんが神に召された。88歳であった。福松さんの思い出は、戦争中に、黒崎の農家で、電気はなく、カンテラを灯して、私より4つ年上の彼が、漢字や算数を独学で学んでいた。そのうち、軍人勅諭を覚えることになる。この文面は、長いものであった。彼はそれを全く、全文覚えて入隊した。彼の誠実さが認められる。部隊はビルマ戦線の激戦地へ向かった。ほとんど全滅する。しかし誠実だった福松さんは、その人柄を買われて、部隊長付きになる。そのため幸いにも生き延びて、復員した。戦後は、村の役場に定年まで勤めた。私が福松さんについて、感心することが幾つかある。①その第1が、ヴィンセンシオ会を最後まで勤めたことだ。戦争が終わって間もなく、黒崎に、長崎から片岡弥吉先生が来られて、ヴィンセンシオ会を勧めた。これは信徒が活躍する福祉の会だった。②第2は、2000年の黒崎教会大改修に努めた働きであった。最初から完成まで、工事や寄付や、すべての記録をまとめて出版した。建築学的にも貴重な資料になっている。大学から声もかかる。③第3は、やはり信仰であろう。結婚し、1男3女に恵まれる。夫婦で朝夕、祈りをとなえ、ミサで祈り、教会の務めに熱心だった。この3ヶ月ほど病んで、全く痛みは無く、最後は、無意識のうちに、両手をいっぱいに差し出し、高く上げ、思わず、まわりの人が「天国が、見えるね」と叫んだ。答えはなかったが、それから間もなく神に召された。こんな幸いな死に方があろうか。福松さんの家は、私の父親が生まれた家でもある。座敷に、ペトロ福松さんは眠っていた。小崎修道士と、橋口修道士と、松下修道士の3人は、福松さんの前で、ロザリオを唱えて、冥福を祈って来ました。
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